好き。
いか。えんがわ。ぶり。いくら。瀬戸物の器の上の静かな艶のある刺身たちが、決して明るすぎない照明に照らされている。カウンターの向こうから差し出されたそれを、二人それぞれ手元に持って来る。合わせたわけではないのに、小声で囁いた「いただきます」の声が重なり、割り箸を割る音さえも重なった。それでも笑わず、静かに一貫目を摘む。醤油をいかの白い肌に少量つけた後、箸を差し込む。いやな感じのしない、するりと舌をくぐるような食感だ。ゆっくり噛み締めて、のみこむと、はあと溜息が出た。えも言えぬ多幸感に包まれる。やはり、スーパーで買うのとは格が違う。今度また海のほうへ出かけたら、獲れたての海鮮を食べたいものだ。
「……うめー……」
隣からも、僕の代わりのような声がする。彼は赤身中心のコースを選んで、まぐろの赤身を口に入れたようだ。一貫目にしてはいきなり脂身が乗りすぎているような気もするが、これだけ美味しそうな姿を見れば何も言えまい。天を仰ぐような表情に、少し笑った。
「ほんと、クリスマスに寿司って、まじかよって思ったけど当たりだわ……人少ないし、うめーし……」
「ね、漣さんお酒は?」
「飲む飲む! ありがと〜」
お猪口に注ぐ間も、彼はひたすら頬を蕩けさせている。こういった寿司屋でも、駅ビルの中にあるからか、人を選ぶような厳格な店ではなくて良かった、と思った。あまり板前や周りの空気に注意を配らないで、純粋に美味しいものを味わえるから。それに、彼が生き生きと美味しそうなものを食べる姿を、ゆっくりと見られるから。彼は美味しいものを美味しく頬張ることに関して、天才だ。その幸福そうな顔を見ているだけで、満腹になってしまうほどに。次に彼が口に入れたのはかつお。箸で掴むとさっと醤油をくぐらせ、口の中にするりと入っていく。口は閉じ下顎だけが緩んだ表情筋の下で動いている。そしてあっという間に胃の中に収まっていく一部始終に、僕は不思議な安堵を覚えていた。彼が少しだけお猪口に口を付けた後、ふと目が合う。片肘をついて小首を傾げ、やわらかく口元を緩ませ「なあに」と言う彼に、そういえば強いお酒なのかもしれないと思い出した。
「祐月、お寿司好き?」
「うん……好き」
「あはは、お前、ちゃんと好きな料理あるんじゃん」
「いえ、でも、今までそんなに好きだ、とか思ってなかった……」
「そうなの?」
今までにも食べたことはあったけれど、こんなに美味しいとは、というよりも、安心して食べられるものだと気付いていなかった、というほうに近い。何気なしに、板前が寿司を握る手を眺めてみる。肉厚で、酢飯の味が皺の一本一本の隙間に染み込んだような手だ。けれど、垢や汗や、人間の生々しさは感じない。むしろ、工場で毎日洗浄される清潔な金属の部品でも見ているように感じた。指の腹で酢飯に軽く触れると、いつの間にか形が出来ている。わさびを少量置くと、その上に切り身、あれはさんまだろうか。黒から銀色へと移る光があの手で包まれ、押される。店に入る時こそ愛想よく接せられたが、そこに愛情も親愛も、そういった重い荷物は何もないのだと思った。その無心の極致が、きっと「好き」なのだろうと、思った。
すぐにもう一貫握られると、二貫並んで丸い小皿に載せられた。見守ってしまったぶんの思い、奇妙に惜しく思っていると、その皿は僕と彼のちょうど間に音もせず置かれた。きょとんと板前の古びた顔を見ると、不器用に口許を歪めた。
「炙りさんま。お客さん、嬉しいことを言ったから。お金はいい」
いいんですか、と疑心暗鬼になる僕と、素直に大喜びして礼を言う彼。板前はゆっくりしてきな、と言い残してすぐ後ろを向いてしまった。板前の言葉通り、さんまは仄かに炙った跡があった。漣さんは早速ひとつ箸で摘まんでその味に頬を綻ばせている。僕も一貫を口にひょいと入れる。瞬間、じわ、と脂身が舌に滲む。ほろほろと酢飯が溶けていく。生臭さはなく、ただ旨みと食感だけが残った味。おいしい。最初に言葉にできなかったことを、不意に呟いていた。ほんとになあ、と隣の彼に頷かれ、僕は知らず知らずのうちに笑みを浮かべていたことを、後になって知った。
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