親指をまぶたに添えて

右目が見えない。そう言った千歳は、いったいどんな気持ちで笑ったのだろうか。

明日から夏休みということで、注意事項が書かれた黒板をぼんやりと眺めながら、数日前のあのやりとりを思い出してそんなことを考えた。

隣に座っている千歳は机に突っ伏している。いつも寝息が聞こえないほど静かに寝ているので、死んでへんかなぁ、なんて思ったりもする。

右目が見えないということは、私のことなんて見ていなかったんじゃないか。初めてコンビニで千歳を見た日も、それから授業中も。真横の角度だと完全に死角だろう。それなのに、私が好きだって?

笑わせてくれるわ、ほんま。



「遥!」
「なに、私もう帰るんやけど」

有意義な夏休みを、なんてお決まりの言葉でホームルームは締めくくられ、浮き足立った生徒達が足早に教室から飛び出して行く。

私もそれに続こうとした時、またしてもスカートの裾を千歳に引っ張られた。呼び止めるのはいいけれど、スカートはやめてほしい。いや、呼び止めるのも良くないけど。

「試合、観に来て欲しか」
「試合、て、全国の?」
「うん」

スカートを掴んだまま、私の瞳をじっと見つめて千歳はそう言い放った。何をアホなことを、と思ったけれど、どうにも本気のような顔付きだ。

私は小さく溜息を吐き、スカートから千歳の手を無理やり引っぺがす。

「何言うてんの、無理無理。関東までなんか行かれへんて」
「一試合だけでよか! 不動峰んとことの試合だけ」
「むーりー。仮にも受験生や、そんな暇あらへん」

大袈裟に首を横に振ると、しゅん、と眉尻を下げて千歳は黙り込んだ。なんやねん、ほんま。そんな図体でしおらしくしても、なんも可愛ないで。そう言って千歳の胸元を軽く叩く。

次の瞬間、その手が千歳の大きな手に握られた。突然の事に驚いて千歳を見ると、相変わらずしゅんとした顔をしている。

「……行かれへんけど、頑張って欲しいとは思っとるよ。せや、前日には電話したるから」

千歳のポケットから携帯電話を取り出し、私の番号をそこに打ち込む。一度発信して自分の携帯がポケットで震えたのを確認した後、今度はメールアドレスを打ち込んで空メールを送信した。

「ん、登録は自分でやってな」
「遥、番号とアドレス、よかと?」
「アホみたいにメールしてきたり、電話かけて来ぇへんかったらな」

何をしているのだろう、自分は。好きか嫌いかで言うと嫌いな相手に自分のアドレスと番号を教えて、電話をかける約束までして。

けれども、そうしなければと思わされた。千歳が悲しそうな顔をするのが嫌だなんて、こんなのまるで私が千歳を好きみたいだ。

いや、そんなはずはない。どちらかと言うならこれは、飼い犬が情けない声で無くから仕方なく構ってあげる飼い主の気持ちだろう。

「ほら、今日も部活やろ? はよ部室行き」
「遥、俺、絶対勝つけん、見ちょって!」
「やから見られへんて。はいはい、怪我には気ぃ付けや。あと風邪にもな」

千歳の右目に自分の左手の親指を添え、そっと撫でた。一瞬目を丸くした後笑った千歳に、涙が出そうになった。

(20120820)