きらい。
「……ごめんなさい」
「ん?」
「あんまり、好きじゃないかも……」
 クリスマスイブは、どの飲食店も行列が出来ていた。かと言って、もうこの暖房の効いた駅ビルの外に出る気も起こらなかった。ふらふらと彷徨った結果、少し高級なディナーダイニングの前に辿り着いた。やはりカップルの行列はあったけれど、時間も遅かったからか意外にも次々と案内されているようだった。なのに、一体何が好きじゃないのだろう。自分でも不思議だ。それに、たぶん、彼に迷惑をかけた。漣さんはそれでも穏やかで、僕の顔を覗き込んで微笑んだ。
「じゃあ、別のとこ探そうぜ」
「……いいの?」
「なんでお前が嫌なとこにわざわざ行くんだよ」
「……、そういうものなんですか」
「そういうもん。ちなみに、どういう種類の好きじゃない、なの?」
 漣さんがフロアマップを開いて他の店を探す中、僕はぼんやりと店を振り返った。どこか、既視感があるのだ。あまりよく覚えてはないけれど。そんなように返事をすると、彼はふうんと僕を横目に見つめてきた。それからフロアマップを閉じて、改めて僕と向き合ってくる。
「前に……あんな雰囲気のところに連れて行かれて、」
「うん」
「味が、わからなくて……困ったなって」
「うん」
「それで……」
 はっと、記憶がフラッシュバックする。底に沈めておいた記憶だった。もう誰だかは分からないが、確か若くはない人だった。その人に連れられて、こんな風に整った雰囲気のダイニングバーに居たのだ。その人の甘い口説きに、僕は終始くすくす微笑み続けていた。その時は本当に、愉快な人だと思っていた。
 料理が運ばれてきた。コース料理だったから、少量の上品な見た目の料理ばかりだった。その人は、サラダの葉をフォークで槍のように突き刺し、口からはみ出しながらクチャクチャと吸い込んでいった。口の中には、緑色の溶けた物体が見えた。喉がごくりと動くと、次はトマトを突き刺した。汁が器の中に飛び散った。またそれを口内に運び、赤い溶けた物体にして、クチャクチャと吸い込んで、喉が動く。一口で食べきれなかったトマトの端が、フォークから液体を滴り落としていた。
 その人に勧められて、僕もフォークを手に取った。トマトをそっと突き刺すと、ぷしゅ、とやはり少量の汁が皿の中に飛んだ。乾ききった口内に水っぽいトマトを入れる。味はしなかった。ただ、さっきまで形を保っていたトマトがあんな物体になっていく様を想像していた。どうにかワインで流し込むと、きっと胃の中で溶かされて、もっとわけのわからないものになる。僕は水が欲しい、と言った。このままワインで流し込み続ければ、相当酔いが回ってしまうだろう、と思ったのだ。けれどその人はその訴えを笑った。たくさん飲めば良い、と。それから、海外ではワインが水代わりだとか、そんな話をしていた気がする。僕は相変わらず、くすくす微笑んでその話を聞いていた。
 話が一度止んだところで席を立って、お手洗いへと向かった。口の中に指を突っ込み、赤や緑、茶色や白色、様々に溶けた液体を吐いた。慣れた作業だった。少し、呼吸ができる。だがアルコールはまだ廻り続けているようだった。覚束ない手で個室を出て、鏡を見ると、頬が少し上気している。味も何も分からないのに、アルコールだけが廻り続けるのが不思議だった。席に戻ると、その人は赤ワイン一瓶をウェイターに持たせていた。僕はまた、相変わらず料理をそれで流し込み続けていた。次第に酩酊が度を過ぎてゆき、帰るときにはウェイターまで僕の腰を支えようとする有様だった。その人はウェイターの手をはたき落とすと、僕をタクシーに乗り込ませていた。
 そうだ。無理な酒と、他人の粘膜的な食事。僕がきらいなのは、きっとそれだ。あの時は、嫌いとも好きとも思えていなかったけど、きっと僕はあれが「きらい」だったのだ。漣さんにその話をかいつまんで語ると、そっか、と眦を緩めた。咎めることも諭すこともなく、マフラーの隙間から微笑みを零していた。
「じゃあ、お前が好きなとこに行こう。なんか好きなもんある?」
 フロアマップを僕に寄せて、肩がひっつく。ツイードのコート越しの彼の体温はぬくく、そのまますり寄ってお店の一覧を眺めていると、不意に視線を感じた。なに、と同じく視線を返すと、なんでもない、と笑われる。変なひと。だがすぐにそのことは忘れて、僕は袖から人差し指だけを出し、ここがいい、と言った。彼は「まじ?」と小声で呟いたが、僕がマップ片手に歩き出すとすぐに隣に並んでいた。
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