気付かないままなら良かった。知らないままでいることが出来たなら良かった。満たされなくとも、幸せでなくとも、きっとこんなに胸を締め付けられることも無かっただろうから。
・
全国大会も終わり、千歳は引退して帰り道も一緒になる事が増えた。あの話をした後から、お互いの間で受験の話や進路の話は全くしなくなった。聞きたくなかった。
いや、聞きたくないわけではない。卒業してどうするのかとか、傍にいて欲しいと言ったのはもう良いのかとか、色々と頭の中を渦巻いてはいた。
それでも聞くのが怖かった。千歳は、大阪の人間ではない。熊本に戻ろうと思えばいつだって戻れる。携帯を持っていても、手紙は出せても。それでも大阪と熊本の距離に離れてしまえば、きっと二人の関係が終わってしまうことは目に見えていた。
・
「千歳、大学行かへんねんて」
「行かへんて……ほんであいつどないするん」
「さぁ、そこまでは聞いてへんけど熊本戻るんちゃうかなぁ」
音楽室への移動中、謙也と他愛も無い話をしている途中でそう呟いた。謙也は驚いたような表情を見せ、その弾みで筆箱を床に落とす。透明なプラスチックで出来たそれは簡単に開いてしまい、ペンがばらばらと床に散らばった。
仕方無いなとそれを一本一本拾っていると、謙也が私の顔をずいっとのぞいて来る。あまりに顔が近いので思わず後ろに体を反ってしまった。
「……なん?」
「遥はそれでええんか」
「それでもなんも、千歳が決めたことやからしゃーないわ」
「しゃーなくないやろ、お前が言えば」
私が言って何になると言うのか。一緒にいたいと、離れたく無いと言えばいいのか。それで何かが変わるのか。
床に落ちていた最後の一本を拾い上げ、立ち上がって音楽室へと向かう。こんな時でも考えるのは千歳の事ばかりで、音楽が苦手だとよくサボっている千歳を、白石と二人でよく探しまわったなと思い出す。
千歳のいない生活なんて、今更想像も出来ない。起きれば目の前にいるのが普通だったし、目を閉じるときもいつも彼の体温を感じていた。それが全く無くなるなんて。
「遥!」
「……廊下で人の名前叫ばんといてくれる?」
謙也の大きな声で振り返ると、私が渡したペンを握りしめたままでしゃがんでいる。ゆっくりと立ち上がり、私の肩を掴んだ。思った以上の力で掴まれ、少し痛い。
「あのな、俺、お前らが離ればなれになるん嫌や」
「なんで謙也が嫌やねん」
「俺、お前らの関係ええなって思うねん。ちゃんと好き合って、お互い大事に思ってんなって。見てきたから解るねん」
私らの関係って何だ。セフレみたいなもんでしかない。ヤッてるだけで心が満たされているわけでもない。千歳は私を好きで、私は千歳が好きだ。それでも満たされはしない。
いつも抱き締められると思うのだ。千歳が好きだと、この人の全てが自分の物になればいいのに、と。けれども告白をしていない、彼女でもない私がそれを望むのはいけないと。
千歳は私を好きだと言って私を抱く。その時、彼はどんなことを考えているのだろう。心が自分に向けられていないと思いながら、それでも私がそこにいれば良いと笑う彼の腹の内は、どんな色をしているのだろう。
「……嫌やって、私かて嫌や」
「せやったら」
「今更やねん。なんもかも。もう遅いねん」
「まぁ、遅いんはあかんなぁ」
「スピードスターやもんなぁ」
そう、もう遅い。今私が千歳を好きと言ったら、千歳はきっと決めたことを曲げてしまう。曲げるまではいかなくとも、きっと心の中に何か蟠りを持ったままさようならになってしまう。
私は千歳が好きになってくれた私のままでお別れをしたい。嫌な女になりたくはない。気持ちにつけ込んで縋り付くような真似はしたくない。千歳の未来は、千歳のものだ。
せめて私が出来る事は、この四年間の生活を少しでも良かったと思ってもらえるように、彼の心の中に居続けられるように。
来るべきその日を、笑って迎えられるように。
「謙也」
「ん?」
「ありがと、心配してくれてんやんな」
「……まぁ、遥が決めたんやったら見守るしかないやろ」
「謙也くんおっとこまえやなぁ。謙也のそういうとこ好きやで」
「そういうんを千歳に言えっちゅー話や」
「はは、ほんまやなぁ」
(20121102)