あれは、誰や。
あの千歳が走っている。汗を流して、一つのことに集中している。あんな千歳を、あんな顔をする千歳を、私は知らない。
目の前に広がる光景がいつもとはかけ離れていて、少し驚いた。ぼんやりとした私の耳には、千歳がボールを打つ、突き抜けるように綺麗な音だけが飛び込んでくる。
「なんや、遥ちゃん。なんやかんや言うて千歳観に来たんやな」
「アホな事言わんといて。財前に助けてもろたお礼しよ思てね、ほら」
フェンスの向こうにいる白石に気付かれ、何気なく手を振ると、こちらに近寄って来てそう言った。私は手に持っていた市販のスポーツドリンクを見せつけるように彼の顔の前に突きだす。
千歳を観に来たわけでは断じてない。千歳はただのついでで、そのついでが自分の思っていたものと違ったので思わず見つめてしまっていただけだ。
私の言葉を聞いて、白石はしばらく押し黙った。何かを考えているかのように、包帯が巻かれた手を顎に当てている。しばらくその様子を見ていると、わざとらしく「そうや」と人差し指を立てた。
「もうすぐおやつの時間やし、遥ちゃんも食べてかへん?」
「おやつ?」
「休憩や休憩。今日はアイスやで」
フェンスの入り口を開け、白石が手招きをする。物凄く爽やかな笑顔で。あんな顔で誘われたら、嫌とは言えなくなるのを解っているのだろうからタチが悪い。
二十分休憩、と白石が声を掛けると、部員達が部室の周りに集まって来た。財前とばちりと目が合うが、興味なさげに逸らされる。
白石と、確か白石と同じ二組の忍足がアイスを部員に手渡していく。私にも、同じものが一本渡された。
「全員取ったかー、二本取ったやつおらんなー?」
「遥! なんでおると?」
「白石にナンパされた」
「人聞き悪いなぁ、遥ちゃん。おやつに誘っただけやん」
もちろん輪の中には千歳もいて、目ざとく私を見つけては飛び付かんばかりの勢いで近寄って来た。それを軽くあしらい、アイスの袋を開ける。
口の中に広がるミルクの味は、さすが部員分買うだけのアイスといった薄い味で、けれども熱い今の時期にはさっぱりとして、むしろ美味しく感じられた。
ふと、斜め上から痛いくらいの視線を感じる。明らかにそれは千歳の視線で、またよからぬ事を考えているのだろうと脳裏に浮かんだ。
「……なに、ジロジロ見んといて」
「遥がアイス食べとうとこ、たいぎゃエロかー」
「アホか。暑さで頭沸いてんか」
こんな奴は無視するに限る。ちゅぱ、と音を立ててアイスを舐めながら横目でちらりと千歳を見上げると、同じようにアイスを口に入れている。
こんな身長の、そこそこ顔の整った男子がアイスを舐めているというのはどこか官能的で、エロいのはどっちやねん、と心の中で呟いた。
・
「白石、ご馳走様。ほな私帰るから。ああ、財前」
「……なんですか」
食べ終えたアイスの棒と袋を近くに設置されていたゴミ袋に入れ、私はその場を離れようとした。その時、ここに来た一番の理由を思い出して彼を呼び止める。
持っていたスポーツドリンクを彼の前に突き出すと、彼は棒に残っていた少量のアイスを全て口に含んで不可解そうな顔をした。
「今日はありがとうな。これ、しょーもないけどお礼」
「善哉やないとか……ほんましょーもないですね」
まぁ、もらえるんやったら有難くもろときますわぁ。それだけ言うと、財前は私の手からスポーツドリンクを取って練習へと戻って行った。
このクソ暑いのに、善哉? 昼休憩の時も思ったけれど、随分と淡白な子だ。私や千歳のことなんかに、大した興味は無いのだろう。
その興味の無さは、きっと千歳がやる気がなかったり、授業をサボったりするのとはまた別なのだろうと何となく思った。千歳の方が、どこか得体のしれない感じがするからだ。
「遥遥、俺には?」
「なんで千歳に……あれはお礼や、あんたの毒牙から助けてくれたからな」
「遥を助けたら、差し入れしてくれると?」
そういう事を言っているわけでは無いのだけれど。まぁ、そう思い込んで大人しくなってくれるならば、それはそれでええか。そう考えた私は、「せやなぁ、考えとくわ」と曖昧に笑ってテニス部を後にした。
(20120812)