なんで私がこんなことを。学校帰り、手には進路調査のプリント。私自身はとっくに提出した。これは先生から託されたもの。そう、つまり千歳が書くべきプリントだ。
提出期日をとっくに過ぎているのに千歳がホームルームに出ないので、その先生が担当の授業で、その場で書かせようとしたものらしい。本来なら、その様子を私は隣の席から眺めるはずだった。
けれども、千歳はその授業にも現れなかった。先生が大きく溜め息を吐いたのを私は見ていた。可哀想にすら思えた。そんな目でみていたのが間違いだったらしい。
「悪いなぁ、野田。これ、帰りに千歳んとこ持ってってくれへんか?」
嫌です、とは言えなかった。先生が疲れているのも見ていれば解ったし、何より私は『千歳の世話係』という仕事をその先生から与えられていた。断れば、風当たりが強くなるのではないかと不安だったのだ。
アホらしいとは思う。厄介な仕事を引き受けているだけでも感謝して欲しいけれど、受験前の私は変に神経質になっているらしかった。考えなくてもいい方向にばかり考えてしまう。
「……ま、しゃーないか」
ふう、と大きく息を吐いて、先生から聞いてきた寮の部屋のインターホンを押す。しばらく待ってみるが、反応が無い。ピンポンピンポンピンポンと鳴らしてみるけれど、やはり反応が無い。
もしかして留守だろうか。それだったら、ポストに入れて……いや、それもまた無視されたら先生の胃に穴が開いてしまうかもしれない。そんなことを考えながら何気なくドアの取っ手に手を置くと、いとも簡単にドアが開いた。
「うわっ……鍵開けっぱとかめっちゃ不用心やな。ちとせー? おるんー?」
「……遥?」
「なんや、あんた一日寝てたん? まだ布団の中とか」
靴を脱いで狭い部屋に上がる。寮の中ってこういう風になっているのか。どう見ても四畳半くらいしかない部屋にあるのは布団と、カラーボックスが一つだけ。あとはテニスのバッグが壁に立てかけられているくらいだ。
千歳は部屋の真ん中にある布団に寝たまま、視線を私の方にやった。もう授業はとっくに終わってテニス部の面々も部活にいそしんでいるというのに、ほんまええ身分。
「先生から進路調査のプリント預かってきてん。これ、今書いて欲しいんやけど」
「あー、そういや提出しなっせち、ずっと言われとったばい」
「覚えてんやったら早よ出さんかい。ほら、適当でええからとりあえず書いて」
鞄から筆箱を取り出し、上半身を起こした千歳の手に握らせようとする。その時に気付いた。千歳の手が異様に熱いということに。
よく見ると千歳の目はうるうるとしていて、頬もなんとなくだけれど上気しているように見える。もしかして、このクソ熱いのに風邪引いたんか。アホかこいつ。
「……熱あるん、千歳」
「測っとらん」
「体温計は」
「そげんもんなか」
「朝から何か口に入れた?」
「や……なんも」
「薬も飲まれへんやんか! あんたなぁ、ほんっまに……」
千歳の額に手を当てると、やはり熱い。これは風邪で確定だと思い、私は立ち上がり勝手に千歳の部屋の冷蔵庫を開けた。そこにはバターと、ペットボトルに入った水が三本だけ入っていた。
こんなんでどうやって生活しているんだ。いやまぁ、今日が買い出しの日のつもりが風邪を引いて食材が揃っていないだけかもしれないけれど。
勢い良く冷蔵庫の扉を締め、冷凍庫の氷を近くにあったビニール袋に詰めて、干しっぱなしになっていたタオルでそれをくるんだ。
「これ、でこに置いとき! ほんでじっとしとれ!」
「おー、ありがと、遥」
「は? 礼言うんはまだ早いっちゅーねん。 今から食べるもん買うてくるから、あんたは起き上がるんちゃうで!」
鞄からお財布だけを持って千歳の部屋を飛び出した。どうして私がこんなに、ここまで千歳の世話を焼いているのか。こんなの先生にお願いされた範囲を超えている。
そんなことは解っているのに、弱っている千歳を目の前にしたら、いてもたってもいられなくなった。この男は、私が見ていてあげないと駄目だ。そう思わされた。
近所のスーパーでネギやら卵やら、体に良さそうなものをカゴに放り込んで行く。並んでいるレジにイライラしつつ、買い物を終えてまた寮へと走った。
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「遥」
「ただいま! とりあえず簡単におかゆ作るから」
「遥」
「……なんやねん」
情けない犬のような目で私を見ながら名前を呼ぶ。今にも泣き出しそうな千歳の顔を見て、私は仕方無く手に持っていたスーパーの袋を床に置いて、布団の横に腰を下ろした。
じっと見つめて来る千歳を私も見つめ返す。喉が痛いのか、ひゅう、と辛そうに息を吸い込む音が間近に聞こえる。大丈夫? と声をかけた次の瞬間、千歳の胸が私の視界いっぱいに広がった。
「ちと、せ」
「遥。好いとう」
「好いとう、て、なんやねん……」
心臓に悪い、と思った。
こんなにでかい図体をして、こんな風に甘えてくるなんて。いきなり私に向かって押し倒すように抱き着き、微動だにしない千歳の背中を片方の手でさする。
もう片方は私の腕では回り切らないくらい大きな千歳の腰に回し、ぼんやりと思う。出逢った頃はこんな風に弱い所を見せたりせぇへんかったのになぁ、と
いつもへらへらして、何でもお見通しだって顔をして、誰のいうことも聞かず、色々な女に手を出してはまた別の女へと渡り歩く。例えるならば風だとか、水だとか。そういう形の無いもののような人間だった。弱みなんて人間らしい部分があるなんて思っていなかった。
なら、ここにいるのは誰だ。こんなに愛おしそうに私を見て、抱き締めて、私のことを欲しいと全身で語っているのは。
「好いとう……」
「でっかいお子様やなぁ、あんた」
ぽんぽん、と優しく背中を叩くと、私を抱き締める力が強くなった。好きか嫌いかで言ったら、千歳なんか嫌いだった。嫌いな、はずだった。
けれどもこんな求め方をされると、少し口の端が緩んでしまう。風邪やから可哀想とでも思ってるんやろうか、それやったら偽善者もええとこやな、私。そんなことを考えながら、千歳の体をぎゅっと抱き締めた。
(20120816)