02
 凭れた柱に沿って、ずるずると身体を下ろしていく。座るような体勢になった所で、俺は畳に倒れ込むように寝そべった。

 ちくしょう、何だよこれは!

 身体が動かない分、心の中の怒りが激しくなっていく。
 山南からも昼間は余り動けませんよと言われた気がするが、その後に聞いた「血を欲するようになる」という言葉の印象が強過ぎて、深刻に考えていなかった。
 これじゃ何も出来ねぇじゃねぇか。
 自分の意思で何もしないのと、意思など無関係に何も出来ないのとでは、精神的な重みが全然違う。

「そーま……」

 思わず呟いたその名が憎い。俺がこんなことになったのは、相馬と山南の所為だ。絶対に許さねぇ、いつか必ず殺してやる。
 けれど今は、その相馬に頼らなければ生きていけない。何という屈辱だ。

 悔しくて、畳に爪を立てて掻き毟った。青臭い匂いが鼻を突いて、また息苦しくなる。どうにも出来ない憤りで、声にならない声で俺は叫んでいた。叫んだところで、どうせ誰も来やしない。受け入れ難いこの現実を憂いて、少しだけ泣いたこともきっと誰にも知られることは無い。
 こんなに辛くて苦しいのに、それでも眠くならない自分が怖くなった。
 もしかして、俺は明日もこんな目に遭うのか? 吐き気と眩暈と息苦しさと、まともに動かない重たい身体で、悔しくて畳を掻き毟るだけの明日しか待っていないのか?

 嫌だ、
   、、、嫌だ!


「兄貴……助けてくれ、兄貴…………」

 戻りたい、いつもの日々に。当然のように兄貴の隣に居られたあの日々に――――
 長い、長い一日だった。
 かたり、と戸の動く音がして、辺りを見るともう真っ暗になっている。開け放したままの縁側から、糸のように細い月が浮かんでいるのが見えた。

「夜、なのか……?」

 苦しいばかりだった所為で意識が判然としない。いつの間に夜になっていたのだろうか。身体を動かしてみれば、辛さが消えているのが分かる。

三木組長――

 相馬の声がする。戸が動いたと思ったのは、相馬が来た音だったのか。
 そりゃそうか、こんな場所に用のある奴なんて他にいる訳が無い。

「相馬、こっちだ」

 俺の声を聞き、相馬の足音の向きが変わった。部屋の戸が滑り、開いた場所から相馬の顔が覗く。提灯の火が、その輪郭を照らしていた。

「食事を、お持ちしました」
「あぁ」

 相馬の顔を見た途端、昼の苦しい記憶が蘇ってきた。俺の腹の内に、炎のように湧き上がる怒りを必死で抑える。まだ時期じゃない。こいつにはこの先も世話にならなきゃいけないんだ、今殺すのは駄目だ――そう思っていたのに。

「ご気分は、どうですか?」

 相馬の口にした言葉で、俺は結局我慢が出来なくなってしまった。

「良い訳ねぇだろ! 昼は息をするのも辛かったんだ、お前にこの苦しさが分かんのかよ!」

 突然怒鳴り出した俺に、相馬の身体がびくりと震える。
 すみませんと謝る姿にも腹が立つ。抑えるなんて無理だった。それどころかどんどん苛々してくる。

「食いもんをそこに置いてこっちに来い、一回殴らせろ!」

 俺の言葉に相馬は分かりましたと頷いて、食事と提灯をそこに置き、素直に俺の前に立つ。力任せに相馬の胸倉を掴み、もう片方の手で拳を作った。当然、俺は殴るつもりでいたからだ。
 それなのに、殴られると分かっている筈の相馬が静かに目を閉じる姿に、振り上げた拳を止めてしまう。いつまで経っても殴らない俺を訝しんで、相馬が目を開け「殴らないのですか?」と問う。舌打ちをして、俺は相馬から手を離した。

「三木組長、」
「その組長っての止めろ、俺はもう組長じゃねぇだろ」
「いえ、三木組長は組長のままです。伊東さんを含め、新選組の皆には三木組長は幕命で特別な任務に当たっていると説明してあります」
「はぁ? そんな嘘、誰が信じるんだよ?」

 俺が吐き捨てるように言うと、相馬は首を傾げた。

「誰も疑ってませんでしたよ。むしろ流石だと、三木組長の隊の人達は喜んでいましたし、伊東さんも嬉しそうでした」
「兄貴が? 兄貴は、幕府を見限ってた筈だ、喜ぶ訳がねぇ」
「いえ、幕府からの命令を受けたという所ではなく、三木組長の力を他の人達が認めていることが嬉しいようでした」

 兄貴が喜んでいる姿を想像して、少しだけ溜飲が下がる。

「急の事だったので挨拶も出来ずに出て行くしか無かったことを悔やんでいたと、伊東さんには伝えてあります」
「そうか」
「はい、ですから三木組長は今も新選組の三木組長のままです」

 そう言われて、その時は俺も納得した。

「それと、殴って気が済むのでしたら幾らでも俺を殴って下さい」
「……俺はまだ新選組なんだろ? いまお前を殴ったら、局中法度に背く事になるだろうが」
「誰も見ていませんし、俺は誰にも言いません。それに、三木組長には俺を怒る権利がありますから」

 そう言って俺を見つめる目に、気が殺がれた。

「もういい、俺は腹が減ったんだ。飯食うぞ、お前も付き合え」
「いえ、俺の分はありませんから」
「だったら俺が食い終わるまでそこに居ろ、こんな暗闇で一人で飯食うとか有り得ねぇだろ」
「分かりました」

 相馬の持ってきた飯は美味かった。
 普通の飯を美味いと思えることに、俺は安堵する。良かった、血なんて欲しくなってない。俺は人間だ、何も変わっちゃいないんだ。
 気付けば、髪の色も戻っている。提灯の弱い灯りでは自信が持てなかったが、相馬に確認を取ってみたところ、髪の色も目の色も戻っていると言われた。

「どういうことだ? もしかして、もう人間に戻れたのか?」
「山南さんから聞いた話では、常時見た目に変化が現れている訳ではないそうです」
「なら、また俺の髪は白くなっちまうのか?」
「……俺には、はっきりとした事は言えません。山南さんのことを知らされたのも最近で、まだ余り詳しくないんです」
「だったらもっと山南に確認して来いよ、俺は屯所には戻れねぇんだからよ」
「はい、俺ももっと知識を付けていきたいと思ってます」

 そうしろと俺が答えたのを最後に、その後はお互いに口を開く事は無かった。食事を終えた俺に、明日もまた来ますと一礼してから、相馬は静かに去って行く。
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