かえりたい場所

 沈黙を保ったまま片付けを終え、寺の門前を掃除をしていた老婦人に頼んで客室に通してもらう。個人的な話に使っていいのかと尋ねた緑谷に、廻はだからこそだと答えた。今から落ち着いて話せる店を探すのも手間だからと。緑谷たちの間に流れる空気を察した老婦人は気遣わしそうにしながらも、麦茶のポットとコップを置くと早々に退室した。
 ひとまず炎天下で作業した後なので喉を潤わせる。客室は畳張りで窓際に風鈴が吊るされていたが、窓が閉め切られているためその役目は果たしていない。代わりにクーラーの冷風を吹かせる音がゴウンゴウンと鳴っていた。

「USJのとき、助けてくれたよね」

 口火を切ったのは廻だった。中身が半分に減ったコップを撫でながら言われた言葉に頷く。もちろん覚えている。廻との初めての接点。死柄木に害されかけたところを間一髪、どうにか間に合ったといった具合だったけれど。

「うれしかったよ。ありがとうって思ったのは本当。でも緑谷くん元々怪我してたのに更にボロボロになって、ちょっとこわかった」
「っごめん、僕まだ個性うまく使えなくて」

 怪我をする度に母やリカバリーガールにも言われたことだ。職場体験でフルカウルを習得してからは個性が原因の怪我は減ったが、安心させるにはまだ程遠い。
 緑谷の膝の辺りに落とされた視線に謝罪すると、ゆっくりと首が振られる。

「個性がなくても緑谷くんは助けるよ。あのときよりひどい怪我をするってわかってても、絶対」
「それは……だって、助けたいから」
「うん、知ってる。私のヒーローもそうだった」

 そう言うと、廻はようやく真正面を向いた。やや歪な笑みを痛々しく思いながら「佳乃さん、だよね」と尋ねる。廻がひくりと片方の頰を持ち上げ、少しだけ顔を傾けた。目に影を作る前髪のおかげでその感情がいまいちわかりにくい。だのに明るくないことだけは伝わってくる。
 嫌な汗が背中に流れる。木椰区のショッピングモールでそうと知らず死柄木に肩を組まれたときの、不気味な空気を思い出した。

「佳乃さんのこと、おばちゃんにどこまで聞いた?」
「え? ええと、カイさんが昔お世話になった人で、頻繁にお墓参りしてること、くらいだけど……」
「そう。あのね、佳乃さんもカイって呼ばれてたんだよ」
「そ、そうなんだ」
「そもそも猫の名前だったんだけどね。知ってる? 佳乃の『佳』は音読みでカイとも読めるの。あの人はカイをとても可愛がっていたから、それを知ったときに私もカイって呼んでってお願いして、今も」

 不自然に回る舌。肌に刺さるような圧。わざとらしい手振り。
 睨まれているわけでも、ましてや首に触れられてもいないのに息がしにくい。瞳孔が開いているのが自分でわかる。
 耳鳴りがする。ザーッと、ラジオの砂嵐のような不快な音に紛れて、廻おなじみのあの台詞が聞こえて。

「いまも、……廻がカイって読めるから、そう呼ばせてる」

 ——廻と書いてめぐりだけどカイって呼んでください。

 四月の自己紹介のとき、廻はそう言った。朗らかな笑顔と、どこか強制力を持った声で。女子はすぐに呼び出したけれど男子は恥ずかしさから少し抵抗があって、しかし毎度訂正させる廻に折れていき、爆豪を最後に今ではクラスメイト全員が廻をカイと呼んでいる。
 緑谷が知っている廻をカイと呼ぶ経緯はそうだ。『佳乃さん』のことなんて知らない。だって廻は廻で、『佳乃さん』は『佳乃さん』だ。

「なん、お世話になったって」
「なったよ。“前の体”だもの」

 思わず腕をさすった。どうして死柄木を思い出すのか理解できなくて脳が焼き切れそうだ。頭に全ての血が昇ったのかと思うほどの温度差。顔色は青と赤どっちなんだろうと、至極どうでもいいことが頭を掠めた。
 廻はヴィランではない。わかっている。わかっているのに、廻と死柄木の歪な笑顔、緑谷へ向かう手が重なってしまい、心臓が大きく跳ねる。

「……ごめん、意地悪しすぎた」
「!」

 麦茶ポットへ手を伸ばす動きにすら動揺した緑谷に目を伏せ、廻は二つのコップに麦茶を注ぎ足す。飲んで、と圧の消えた声に促されるがままコップを煽り、濡れた口元を腕で乱暴に拭った。

「……もし嘘ならさすがに怒るよ」
「本当だよ」

 目尻を吊り上げた緑谷に怯まず廻が答える。願望を含んでいたこともお見通しだったのかもしれない。
 廻は困ったような顔をすると座布団の上に正座していた足を崩した。サマーカーディガンの裾を強く握りしめ、少しずつ力を緩める。

「私ね、一回死んでるの」
「——」

 察してはいたが認めたくなかった事実にぐ、と腹に力が入る。本人はなんてことないように繕っているつもりなのが、緑谷に言葉にできない感情を抱かせた。

「『二輪』に『廻』なんて、どんな因果だろうね」

 輪廻転生。小説や漫画の中でしか見たことのないことが目の前にある。到底信じられない。初めてオールマイトにOFAのことを聞いたとき以上に、廻の話は緑谷の常識を覆した。

「佳乃は超常黎明期の人間だよ。個性は……あったから転生したのかな。わかんないけど、当時はないと思ってた。無個性の方が多かった時代だし周りもそうだったから。四歳までに発現することすら確立されてなかったんだよ」

 いつどこで誰がどんな能力を発現するかわからない、何もかもが未知な『個性』。そんな超常現象に対応し切れていなかった社会で佳乃は育ったという。
 緑谷には教科書の中の話だ。実感が湧かない。けれどその時代を生きたからこその説得力なのか、とても嘘とは思えなかった。

「死んだときのことはよく覚えてる。高校の入学式の日だった」
「高校って、僕らと同じ……」

 まさか同年代で亡くなっていたとは思わずショックを受ける。廻は眉を下げて頷き、再びサマーカーディガンに皺を作った。

「入学式が終わって帰ってるところに突然後ろから何かに突き飛ばされてね。周りの人が事故だって言ってるのが聞こえたから、たぶん車かな。すごい衝撃と浮遊感と、それから痛み。少しでも動くと全身がもう痛くて痛くて。お母さんが泣きながら私の名前を呼んでて、……でも声も出せなくて、そのまま……」

 心臓が絞られたように痛い。でも死ぬのはきっともっと痛い。
 何か言わなければと思うのに、何を言えばいいのかわからないのがもどかしかった。口を開けては閉じてを繰り返し、言葉を探す。
 救けなきゃ。
 どうやって。
 ぐるぐると頭の中で巡るのはその二つばかりで、ろくに解決方法を編み出さない。気持ちばかりが急く。

「……ヒーローに、制服姿を見せてきた直後だったの」

 はっと息を呑む。顔を上げたが、廻は俯いていた。

「似合ってる、かわいいねって言ってくれた。受験大変だったから、勉強頑張ったねって。……言ってくれたのに、私」
「いいよ、言わなくて」

 遮って止めれば廻は肩を揺らして、そろそろと緑谷を見る。見開かれた目を真っ直ぐ見返し、震えが止まっていることを確認して内心安堵の息を吐いた。
 馬鹿野郎、と歯を食いしばる。
 救ける方法を探るよりも、まずは目の前の女の子を安心させる方が先だ。こわいのは廻も同じで、きっと勇気を出して緑谷に歩み寄ってくれた。その勇気を無駄にするわけにはいかない。

「ごめん、僕から聞いたのに。佳乃さんの話はそりゃ気になるけど……ゆっくりいこう、カイさん」
「……ゆっくり?」
「うん。またこうして出かけることもあるだろうし、今日は話そうと思ってくれただけでも嬉しいよ」

 だから大丈夫、と笑いかける。誰しも自分が死んだときのことなんて思い出したくないだろう。少なくとも今じゃなかったし、これに関しては話す必要もない。勝手に焦った緑谷のミスだ。
 呆けていた迷子が小さく頷く。しかし本当にいいのと尋ねる眼差しへ、もう一度「いいよ」と言えば、ようやく力無くではあるが作りものではない笑みを浮かべてくれた。

「やっぱり、緑谷くんを連れてきてよかった」
「……えと、それは」

 聞いていいものか。でも言わなくていいと言ったし、と逡巡する。聞かなければ救えないのなら聞くべきだと思うが、無理強いはあまりしたくない。迷う緑谷に苦く笑うと、廻は「あんまり甘やかさないで」と目を伏せた。

「言える……言わなきゃいけないことは言うよ。緑谷くんにはその権利があるんだし。せめて聞かれたことにくらいは答えないとだめだよ」
「なっ、違う! だめなんかじゃない」

 どうして、頷いてくれたはずなのに全く伝わっていない。こちらから聞く聞かない以前の問題だ。聞かれたこと全てなんて、上下関係があるならともかくクラスメイト同士はしなくていいのに。

「カイさんにだって答えなくていい権利はあるんだ。言わなくていいって、そういうことだよ。カイさんにとってそれが甘えになるなら甘えてよ。嫌なら嫌って言っていいんだから」

 これは他人と自分に順位を付けてしまう廻の悪癖だ。謙っているのではなく、効率を考えた上での自己犠牲。常日頃から無意識でしていることが出てしまうのだろう。こればかりは時間と根気しかない。緑谷はとことん付き合うつもりだけれど、廻の協力なくして改善はできないから。

「…………あまえる」

 本当にそうする気はなかったのだろう。廻の目線は緑谷と、畳と、風鈴とで忙しなく動いて、膝の上に重ねた手に落ち着く。困惑や葛藤が雰囲気から伝わってきたが緑谷は何も言わないことを選んだ。
 そうして数秒か数分か、解けない問題を前にした子供のように固まっていた廻が目線はそのまま、右手で口元を隠すようにして緑谷に問う。

「……甘えるって、言いたくないこと以外でも?」
「もちろん! といっても、僕にできる範囲になっちゃうけど……」

 オールマイトでもないし、緑谷にあまり大きな要求は叶えられない。廻が無茶振りをしてくるとも思えないけれど、と頰をかきながらへらりと笑う。我ながら格好が付かない。
 しかし廻は黒い瞳を艶やかせ、ずいと身を乗り出して緑谷を覗き込んできた。急な接近に「へあ!?」と素っ頓狂な声を出してしまう。

「カイさ、ちかっ」
「——例えば」

 後ろ手をついて退がろうとしていた腕を止める。息が触れるほどの距離にある廻の目の奥に、縋る色を見つけた。
 すぐにでも溢れそうな、透明の。

「例えば……ジュース飲み終わるまで隣にいたり、一緒に猫缶買いに行ったり、放課後勉強教えてもらうとか、何でもないことで会うとか、そういうのは?」
「……!」
「待ち合わせしたらちゃんと来るとか、約束破らないとか、——たすけてって言ったら、たすけに」

 その先は言葉にさせなかった。
 かたん、とどちらかのコップが倒れた音がする。何も溢れていないようだから緑谷の分だ。廻はまだ飲み切っていなかったから。
 どちらでもいい。廻を黙らせることが出来たなら。
 固まっていた全身が胸に体重を預けてくる。緑谷のシャツを握りしめる手と微かに震える背中、どちらを宥めるか迷って、結局掴んだままの腕の力を緩めるだけに留めた。光に反射するガラス製の風鈴は今は見るのは悪い気がして、代わりに木製の天井を仰ぐ。
 心の核に触れれば救けられると思っていた。実際見当違いではなかったし、手応えもある。緑谷が伝えたいことは正しく伝わった。ただ、思ったよりもヒーローの存在が根深い。転生したことによる傷もまた。
 だから廻はかえりたいのだろう——過去に。
 大好きで慕っていたヒーローの迎えを、事故に遭い廻スイとして生を受けたときから、ずっとずっと待っている。

(……転生のことを聞いたときに、そうだろうなとは思ったけど。なんか、鮮明になった感じだ)

 シャツが湿っている気配はない。あれだけ水分を溜めていたのに、あと一歩のところで耐えている。何のためだろう。佳乃の分を合わせれば緑谷より年上になるからだろうか。それとも泣けば涙と一緒に全てが流れていってしまう気がするからか。この場合後者じゃないかと思う。緑谷は泣き虫だから、泣いてしまう理由も泣きたくない理由もわかる。
 “あの日”の廻も泣きそうな顔はしていたが泣いてはいなかった。消えそうな声で「かえりたい」と言う姿が儚くて、慌てて伸ばした手を掴んでもらえたときの安心感を廻は知らないだろう。親しんだ雄英の廊下にまるで初めて訪れたような恐々とした態度で蹲って、緑谷の目にはどこからか迷い込んだ子供にしか見えなかった。
 世界でたった一人になってしまった。それが廻の本音かもしれない。
 そんなはずないのに。

「たすけに行くよ。言葉にしなくても、君がたすけを求めるなら必ず行く」
「……っ」
「ジュースも買い物も勉強も、それ以外でも。何の用事もなくていいよ。ちゃんと行くし、そばにいるよ」

 とん、と胸を拳で叩かれる。抗議の意にしては優しすぎるから、もっと強く殴ってもいいのにと思う。
 もっと緑谷のことを、この世界のことを考えてほしい。
 二輪佳乃ではなく、廻スイに執着してほしい。

「カイさんのやりたいこと、全部一緒にやろう。約束する」
「そんなの」
「守るよ。絶対一人にしない。——させない」

 ふっと緑谷のシャツを握りしめる力が一瞬緩んで、また強くなる。擦り付けるように首を振る姿は駄々を捏ねる子供のようで、いやそれは失礼かと思いはしたがイメージは拭えなかった。単純ってこういうことかと、今になって理解する。
 墓参りに誘われたときから緑谷を連れて行く理由とは何だろうと考えていた。誰と言われずとも大切な人だとはわかっていたから、そこへ大して話したことのない緑谷と行くのはなぜだろうと。
 図らずも弱った姿を見てしまったことにもあると思う。しかしそれだけが理由ではないはず。一人で墓参りに行かない理由とは。現代っ子らしくスマホで調べたが、出てくるものは根拠のないオカルトばかりで参考にはならなかった。
 ならば視点を変えて考えてみる。緑谷だったら、誰かを誘う理由はひとつだ。
 心細いから。
 そのときは廻がそんなことを思うなんて想像できなかったし、まさか前世の廻の墓参りとは思いもしなかったから、ないなと棄却したけれど。今なら本当にそうだったのかもしれないと思う。
 確かに廻の言う通りだ。緑谷は難しく考え過ぎていた。もっと単純で、身の丈に合った考え方でよかったのだ。
 転生していたって廻は緑谷と同じ、ただの高校一年生なのだから。

「……似てると思ったの」

 ゆるゆると緑谷のシャツから手を離しながら廻が言う。

「USJでボロボロになりながら助けてくれた緑谷くんが、私を庇って怪我をしたあの人に重なって、こわくなって、でも嬉しくて。ゴールデンウィークに、佳乃に報告したの。ヒーローみたいな子がいた、すごくカッコよかったって。……でも、なんか、こわくなってきて」
「どうして?」
「……また、いなくなったらどうしようって。あの人すごく優しくて、優しいから私にあまり関わらないようにしてたのわかってたけど、でも、私はずっと一緒にいてほしかった。巻き込んでよかったのに全然頼ってくれなくて……緑谷くん、そういうところも似てるんだもん。こわいよ」
「似てるって、僕結構頼ってるよ。戦闘訓練とか体育祭とか……USJのときは、考えるより先に体が動いて」
「それ」
「そ、それ?」

 とん、と再び訪れた優しい抗議に戸惑う。未だ表情は見せず、廻は連続して緑谷の胸を叩く。

「あの人もそう言ってた。怪我ひどいのに、助けられてよかったって笑うの。緑谷くんも。だから関わらないようにしてたのに……なんで、よりによってあの日なの。なんで見つけちゃうの」

 鼓動に合わせて響く振動に眉を下げる。くぐもった声がなんでなんでと緑谷を責め立て、ぐっと胸に頭が押し付けられた。
 なんでと言われても、そんなの。

「君が助けを求める顔をしてた」
「……!!」
「だから、救けなきゃって思った。それだけだよ」
「——っなんで……!」

 大きく振りかぶられた拳を甘んじて受け止めるために瞼を閉じる。しかし衝撃が来ることはなく、その分シャツがくしゃくしゃになっていた。じわりと肌に濡れた感触がする。
 ああ、ようやく。
 廻の腕を離して今度こそ背中を宥める。羽根に触れるように恐る恐るさすると、苦しいほど全身に重みが来た。天井の木目が穏やかに緑谷たちを見ている。

「僕が君のヒーローになるから、たすけさせて」

 は、と廻の呼吸が止まる。構わず背中の手は動かし続けた。
 これは緑谷の推測だが、廻は怒ったり悲しんだりすることを我慢してきたんじゃないかと思う。その二つは意外と気力を食うから、常に笑顔を心掛けてきた廻には感情を表に出す力が残っていなかったのだろう。
 死柄木を彷彿とさせたあの圧。たぶん廻は怒っていた。わざとではなかったとはいえ、あれでタカが外れたように感情を露わにしているから。
 そうして少しずつ、少しずつ、今まで我慢してきた分まで全部、流してしまえばいい。泣いたところで思い出が消えないことを泣き虫の緑谷は知っている。余分なものを濾過して、すっきりして、まるで生まれ変わったような心地になる涙があることを、緑谷は知っている。
 果たして廻が緑谷をヒーローと思ってくれているかの返事はなかったが、こうしてここにいることから、自惚れることにした。





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