〜 拾 〜

君が何処へ行くのかは知らないが、桜を見たら、雪が降る様を見たら、どうかこの地の雪桜を思い出して欲しい。そうすれば、私のことも、自然と思い出す事があるだろう。

短い期間ではあったが、君と過ごせた日々は、私のかけがえのない記憶だ。これから背が高くなり、大人になり、何時かは皺も増え、白髪にもなる。

それでも私は君を忘れなどはしないから。忘れられる筈など、決してありはしないから。だから、どうかほんの記憶の片隅にでも、私の事を覚えていてくれたならばと、願うよ。

今まで有難う。どうか、達者で。



「私の話はこれにて終いで御座います」

目の前の男はそう言って目を伏せると、空になっていた俺の湯飲みに再び茶を注いだ。俺がそれに手を伸ばそうとした時、思いもよらん言葉が、その男の口から漏れる。

「貴方は、私が気付いておらぬとでも、お思いですか」

湯飲みを倒しそうになってしもた。右手が小刻みに震えとる。そんな筈は無いと、脳が体に訴えとるんかも知れへん。

「来た時から解っていたよ。君が、彼だと言うことに」

男は笑っとった。昔とほとんど変わってへん顔つきで。体格も別れて以降、変化はあまりあらへんかったらしい。

俺は一目見て、この男が幾年も前に、たった一度の冬を共に暮らした少年であると解った。

「適わへんなぁ。自分ではかなり、見目が変わったつもりやったんやけど」

背も随分と伸び、声も低くなっとった。そして何より隠していた髪の色を、隠さずにおった。

金色に輝く俺の髪は、生まれたときから異人だ何だと周りに不思議な目で見られとった。焼き討ちになってからも、この髪ではどこの家でも相手にされへんかった。

昔の面影なんて、今の俺にはかろうじて残っている程度やろうに。

「解るさ。文に書いただろう。忘れない、忘れられるわけが無いと」

そう言って微笑む。手を口元に当てる笑い方も、昔と変わらへんかった。立ち居振る舞いが少し落ち着いた程度で、男は何も変わってへんかった。

男が俺と暮らした日々を話している間、俺は今でもこの家に住んどる様な、そんな感覚に陥った。まるで、夢の中かの様に。

「あの方は、お亡くなりになられたのですか」

男が俺の目を見据えて問う。俺はゆっくりと答えた。あいつは、二月前に亡くなったと。

俺が男の家を出てあいつの元へと戻ると、あいつは死ぬまでに生まれた地へ戻って海を見たいと言うた。

俺とあいつは赤子共々、西の方へと向かい、海の近くで暮らすことにした。気候の穏やかな漁村やった。

幸せな暮らし、やったんやろう。あいつは常に笑っとった。時も明治に移ったが、小さな漁村は静かで変わりは無かった。

赤子も死と言うものを理解出来る年齢になっとった。精神的には年齢以上に大人びとったかも知れへん。あいつの末期を冷静な濁りを知らん、澄んだ瞳で見つめとった。

きっとこん子は、俺よりも強い。そう思い、俺は訊いた。この後どうするんかを。あいつに拾われたもん同士二人、あいつの思い出を共有し合うて生きて行く。それでも良かったんやけど。

「俺は、あの方への恩を返したいと思っとります。せやから、仏門に入ろうかと思うんです」

俺とあいつの間で育った子は、西の地方独特の訛りを引き継いどった。そう言うて、少年に成長していた赤子は俺の元を去った。

そうして、俺はまた一人。せやけど、初めて孤独の闇に投げ込まれた時とは違てあいつとの、そして雪桜の地で暮らした少年との記憶で、俺は満たされとった。

ほな、これからどないしよか。そんなことを考えながら海岸を歩んどると、ちらりと白いもんが視界に入った。初雪や。そうや、あの少年は、雪桜の地の少年は今、どうしとるんやろうか。俺はすぐさま荷造りをし、漁村を発った。



まず最初に寺を訪れた。流石に少年の姿はあらへんかったが、見目の変わらへんご住職が居られたんで、少年の事を尋ねた。この地で人の為に働いておる。ご住職からの返答や。

住まいは変わってへんっちゅうことで、俺はあの家へと向かった。記憶とはなかなか大したもんで、迷うこと無く到着した。

ところが、以前と雰囲気が全く違う。静かで孤独な家やったそこは、人で溢れとった。中を覗いてみる。そこには昔と変わらへんあの少年が、熱心に怪我人の治療を施していた。成る程、人の為とはこう言う事か。

「おや。貴方も怪我をなされたのですか」
「いや、少し伺いたい事があるのだが」

声も変わってへん。あまりの懐かしさに、俺は今すぐに全てを語りたかった。せやけど、手当ての妨げになるやろう。そう思い、俺は待つことにした。

そうして治療を求める人々が皆帰った後、俺はこう言った。訛りを隠して自分やと悟られへんように。

「昔、共に過ごした少年が居たと聞いたのだが、彼の事を話しては下さらぬか」

それを聞いてどうするのかと訊かれれば、確かめる為。共に過ごした俺の事を、疎ましく思っとらへんかったかを。もしそうやったなら、俺は話を聞いた後、正体を明かさんと去るつもりやった。

せやけどこの男、一目見て俺やと解っとったとは。知らん振りをして語っとったとは。ああ、まったく、適わへんわ。

「きっといつか、再び会えると信じていたよ」

男は微笑みながらそう言うた。俺も、信じとったよ。俺の生きる力となったお前と再び、こうやって語り合える日が来るんやて。

「お帰り」

男は俺にそう笑いかけた。何度も過去に聞いた言葉や。それは遠まわしに、再びこの家に住んで良えと言うてるんやろう。

「今、戻った」
「飯にしようか。手伝ってくれるかい」

何も変わってなど。昔のままの家、昔のままの部屋、昔のままの食事。匂いも、取り巻く空気も、そして住人も、何一つ。



食事を終えてから、俺達は語り合った。別れてから今まで経験した出来事を。そして、共に暮らしていた日々を。

そうして眠る時、男が言うとったようにもう一組の蒲団があった。どれ程の季節を、この蒲団は誰にも上に寝転がられる事無く、越えてきたんやろうか。

窓の外は変わらず雪やった。花弁の様に降り注ぐ淡い雪桜が、一晩中続いとった。春になればその雪も桜に変わるやろう。

今度はこの地の満開の桜を、そして冬以外の季節の表情も、この目に焼き付けたい。きっと俺は、この地で末期を迎えるんやろう。隣の蒲団で眠る男と同じ様に。

雪桜に住む。その幸せを、知ってしまったんやから。

(20120807)