春が来て、千歳は再びあの部屋の契約を更新した。今回は、引っ越すなどという話題は出なかった。周りは受験で慌ただしくなり始めた。
休憩時間に単語帳をぱらぱらと捲っている生徒。休憩の度に進路指導室へと入っていく生徒。部活をしている生徒達は部活の後、ユニフォーム姿で補講を受けたりしている。
目まぐるしく動く私の視界。変化して行く日常。それでも焦ってなどはいなかった。
本来の学力より二ランク程下の大学を指定校推薦で受けるからだ。もちろん、あの部屋から近い大学を選んだ。みんなみたいに必死になる必要など、どこにもない。
「余裕そうで羨ましいわぁ、遥ちゃん」
「ほんまや、俺らにその余裕ちょっと分けて欲しいっちゅう話や」
「白石と謙也は行く大学が大学やからしゃーないやろ」
二年の中頃から、時折千歳と私、白石と謙也で昼食を共にするようになった。というのも、相変わらず私と一緒にお昼を食べようと休憩になると走って来る千歳をからかうように、近くで謙也が食べ始めたからだ。
謙也にとってそれは、わざわざ誰かと昼食を食べる為に動くのが面倒だから教室からは動きたく無いという理由からだったのだけれど、自然と三人で食べるようになり、しばらくしてうちのクラスに来るときは白石も千歳についてくるようになったのだ。
千歳は二人きりでないことを嫌がらなかった。私はそれが、どこか嬉しかった。千歳は私がいないと、と言って依存しているのではないかと思っていたけれど、きちんと友情も育めているように感じられたからだ。
三年になった今も、相変わらず昼食は四人だ。私と謙也はまた同じクラスで、白石と千歳もまた同じクラスだった。
一時期復活していた放浪も、二年の終わりにはかなり落ち着いていた。千歳の放浪は、どうやら精神的に安定していない時に頻繁に起こるらしかった。少しでも満たされてくれているのかと思うと、私も幸せで満たされるような気がした。
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「勉強勉強ち言うて、毎日せからしかねぇ」
「そらまぁ高校三年やからなぁ、しゃーないわ」
夕食を終えた私と千歳は、小さなテーブルに向かい合って近々ある模試の勉強をしていた。引退前なので相変わらず部活は忙しそうだ。全国まで進めば『きっぺー』とまた試合が出来るかもしれない、といつも嬉しそうに話していた。
私は私でこの感情に気付いたものの、取り立てて行動には起こしていなかった。謙也には告白するべきだと何度も言われたが、出来なかった。
しなくとも、千歳が私のことを好きだということは痛いほど解っている。そしてこうやって一つの部屋で生活している。これ以上望むことなんて、何があるというのか。
「こうやっとっと、中三ん時ごたる」
「中三ん時、て?」
「教室で並んで、おんなじ課題ばやっとったね。遥解くん速いけん、いっつも教えてもらっとった」
「はは、そんなこともあったなぁ」
中三の時、私がまだ千歳の世話係だった頃。隣の席の千歳が課題を終えるまで、寝ないように逃げ出さないようにと見張るのも私の役目だった。
教えれば理解は早い。授業を聞いていれば恐らく解るのだろう。けれども授業はほとんど寝ていたから、自習で課題が出ればよく教えていたっけ。
「千歳、そんなんでどないすんの」
「どげんて?」
「大学や大学。私、千歳の大学の授業までは教えられへんで」
「ああ、大学……」
だらしなく気の抜けた声で千歳はそう呟くと、それきり何も言わなくなった。大学受験のことなど考えたくないということなのだろうかとも思ったが、どうやら違うらしい。
時計の針が進む音が、沈黙した部屋に響き渡る。無言で進める筆の音だけが、カリカリと耳障りだった。時折すぅはぁと聞こえるお互いの呼吸が、時間が止まっていないと教えていた。
私の心臓は、痛いくらいに高鳴っている。この先の言葉を、千歳が言おうとする言葉を、私はどこかで気付いたのかも知れない。けれどもその言葉は、私にとっては聞きたく無い言葉で。
「遥は、何の為に大学ば行くと?」
「何の為って……そら、今時就職するんに大学くらい出とかんと」
「何になるとか、決めとっとやか」
「そこまでは……決めてへんけど」
私の未来は漠然としていて、どうせそこらの会社でお茶汲みをしてコピーを取って、ということを繰り返すOLにでもなるのだろうな、となんとなく思っていた。
ただハッキリしていることは、この先も千歳と一緒にいたくて、この小さな四畳半の世界の住人でいたくて。千歳の、支えになりたくて。
その為には、私が大学で本格的に何かを学ぶという事がただ無駄ということだけは解っていた。勉学に時間を費やすなど、私の中には無かった。千歳のご飯を作って、千歳と一緒に過ごす時間を、少しでも増やせるように。
「遥」
「……なん」
「ずっと言おうち、思っとったんやけど」
ばちり。千歳の視線と私の視線が交差する。ごくりと息を飲んで、次の言葉を待つ。目線を横に逸らしながら、頭をがしがしと掻いて千歳が私の手をそっと握った。
大きな掌はいつも暖かく私を包むのに、この日の千歳のそれはどこかひんやりとしていた。顔を見ると、少し引きつったような顔をしていて、緊張して手が冷えてるんやろうか、なんてぼんやりと考える。
「俺、大学には行かんとこうち、思っとる」
すぅ、と大きく息を吸って吐き出した千歳の言葉に、私はただ押し黙るしか出来なかった。
ねぇ、千歳。この関係に終わりが来る事を、望んでいないのではなかったの?
(20121025)