5秒で結構な話ですが

目が覚めてベッドを降りる。眠い中無理やり体を起こし着替える。鏡の向こうにいる見慣れない自分の姿に少し緊張した。

今日は俺の入社式で、遥も明日大学の入学式を控えている。引っ越してから片付けや買い出しなどでバタバタし、結局今日まで落ち着ける日は無かった。

リビングからは遥が慌ただしく朝食の準備をしている音が聞こえる。それに耳をすませていると、こちらに向かってくる足音が廊下に響いた。

「千歳! 起きたんやったら早よ朝ごはん食べ!」

エプロンをして片手にバターナイフを持った遥がひょいと寝室にいる俺を覗き込み、声を掛ける。すぐに行くと返事をして俺はネクタイを強めに締めた。

リビングのテーブルにはサラダと食パン、バターが並べられていた。いつもなら和食が好きな遥が魚を焼いたりしているので、このメニューは少し珍しい。

たまにはパンも新鮮で良いなと思いながら席に着くと、遥がすまなそうな顔をしてコーヒーを運んで来た。

「ごめんなぁ、手抜きで。寝坊してしもた」
「よかよか、遥が用意してくれたもんなら何でも美味いし」
「パン焼いてレタス千切ってドレッシングかけただけやけどな……」

小さく溜め息を吐き、遥も席に座った。ん、とコーヒーの入ったマグカップが突き出される。このマグカップは二人で選んだもので、昔二人で買った弁当箱と同じように、俺が黄色、遥が黄緑のものを使っている。

四天宝寺のユニフォームと同じ配色で遥は色々なものを俺とお揃いで買ってきた。弁当箱は俺が無理にこれがいいと言って買ったものだが、どうやら遥も気に入っていたらしい。

マグカップ、歯ブラシ、スリッパ、箸、茶碗なんかがそうだ。よくもまぁここまでこの二色のものを探してくるものだとたまに感心する。

「はー、緊張してきた」
「ん? 明日の入学式んこつ?」
「ちゃうわ、あんたの入社式や。下手なことせんといてやぁ、心配やわぁ」

入社式と言っても社長の話を聞いて、名前を呼ばれたら返事をするだけのものだろう。何をそんなに心配することがあるのか。

それより明日は遥自身の入学式だというのに、そちらの心配は全くしていないようだ。クローゼットには遥のスーツが既に準備されているし、俺が特に心配するようなことは無さそうだけれど。

「まぁ、生活していけるだけ稼いできてくれたらそれでええけど。出世とかは別に」
「あはは、折角なら楽さしてやりたいけんね、頑張るばい」
「期待せんと待っとくわ、私も落ち着いたらバイトしよかなと思ってるし」

そういえば最近熱心に仕事情報誌を読んでいた。俺の手取りだけでは不満かと聞くと、不満ではないけれど将来のために貯金をしたいと彼女は笑った。

遥の言う将来が、自分の為のものなのか、それとも俺と結婚するためなのか、はたまた妊娠したり出産する時の為なのか。

そこまでは聞かなかったが、彼女の中で確かに『将来』というものが出来上がっていることに思わず嬉しくなる。

「バイト? どこで?」
「謙也が行ってる大学の近くにあるコンビニやねんけど、夕方から8時くらいまでで学生バイト募集してるねんて」
「ああ、医大の近くなら多少安心やね、謙也くんもおるけん」

遥が行く大学は偏差値さえ悪くないものの、とりあえず大学、という輩が多く進学する学校だ。

だからこそ彼女やら合コンやらナンパやら、大学生になり浮かれて騒ぐ馬鹿な学生も多い。そんな男どもが近くにいる状況でバイトなど、本来は反対だった。

謙也くんの通う医大はかなり講義も厳しく、遊ぶ余裕などほとんどない。まして浮ついて遊んでいようものなら、あっという間に他の人間に置いていかれてしまうとか。

コンビニに来るのも近くで一人暮らししている医大生が多く、足早に食事を買いにきては慌てて帰って行く人ばかりらしい。

「うん、バイト探してるって話したら謙也が、ここなら千歳も安心やろって教えてくれてん」
「ばってん、大学行きながらバイトも家事も大変やなか?」
「はは、今更やなー。学校行きながら家事はずっとやっとったし、三時間バイト増えるくらいどうってことないわ」

そう笑い、遥は食パンを口の中にねじ込んだ。今まで綺麗に食事をしている姿しか見たことが無かったから、豪快に物を口に運んでいる遥はどこか新鮮だ。

じっと見つめていたので気まずくなったのか、自分の食べた後の食器を少し荒々しく積み重ねて遥はシンクへと向かった。

「ほら、千歳もそろそろ行かな遅れるで」
「ん」

コーヒーを一気に飲み干し、スーツの上着を羽織り鞄を抱える。玄関に出してある靴は遥が磨いてくれたのか、玄関から差し込む光が反射して輝いて見えた。

「遥ー」
「なんやねん、今洗いもん…」
「五秒! 五秒だけ!」
「もー……」

俺の呼びかけに渋々と言った顔をして、タオルで濡れた手を拭きながら玄関へと小走りでやって来る。

今更ながらその光景に、これから俺が遥を養っていくのだと実感させられる。

「遥、愛しとうよ」
「はぁ? いきなり何……」
「遥ん為に働いてくるけん、どこも行かんで。またここで俺んこつ出迎えてね」
「……今更どこへも行かんし、私以外にあんたのこと面倒見れる子はおらんやろ」

はい五秒、と遥に背中を押される。腕時計を見ると確かに時間は予定していた電車ギリギリだ。玄関のドアを開け、ちらりと後ろを振り返ると、遥は言ってらっしゃいと小さく手を振った。

まだ家を一歩も出ていないのに、もう帰りたくなったなんてことは遥には内緒だ。

(20130608)