それが世界のためならば

知っているの。痛いくらいに知っていて、それでも彼を手放す事は出来ないの。きっと最後に戻って来る場所は私のところだって、自分自身に思い込ませて生きているの。

頭がおかしいと笑われても構わない。誰も、私からあの人を奪わないで。



「遥」
「謙也。どうしたの、電話かけてくるなんて珍しい」
「学校やったら人目あるから言われへんやろ」

帰宅して夕食も食べて、宿題は出ていなかったからさぁお風呂にでも入ろうかと考えている時に携帯の着信音が部屋に鳴り響いた。テニス部の部員用に設定していたそれを聞く度に私はどきりとする。もしかしたら珍しく連絡をくれたのだろうかと。

けれどもベッドに放り投げてあった携帯に手を伸ばしてディスプレイを見れば、その期待は毎度毎度打ち砕かれる。ほとんどが部長である白石からの業務連絡で、たまに小春ちゃんから恋愛相談が来たり、小石川から悩み相談が来る程度。

しかし今日は違った。電話をかけて来た相手は謙也だった。人目の無い所で話したい事とは何だろう。まさか告白、なんて自惚れる事を考える自分では無い。だって私には、付き合っている人がいるのだから。

「言うって何を?」
「……財前のことや」
「ああ。一年の子に手ぇ出したって? それか私のクラスメイトのことかな」
「遥! 知って……」

電話の向こうで謙也が言葉を詰まらせている。彼にとって、私の返答が予想外だったようだ。謙也の言いたいことと言うのは、財前が日ごと女の子を取り替え抱いているということだろう。携帯を握る手に力が込められていくのが自分でも解った。

謙也のことだから、私を心配してくれてのことだ。これ以上傷つかないようにと思ってくれているのだ。優しい優しい謙也。その暖かさが私の心を抉る。一度どろどろに溶けきった、私の心が放つ腐臭を思い出させる。

「知ってるよ。知ってるけど、いいの」
「お前はそれでええんか、あいつ、自分がちょっと女にもてるからって彼女のこと大事にせんと」
「いいの」

謙也の言葉を遮るように少し強い口調で言った。それはまるで少し前の自分自身言っているかのように。

初めは純粋な恋情だったと思う。目と目が合えば胸が熱くなって、手を繋げば幸せでいっぱいになった。名前を呼んでもらえば自分の名前がこの世で一番の宝物のように思えた。

私だけを見て。
私だけを感じて。
私だけを愛して。

光との距離が近くなるほど徐々に膨らんで行く欲望。けれどもそれは叶わない想いだった。

私と付き合い始めて一ヶ月後、光が同級生の女の子と寝たという噂を聞いた。その女子本人が嬉々として話していたのだ。私と光が付き合っている事は周りに秘密だったせいか、誰も疑いはしなかった。

取り繕うようなことを光は言わなかった。私も聞かなかった。怖くて聞けなかったという方が正しいけれど。ただ体を重ねているだけで、唇と唇を合わせているだけで。あの子達との行為に気持ちは無いんだと、私は自分に言い聞かせて慰めた。

「愛してるの」
「……あんな男でもか」
「うん、光以外にいないの。他の女の子を抱きたいなら抱けばいい。私の前からいなくなりさえしなければ」

私に知られていることを光は知っている。けれども光は私を抱くし、好きだと耳元で囁いて愛してると首筋を舐め、お前だけとキスをする。

そして私はそれを私だけに与えられている愛情なのだと思い込み、幸せだと、これ以上の幸福は無いと、悲しいほどに心に刻む。

「光がいれば、そこが私の世界なの」
「世界て、んな大袈裟な」
「大袈裟って、そう思う?」
「俺は、遥に幸せになって欲しいんや」
「幸せだよ、謙也。すごく幸せ」

呟くようにそう言うと、謙也はそうか、と諦めにも似た優しい溜め息を吐いた。謙也の気持ちには薄々気付いている。気付いているのにこんなことを言う私はずるい女なのだろう。静かに電話を切り、携帯を再びベッドの上に放り投げる。

けれども私の世界には、私と光という二人以外の生命体など不必要だった。ずるい女でも構わない。

全部全部解っているから、誰も入って来ないで。夢にも似たこの世界で、もうしばらく幸せな夢を見させていて。

(20120603)