逃げられる希望なんて

「……何してるんすか、千歳先輩」

ガラッと勢い良く開いた扉の向こうに立っていたのは、両耳に沢山ピアスを付けた男の子だった。顔に見覚えがある。確かテニス部の二年生。

私の右手は千歳の股間に当てられたままで、変なところを見られてしまったと思うと変な汗が出て来た。

千歳は相変わらずへらへらと笑っている。けれども掴んだ私の手を離そうとはしない。あああ、もうどうしたらええのこの状況。

「……そういうん、学校でやらんといて欲しいっすわ」
「待って待って、あんた何か勘違いしとると思うけど」
「あは、財前タイミング悪かー」

笑いながらそう言い放った千歳に苛立ち、空いている方の手で頭を思い切り殴る。

財前と呼ばれた男子は小さく溜め息を吐いて中に入ってきた。私たちのことは気に止めていない様子で棚の中を漁り始める。

「次の授業で使うマーブリングの液取りに来ただけなんで、邪魔してしもてすんませんでした」
「邪魔とちゃう! むしろ救いの神やわ! 助けて少年!」

目一杯腕を伸ばし、彼の腕を掴む。振り返った彼は目を大きく見開いていた。弾みでマーブリングの液が入ったチューブが、バラバラと音を立てて床に転がった。

しばしの沈黙。私も、千歳も、財前も。誰も何も話さない。大きな溜め息を吐いて財前がチューブを拾い始める。まるで止まっていた時間が動いたような気がした。

「ぼさっと見とらんと、手伝うてくれません?」
「あ、ああ、ごめん」

ぼんやりとその姿を見ていると、私の方には目を向けずに財前が呟く。思わず身を乗り出すと、案外すんなりと千歳の手が離れた。

「……ほな、俺行きますんで」
「私も教室戻る。財前、ほんまありがとうな」

本当に身の危険を感じていたので、心の底から感謝の意を述べる。不思議そうな顔で財前は私の顔を見たが、特に何を言うでもなくスタスタと歩き始めた。

振り返り千歳を見ると、すっかり衣服を整えてある。下半身もどうやら落ち着いたらしい。って、どこ見てんねん私は。

「俺もたまには授業出るかねー」
「部長に言うたりますわぁ。昼休みに第二美術室で逢引してたて」
「ここが駄目んなっても他にも場所はあるけん、構わんよ」

またアホなこと言うとる。男子中学生というのは本当に、性欲を満たす為なら労力を厭わないのだろうか。

そんな無駄な努力をするくらいだったら、よっぽど授業や部活に出る方がマシだろう。

階段まで来ると、財前はほなここで、と階段を降りて行った。第一美術室に向かうのだろう。その背中に向かって、本当にありがとうと手を合わせた。

「なぁ遥、どげんしたら俺としてくれると?」
「はぁ? 寝言は寝てから言いや」
「寝言じゃなか。俺、遥がしてくれるんやったら、他の女ばいらんもん」

もん、て。一体どういうつもりでそんなことを言っているのか。本気なのか、それとも遊びたいが為の冗談なのか。この余裕そうな笑顔の裏にどんな感情を抱いているのか。

ね、とまた腕を掴まれる。無理だと思った。この男には何を言っても無駄だと。目を付けられてしまったのが不幸をだったのだと。

今更嘆いても、そんなことはもう仕方が無いことなのだけれど。

(20120726)