迷子とつなぐ手
緑のカーテンならぬ緑の天井の下はとても涼しい。太陽光を遮っているからだろうけれど、目に優しい色と風で擦れる葉の音が余計にそう思わせるのかもしれない。風鈴の音を聞いたときと似たようなものだろうか。それかマイナスイオンの影響か。どちらにせよ心地いい。
体の熱が引いたら冷却シートを外してねと言った切り、廻は緑谷をベンチに置いて自販機に消えた。水を買ってくるらしい。申し訳なさと情けなさで穴があるなら入りたい。せめて早く症状がよくなるようにと、胸元の襟を引っ張って風を扇いだ。
「あつい……」
廻は優しい。入学してからずっと、緑谷に限らずクラスメイト全員に柔らかい物腰で接している。例の自己紹介の圧が強かったため緑谷は実は尻込みをしていたけれど、同じ教室で過ごす内にとても穏やかな人だと知って安心したものだ。それは今も変わらない。廻と話すときは少し緊張して、不意の仕草が女の子らしくて落ち着かないのに不思議と安らぐ。だから偶に訪れる、線引きをされる瞬間に少しだけ傷つく。はっきりと避けていたつもりはないが、緑谷はそれがつらくて廻とあまり関わらなかった。
梅雨明けに廻のことを知ってからは少しずつ話すようになり、こうして二人で出掛けるようになったのだから大きな進歩だ。遊びに来たのではないけれど、距離はぐっと縮まった気はする。ついさっきまでは手も繋いでいたのだから。
——手。そう、手だ。細いのにやわい指と、手のひらの表面がやたらさらさらなマシュマロみたいだった、手。
「〜〜っ!!」
声にならない叫びを顔を覆って抑える。しかし羞恥はなくならず首をぶんぶん横に振った。なんなら四肢をベッドに投げ出して転がり回りたい。
再三言うが緑谷は女子に不慣れだ。雄英に入って多少マシになったとはいえ挙動不審になるのは変わらない。共にヒーローになるための仲間と思えば平常心でいられるが、異性を意識するとやはり緊張が勝る。
暑さで頭が茹だっていたときは然程気にならなかった。精々が恥ずかしい程度。一人になり体の熱が引いてきた途端、脳が思い出せとばかりに触覚を想起させるのだからやめてほしい。煩悩に負けるな、緑谷出久。
「はっ……そうだ、ヒーローニュース」
毎日のルーティンを行って落ち着こうとスマホを取り出す。まずは現在地周辺に事務所を構えるヒーローから、次に緑谷の関心を引いた捕物、最近注目しているヒーローまで。あとは気になっていた事柄をいくつか検索し、画面から溢れんばかりの情報の海に沈んでいく。
そうして記事に没頭していると、遠くから「おーい」とよく通る声がした。日傘を揺らして駆け寄ってきた廻は炎天下にいたからか、首から頰にかけてが赤くなっている。
「遅くなってごめんね。自販機遠くて。体調どう? まだ怠い?」
「ううん、おかげさまで大分楽になったよ。ありがとう」
「よかった。じゃあシート剥がしていい? ずっと貼ってると体に悪いから」
「へっ、あっ、だい、大丈夫! 自分で剥がすから!」
すっかり忘れていたマシュマロ触感を思い出し、逃げるようにベンチの端に素早くスライドする。廻は目を丸くさせていたが、日傘を閉じて空いたスペースに腰掛けると自販機で買ってきたペットボトルを差し出した。
「吐き気ある? 気持ち悪いとか」
「ないけど……」
「じゃあこの水とスポドリ……は私が預かってたんだっけ。返すね。二本とも飲んで体冷やしたら大丈夫かな。ゆっくりでいいから、全部飲んだら出発しよ」
剥がして丸めた冷却シートとスポーツドリンクを交換される。全てが流れるような動きだ。すごい。ぎこちなくお礼を言うと気さくな笑みを返された。
オールマイトから聞くに、廻は入試の実技で救助ポイントが高得点だったらしい。廻が復籍して最初の戦闘訓練で、まだ気まずさの残る緑谷達の力を抜こうと思っての発言だったのだろう。その日訓練で廻が個性を使うことはやはりなく、サポートメインでの参加だったが確かに戦いやすかった。痒いところに手が届くというべきか、相手の居場所に作戦、弱点など。予想そのままというわけではないけれど、大まかに的中させる手腕は緑谷達より一歩秀でていた。
緑谷への処置もそう。たった今スマホで仕入れた情報に廻が施してくれた事柄は全部載っていた。昨今の女子は塩飴はともかく冷却シートは持ち歩いていないはずだ。女子の所持品はあまり知らないけれど、たぶん。そして緑谷に気を遣わせる隙のない笑顔の圧と動きは、幼い頃小児科で注射を打ってもらった看護師を彷彿とさせた。
あつーと言いながらタオルで汗を拭う廻の額は軽やかな前髪で隠されている。緑谷と違って濡れてへばり付いていない。
「カイさんって本当に汗かかないんだね」
「あんまりねー。でもちょっとはかいてるでしょ」
首を指し示されても緑谷には直視することは難しいため、ペットボトルの水を煽ることで誤魔化す。自販機から出てきたばかりの冷たい水が熱い体にじんわりと落ちていくのが気持ちいい。照れ隠しのつもりが、一気に半分ほど飲み干した。
「ゆっくりでいいって言ったのに」
「喉渇いてたんだ。僕が言えることじゃないけどさ、カイさんも水分大丈夫?」
「ちゃんと飲んでるから平気。これでも熱中症には人一倍気を使ってるの。私の場合汗だくで倒れたら個性がどうなるかわかんないからね」
「そうか、普段は最低値のアルコール濃度にしてるから僕らに影響がないけど意識を失うと濃度調整ができないんだ。でもじゃあ寝てるときはどうなってるの?」
「わあノンストップ」
ノートにメモしたいところだが今はぐっとその衝動を抑える。廻の個性を見る機会はほとんどないため話を聞けるのは貴重だ。
迫る緑谷から若干身を引きつつ、廻が顎に指を添えながら答える。
「体に不調がないなら起きてるときと変わらないよ。でも風邪引いたときはコントロール乱れて、ちょっと大変だったかな」
「……酔わせちゃった?」
「うん。親だから他人よりは私の個性に耐性あるんだけど、看病どころじゃなくなっちゃって。薬とか必要なものだけ頼んで、あとは一人で治した」
「そうなんだ……」
何歳頃のことだろう。個性のコントロールは自然と身につくものらしいが、幼い上に頭が働かなければ難しいはずだ。部屋に一人、幼い廻が薬を飲んで寝る姿が容易く想像できて、それがどうにも悲しかった。
USJでの死柄木への言葉といい、オールマイトとの戦闘訓練といい、廻は自分を顧みないところがある。命を大事にしていないわけではないと思うけれど、自身を守ることはあまり考えていない。自分を傷付けて物事を解決する方法ばかりとっている。
なぜならそれが一番速く、平和に終わるから。そして廻はその傷を痛いとも感じていない。そういうものだと割り切って麻痺している。傷の上に傷を重ねてしまうから瘡蓋にもならず血を流し続けているのに、また傷を付けての悪循環。
いつから廻が“そう”なのかはわからない。一人で風邪を治してしまうより前からなのは確実だ。緑谷は結果救かったからいいではなく、結局廻が傷付いていることに変わりはない、ということを伝えたい。
「……あのさ、カイさん」
その傷はとても痛いのだと理解してもらわなければ、緑谷が廻を救えない。
「汗、かきにくいの……わざとだよね?」
意を決して言葉を紡ぐ。握りしめた拳は痛いくらいだったけれど気にも留めなかった。
ぽた、とペットボトルに結露していた水滴が膝に落ちる。大粒の雫だったのか、じわりと広がり、緑谷のボトムスに歪な丸が描かれた。
「体質って言わなかった?」
対して廻の表情は崩れない。緑谷の意図に気付いているからだ。今から攻撃しますよと宣言したら、そりゃあ受け流すくらいするだろう。だからといって手を緩めるつもりはない。
緑谷はスマホの電源をつけると、検索履歴から数分前に調べたページをタップして廻に見せた。長いまつ毛に縁取られた目線が右から左、下に移動する。ひとつ瞬きをして、廻が困ったように眉を下げた。
「調べちゃったんだ」
「ごめん。どうしても気になって」
初めから疑っていたわけではない。なんとなく汗をかきにくい体質とはどんなものなのかを調べて、その結果違和感が顔を出しただけだ。
ざっと調べた程度だが、大抵どの記事にも体質が改善できるとあった。緑谷への処置からわかる通り、廻には熱中症の知識がそれなりにある。そもそも何かと知識が豊富なのだから、少し調べればわかることを知らないはずがない。汗をかきにくいというリスキーなことを続けるメリットはないのに、なぜ改善しないのか疑問だったが、本人が意図せず教えてくれた。
日常生活をする上で廻の個性はコントロールを前提としている。緑谷がこうして隣にいられるのも、廻が体液のアルコール濃度を最低値に抑えているからだ。いつだったか、居酒屋の空気よりも薄い度数だから大丈夫、と冗談か本当かわからないことを言っていた。
「汗かくと体臭が濃くなっちゃうでしょ? 親とか雄英の先生にはよくチューハイみたいって言われるから臭くはないと思うんだけど……あ、未成年にはどうかな。もしかして酒臭い?」
「エッ、そっ、ううん! むしろいい匂いで……変な意味じゃなくてね!? ほんとに!!」
セクハラを疑われたサラリーマンのような言い方をしてしまい、ぶわっと体温が上がる。「そう? よかった」と廻が嗅いでいた腕から顔を上げ、緑谷も息をついた。ペットボトルに残っていた水を全て飲みきり、緩んだ空気を締め直すために咳払いをする。
「ンンッ……! そ、それで、その、話を戻すんだけど」
「うん。でもごめんね。緑谷くんに私を傷付けることはできないと思う」
「……」
「慣れてないでしょ、こんなこと」
思わず沈黙した。紛れもない事実にぐうの音も出ない。きっと情けなくなっているだろう顔を晒したくなくて正面を向くと、苦笑いをした廻が膝に頬杖をついて「ごめんね」ともう一度謝った。軽い態度は本心と優しさ、どっちだろう。
「私はもう緑谷くんは優しいって知ってるから全然ダメージないの。たまに効く攻撃もあるけどね、緑谷くん無意識だから。故意に傷付けるのは無理かな」
「……カイさんはいつも傷付いてるじゃないか」
「傷付いてないよ。困ってる人を助けたいと思って助けてるんじゃないもの。見て見ぬふりをして平気な人になりたくないから助けてるの。できる限りをして助けられなかったら、まあ仕方ないなって思うよ、私は」
「——そうじゃないだろ」
ジリジリと太陽の熱が木の葉を突き抜けて肌を焼く。蝉の鳴き声が其処彼処からする。生暖かく青臭い風が吹いて少し不快だ。なのに、それら全部が遠い。
悲しさと悔しさでどうにかなりそうだった。
どうしてわかってくれないんだと、子供の駄々のようなことを思う。廻が男なら掴みかかっていたかもしれない。
「人助けに理由なんていらない。カイさんが何を思っていようと、僕は熱中症を助けてもらえて嬉しかった。すごくありがたかった。今までカイさんに助けられた人達もきっとそう思ってる。カイさんは僕なんかよりもたくさんの人を助けてるんだよ」
「緑谷くん」
「でも同じ数だけカイさんが傷付いてるなら、もう人助けはしないで」
廻は器用で不器用だ。人を助ける方法の選択肢は緑谷よりも多く思い浮かぶだろう。その中にはきっと身を削らずに助けられるものもあって、しかし廻はそれを選ばない。自分の優先順位が低いからだ。
この場で廻を救うことはできない。だから今緑谷ができることは。
「人を助けた分、カイさんは大事に思われてるんだよ」
廻の中の優先順位を引っ張り上げることだ。
最優先にならなくてもいい。緑谷にもそれは無理だから、自分に無理なことを強要はしない。
「自分を顧みないのは“見て見ぬふり”だ。カイさん」
届いてほしい。わかってほしい。
緑谷の言葉にはそんな懇願も含まれていた。仕方ない、緑谷も廻に助けられた一人だ。そして廻は困っている人を無下にはできない。
「……ずるいなぁ」
吐き出された呟きに首を縦に振る。横目に見た廻が息を長く吐きながら膝の上に腕を組んで顔を埋めた。
「ずるい……」
子供が親に言うときの甘さを感じたのは、緑谷の勘違いだろうか。
「緑谷くんに傷モノにされちゃったなー」
「も、もう騙されないからね」
「そっか。残念」
やはり偶に話を逸らすのはわざとだったらしい。廻の方が余程ずるい、と思ったけれど、そう言うのは本当にずるい気がして胸に留めた。とはいえ緑谷が女子に弱いのは事実なので、廻がずるいことに変わりはない。
「……私ね、ヒーローが嫌いなんだけど」
「うん」
「一人だけ大好きなヒーローがいるの」
「……えっ」
「私にとってヒーローはその人だけ。その人イコールヒーロー、みたいな。だから他の、ヒーローを名乗ってるヒーローが嫌い」
「……」
「子供っぽいと思う? でもその人に救けられたときから私はずっとその人が大好きだし、今の私の指針でもある。自分を顧みないのは、そうだね。影響受けたかも」
「その人、今は」
「いないよ。時間が経ちすぎたから」
顔の向きを変えた廻が緑谷の方を向く。上目で見てくる瞳のすぐ横を一房の髪が落ちていった。白い肌に黒い髪がよく映えて眩しい。目が合い微笑まれて肩が跳ね、いや違うだろと首を振る。また話を逸らされるわけにはいかない。唇を噛んで見つめ返すと、廻はふはっと気の抜けた空気を吐き出した。
「もう〜、変な顔しないでよ」
「へんっ……カイさんが誤魔化そうとするから!」
「うん。そうだね」
廻が体を起こして伸びをする。素直に認められ上手く言葉が紡げない。こういうところもずるい。スポーツドリンクの入った青いペットボトルを手の中でゆらゆら揺らす。
元より廻に大切な人がいることはわかっていた。ヒーロー嫌いと関連しているのも。その理由は意外だったけれど、同時にすとんと納得もした。緑谷にとってオールマイトが絶対的な存在であるように、廻のヒーローもそうなのだろう。憧れのヒーローを目標にしているという点では緑谷と同じだ。
違いはひとつ。オールマイト以外のヒーローも好きな緑谷と、自分の好きなヒーロー以外は認められない廻。
過激派だ。少しだけヒーロー殺しを思い出したが、廻にあれほどの熱意は感じない。代わりに感じたのは、とりあえず決めた方向に進んでいる、迷っていないように見えてその実どこへ行けばいいのかわかっていない、迷子のような危うさ。傍から見ればただの通行人だから手を差し伸べる人もいない。運良く気付けたのは緑谷だけ。
ペットボトルのラベルを爪で引っ掻く。困った。打開案が浮かばない。これでは緑谷も一緒に迷子になってしまう。
「緑谷くん、スポドリ飲まなくて大丈夫?」
当の迷子は迷子の自覚があるのかないのか、話を逸らそうとしてくるし。
「もう騙されないって言ったよ、僕」
「騙されてよ」
「だめだよ。君を救えなくなる。それが一番……困る」
ラベルの切り取り線が爪に引っ掛かり、数センチ破れた。全部切り取るとゴミが増えるためそれ以上は弄らず、ペットボトルの蓋を外して口を付ける。廻に誤魔化されたのではなく、緑谷自身の意思で。
「困るの?」
揶揄うような口調だったが、緑谷は真面目に頷いた。そうだ、困る。ここで誤魔化されてしまったら、緑谷は誰もいない廊下で蹲っていた女の子を見て見ぬふりをすることになる。
「カイさんが大事だから、救けられないと困る」
「……」
「君を救けたい」
コンビニで見た、静かな眼差し。
絶対に緑谷からは目を逸らさない。見て見ぬふりはしない。
あの日差し伸べた手は掴んでもらえた。あとは行き先さえ教えてもらえれば、必ずそこへ連れて行く。
「カイさん、僕はどうしたらいい?」
「…………二回目だね、その質問」
ほんと、ずるい。
三度落とされた言葉に笑う。
ズルでも何でもいい。なりふり構わず救けるのが、緑谷の目指すヒーローだ。
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