きんようび・よる
「ただいまー、……祐月?」
 いつもの「だめです……」だの「もう一回……」だの、この一週間恒例となった台詞が聞こえない。レディの姿もない。少し、息が詰まる。まさかこんな時間に出かけたわけではあるまい。倒れてたりするわけでも、ないと思うが。靴を振り落とすと、そっとリビングを覗く。
「祐月……?」
 音を立てないようドアを開く。ほっと息をつく。そして、笑ってしまった。祐月はちゃんといた。ソファでクッションを抱きしめながら、横になって眠っている。数日の疲労が積もっていたのか、ちいさな寝息を立てて熟睡する祐月の腕の中には、レディが入り込んでいる。多分祐月が眠った後、レディが潜り込んだのだろう。祐月が意識あるうちにレディが寄ってきたら、きっと緊張で眠るどころではなかっただろうから。
 着替えないままソファの傍に跪くと、一人と一匹の寝顔を眺める。いや、やっぱり二匹のお猫様って感じか。俺の拾ってきた、気まぐれな猫二匹。そもそも、レディを拾ってきたのもこいつのせいだ。レディの毛色は、全く同じとは言わないけれど、彼の髪色に少し似ている。淡い春の花のような毛並みがぼろぼろに窶れているのを見て、つい、重なってしまったのだ。もしレディが、黒や三毛の猫だったら、どうだったんだろう。まあ結局拾ってたかもしれないけど、俺は感覚に頼って決断するタイプだ。感覚が合わなければ、容赦無く切り捨ていたかもしれない。俺をよく知る人ほど案外周りに冷たい奴だと言うのは、きっとこういうところなのだろう。
 ぼろぼろのレディを洗って毛も梳いてやって、ご飯を食べさせて、と面倒を見たあの時も、レディの姿にこいつが重なって見えた。祐月を拾ったばかりの時も、同じようなことをしたっけ。俺が大学四年の時、凍え死ぬような寒さの日。家へと急いだ帰り道の途中で見つけてしまった青年を、俺は最初、粗大ゴミかと勘違いしていた。物珍しさに近寄ってみるとそれは人間で、その人間は、燻んだ金髪の間からゆっくりと瞼を開き、俺を睨んだ。全てが汚れ果て彩度の落ちた体の中で、その瞳の赤だけが眩しかった。網膜を殴りつけるような、激しい血の色。彼が力なく首を傾けると、はらりと瞳を隠していた前髪が落ちた。思えばその時に、もう、骨抜きにされていたのだろう。
「……?」
「……だ、大丈夫、ですか」
「大丈夫って、なに……」
 にやりと口許が揺らぐと、白い吐息が舞う。妖しいそのくちびるは、瞳の色とは反対に色がなく、真っ白だった。まさか聞き返されると思っていなかった俺は、必死にない言葉を紡ごうとする。
「いや、えっと……寒く、ないんですか」
「……分からないから、もう、いっしょ」
「……え、大丈夫ですか?」
 その人間は、おっとりと微笑んだ。俺への蔑みを含んだ笑い方だった。それでも負けず、というか、半分意地になって、俺はそのひとの元へしゃがみこんだ。
「あの、死にますよ、そのままだと」
「ははっ、死んだら、だめ……?」
 それでもう、カチンときた。人の命と健康を助けようと頑張ってる人間の前で、よくもそんなことを言えたもんだ。手に顎を乗せ、俺は声を低くする。男だか女だかも分かってなかったが、そこでほとんどその後の行動は決まっていた。
「……知らねーけど、目の前で人に死なれちゃ俺の気分が悪いんだよ」
「じゃあ、あなたの、見えないところに行くから」
「今見ちゃっただろ。それにお前、歩く力あんの?」
「……じゃあ、あなたが、連れていって」
「ああ。いいよ」
 そうして、そのひとを抱き上げた。腰と膝裏に腕を通し、よっ、と力を入れるはずが、あんまりにもあっさり持ち上がってしまい、俺の方が驚いた。軽すぎる。それに、細すぎる。掴んだ腰は服の上からでも骨の一つ一つが分かった。脚も骨と皮だけのようで、脂肪や筋肉が一切ない。骸骨に皮を付けただけのような人間が、そのひとだった。唯一長い髪だけが、生き物らしくゆらゆらと蛇のように揺れていた。
 歩いている途中で、そのひとはすぐに気がついた。俺がこいつの死に場所ではなく、自宅に向かおうとしていることに。そのひとは少しだけ目を開き、俺を見た。俺はその視線に応えなかった。
 黙々と歩き、ドアを開け靴を振り落とすと、俺はリビングの床にそのひとを横たえた。微動だにしないからだの中で、瞼と瞳だけがゆっくりと動作し、環境を探っていた。
「……ここは?」
「俺んち。散らかってて悪いな、男の一人暮らしなもんで」
「……あなたも、僕のこと、使う?」
「何だよ使うって」
「今まで、そうだったから。いいですよ、僕は、あなたのために、生きられる、」
「……いや、いきなりそんなこと言われても困るし。とりあえず飯やるから、お前、なんか喉通る? それから風呂も入れよ、……って、お前歩けねーのか。じゃあ朝にでも入れてやるよ。まずは体拭くから、脱いで」
 濡らして絞ったタオルを用意すると、上体を起こさせてゴシゴシ顔を拭く。それから首や肩も拭くと、ばんざいをさせて服を脱がせる。そこでようやく、このひとは男なのだと知った。青年は一切抵抗をしなかった。ただされるがままに、俺の妙に慣れた手つきをぼんやりと見つめていた。それは、青年の左腕が露わになっても同じことだった。思わず手を止めてしまった俺に、そのひとは不思議そうに俺の顔を見た。
「……?」
「お前、……そう」
 塞がり切った古いものから、じくじくと肉の見える新しいものまで。夥しい数の横縞は、彼の経歴を知るのに手っ取り早いものだった。何度も、何度も、斬りつけた痕。だが、ここで同情したり咎めたりしては負けだと思った。真新しい傷の上を拭くと、流石に神経が痛むようで彼の表情が歪む。小さく呻くこともあった。それでも、俺は念入りにそこを拭いた。色の悪い指先から足の爪先まで、全ての垢を拭った。全て拭き終わったとき、彼は下着一枚の姿になっていた。下手をしたら幽霊にも見えかねない体つきだったが、明るい光の下ではそれが妙に妖艶だった。彼はそれを恥じようという気もなく、ぼんやりと俺を見つめ続けていた。
 それから服を着せ、飯も食べさせた。飯というより、餌やりに近かったような記憶がある。
「野菜、食える……?」
「……」
「ま、だめだったらバケツに吐いていいから。はい、口開いて」
 千切ったキャベツを薄い唇の間に押し込む。時計の秒針みたいな速度で、しゃく、しゃく、と噛み続けて、しばらくして喉が動く。それからポカリを飲ませた。ちゃんと飲み干せるか不安だったから、ストローで飲ませた。彼はやはり抵抗しなかった。衰弱した猫のようだと、そのときにも思っていた。あとはデザートにゼリーを食わせると、彼は苦しそうに頭を下げ、正面にいた俺にもたれかかった。やっぱり、無理をさせたらしい。何も入っていないことに慣れた胃は突然の刺激に慣れないだろう。この調子なら今日中の風呂は無理そうだ。もう一度抱き上げると、シングルベッドに運んで布団を被せた。彼はやはり受動体のままだったが、それが不意に、くちびるを動かす。天井を真っ直ぐ見上げ、俺とは決して目を合わせないまま、掠れた声で彼は呟いた。
「……あなたは、どこで、」
「ん?」
「寝るところ……ないじゃないですか」
「あー……まあいいよ。ソファで寝るし。お前の方が一大事なんだから、気にすんな」
「……何が目当て?」
 何でも適当に言って、さっさと寝かしつけてやらなければならないのは分かっていた。けれど、その時だけ、彼の瞳がこちらを向いたのだ。柔らかい瞳だった。ひとを妖の世界へ引き込む、魔の瞳だった。だがその裏に、決してひとを信じないような、冷めきった一線のある瞳だった。
 目当て、って言われても、正直に言えば一つしかない。けど、それを言うには、まだ早すぎるだろうから。
「……俺、この通り、生活能力無いから。家事してくれる人がいたらいいなって、思っただけ」
「……女の人でも、連れてきたらいい」
「面倒臭いだろ、変に好かれても。というか、その為にわざわざ恋愛するの大変だし」
「……僕、家事とか、できませんけど」
「命の恩人ってことで、元気になったらやってもらうから。よろしくな」
 きょとんと瞳を丸くする青年をなんとか丸め込む。我ながら、滅茶苦茶なことを言っている自覚はあったけれど、大体は勢いだ。ほら、寝ろ、とぽんぽんと叩くと、彼は少し不服そうに瞳を細めた。そして、ごろんと俺に背を向ける。寝る気になったかと離れようとした時、布団でくぐもった声がぼそりと聞こえてきた。
「ゆづき……」
「ん?」
「名前、そう、呼んで……」
「おう、ゆづきな。了解」
「あなたは……」
「漣。好きに呼んで」
「れんさん……?」
「そうそう、上手上手。よくできました」
 覚束ない口調で俺を呼ぶのが可愛くて。頭を撫でてあげると不愉快そうに首を振られる。その仕草が昔飼ってた猫に似ていて、つい愛しくなっていた。
 翌日起きると、俺は青年を風呂に連れて行った。浴槽に屈ませると、棒みたいな細長い手足が窮屈そうに縮こまっていた。浴槽の縁に頭をつけさせ、美容師みたいに後ろから長い髪を洗っていく。髪や埃や塵が大量にはらはらと落ちてゆくものだから、排水溝の蓋がすぐに詰まった。その掃除をする間も、彼は全く喋らなかった。死んでないよな……と不安になったけれど、心臓が動いているから多分大丈夫だ。一通り絡まっていたごみを落とすと、シャンプーをしていく。髪の隙間に手を通し、両手でゆっくりと頭皮を揉んでいくと、彼の身体が少しずつ脱力していった。どうやら、けっこう良かったらしい。首がこてんと後ろに倒れた。水に濡れた整った顔立ちが、はっと息を飲ませた。
 そもそも、髪を全部上げてしまっても美しいと思わせるなんて、よほどの美人だ。輪郭はほっそりと痩せこけているものの、逆にその歪さが彼の儚い美を際立たせている。鼻は滑らかにすらりと通り、男性的なごつごつしさが欠片も無い。睫毛も、髪の色と同じ金色をしていて、バランス良く瞼を彩っている。どのパーツを取っても、神々しいまでに整えられた美しさ。そしてその美が、周りに主張するようなけばけばしいものではなく、光をしずめた玉石のように、艶やかな質感を感じさせるのが、俺をぞっとさせた。
 俺は、しばらく手を止めてしまっていた。美の妖怪だ、と思った。倒れてた時から惹きつけられてはいたけれど、経験や頭脳ではない超感覚みたいなところで、こいつが欲しい、って思ってはいたけれど。今まざまざと彼の姿を見て、俺はきっと、恐怖を覚えていた。一体何てものを拾ってしまったんだ。けれど、もう手放すことはできないとも気付いていた。
「……えっと、れんさん……」
 待ち兼ねたのか、彼がおずおずと口を開く。瞼が持ち上がって瞳が見えると、また、ぞっとした。同時に、独占欲とも情欲とも支配欲とも形容しがたい欲望が脳に駆け抜ける。俺はそれを隠すように、ぎこちなく笑った。
「あ、ごめん。ちょっとぼーっとした」
「……そう」
 彼が頽廃的に微笑む。冷たい人形のようだった顔のパーツが、艶かしく歪む。
「……それより大丈夫、逆上せない?」
「だいじょうぶ……れんさんは……?」
「なんで俺が逆上せんだよ、俺は入ってないっての」
 青年は何がおかしいのか、クスクスと笑っていた。その間にさっさとシャンプーを洗い流すと、裸体の青年を抱き上げ体を拭いてやる。髪の毛も、床に座らせてドライヤーをかけてやった。量が量だから乾かすのにも時間がかかって、随分長いことかけていた気がする。彼はその間もずっと黙っていた。ようやく乾かしきると、青年はふと振り向いた。伏した睫毛の先から、光が溢れていた。
「ねえ……僕は、何をしたらいい」
「ん?」
「何でも、しますよ。教えられたら、何でも、するから……家事も、ちゃんと調べてするから、それ以外だって」
 こいつは、一体何を恐れているのだろう。見返りが無ければ、面倒を見られる価値もないとでも思っているのだろうか。そうだとしたら、教え込んでやらなくちゃならない。こんなぼろぼろの人間は面倒を見られる義務があると。だけど、そのまんま言ってもこいつ、通じなさそうだし。じっと静かに返事を待っていた彼をぐいっと前を向かせる。櫛で髪を梳かし、乱暴に一つにまとめていると、引っ張られた彼の頭がぐらぐらと揺れていた。
「じゃあさっ、お前、しばらくうちのペットになれよ。家事とかいいや、もう人間しなくていいよ」
「……、ペット……?」
「そ。俺に面倒見られて、可愛がられて、それがお仕事。愛玩動物でいてよ」
「愛玩……愛人、じゃなくて?」
「あははっ、……まあ、お前の過去は聞かないけどさ。犬みたいにお座りとかお手とかもしなくていいから、そうだなあ、どちらかっつーと猫になった気分でいてよ。気負わないで、気儘にな」
 はい、出来た。これだけ髪の量が多いと、ゴムを通すのも一苦労だ。絡まりにくい紐とかで結んだほうが楽なのかもしれない。ぽんと背中を叩くと、風船みたいに軽い勢いで前のめりになった。うん、まだまだ食わせて、体重増やして、健康体にしなければ。
「猫……僕が?」
「うん。実際昨日寝てる時も、猫ちゃんみたいだったし。くるっと丸くなって寝るのな、お前」
「そう……あなたが、望むなら」
 彼は、ゆっくりと、上体を後ろに倒してきた。やはりその体は怖いくらいに細く、軽すぎる。彼の頭が俺の肩に乗っかった。神様みたいな顔がすぐ触れられる距離にある。俺はその頭を、心臓のリズムで優しく、あやすように叩いてやった。彼はきょとんとしていたが、やがては少し微笑んで、それこそ子猫のように頬を擦り寄せてきた。
「ねえ、れんさんって、どう書くの……」
「さんずいに、連続のれんで、さざなみって字。名前にしちゃあ、珍しいだろ」
「漣さん……ぴったりな、名前」
 そうして彼は瞼を閉じた。乳白色のカーテン越しの日差しが、きらきらと散らかった洗濯物やコンビニの袋を薄らと照らす朝だった。彼の色素の薄い睫毛や白い唇が、光に反射して、天使みたいだな、と思った。
 それは、まだ今の家に引っ越す前の、狭いワンルームでのことだった。こうして我が家に、先住猫がやってきたのである。

 レディが、ふにゃあ、と欠伸をした。レディなんだから、そんな間抜けな顔したらだめだろうに。くすくす笑っていると、レディもどうやら俺に気がついたらしい。薄っすらと開いた子猫の青目が、俺をぼんやりと見つめていた。それと一緒に、祐月がうとうととうわ言を呟いていた。彼にしては、珍しいことだった。
「んん……レディ、だめ、痛い……レディ……」
 なんじゃそりゃ。夢の中でも祐月はレディにうなされているらしい。あの時俺に面倒焼かれてたこいつが、今は後輩猫の面倒を焼こうと頑張ってるとか。あんまりにも可愛くって、つい口角が緩んでしまう。きっと鏡があったら、見たくもないようなでれでれの顔が映っただろう。レディはもう、すぐ目の前にいるってのに。
「なあレディ、祐月のこと好き?」
 言葉が通じるはずないけど、なんとなく。レディはじっと俺を見たあと、祐月のほうに顔を向けた。それからにゃあん、と甘えた声をあげて、彼の頬をぺろりと舐めてみせた。ん……と小さく眉をひそめた祐月に、やっぱり、笑えてしまった。大丈夫だよ、祐月。レディはちゃんとお前のことが好きらしいよ。
「……なあ、レディ」
「にゃあ?」
「レディにはやらないからな?」
 そう言うと、レディは見せつけるみたいに祐月の肩に頭を預けた。祐月が重さで唸っている。俺は意地悪く笑って、レディを抱き上げた。

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