「すまんな、こちらでうちのもんが世話になっとるって聞いたんやけど」
会話こそ交わしたことが無かったので知らなかったものの、その方の話す言葉は彼がいつも話す言葉と同じもので、少し驚きました。
そう、立っていたのはあの方だったのです。雪の上にはその方が歩んできた跡が、点々と残っておりました。薄い髪の色が、肌の色が、まるで雪に溶けてしまうのではないかと思わせる程に儚い印象を帯びていました。
「あいつと寺で学んどる子やね。顔を見たことあるわ」
「ええ、そうで御座いますが、彼はまだ戻ってきてはおりません」
私よりも数段と背の高いその方は、眉間に皺を寄せ、怪我でもしているのか何故か布で巻かれている左手を顎に添えました。どうやら考え込んでいる様子でした。
北風が頬を撫でて行き、刺さるような痛みを覚えましたので、私はその方を招き入れたので御座います。
「冷えますでしょう。お入りください」
私自身、その方と話をしたかったのやもしれません。私が知らない彼の事を、その方の言葉の片鱗から知る事が出来れば、と。
とにかく、私はその方と囲炉裏を挟んで向き合ったので御座います。先に口を開いたのは、私ではなくその方でした。
「あいつは元気にやっとるん」
「ええ」
部屋中の空気が、どっしりと私に伸し掛かったようでした。いえ、その方の口調が威圧的であったわけでは無いのです。
私がそのような事を考えていたために生じた、後ろめたさの所為だったように思えます。口の中が乾き、私はしきりに唾を飲み込み瞬きを繰り返していました。
「どんくらいで戻るんかな」
「申し訳御座いませんが、私は存じ上げておらぬのです」
私の答えを聞くと、その方は聞こえぬ程小さく、そうか、と呟かれました。それから一度座り直し、私の目を見ました。射抜かれたようで御座いました。
「一つ、言伝を頼んでも良えかな」
落ち着いた声でした。体の奥にずぐっと深く入り込んでくるような、けれども決して不快ではない声。何だっただろうか、何故かとても落ち着くのだけれど。私は記憶の中を探り始めました。
「言伝、ですか。何で御座いましょう」
「俺は怒っとらへんから、いつでも帰って来てええんやでて、あいつに伝えてもらえるやろうか」
その一言で、私はその声が何の声だったかを思い出しました。ええ、とても懐かしく、暖かいもので御座います。それは家族の声でした。勿論、その方が私の父というわけではなく、家族という存在の者が発する声でありました。
私の父も生前は、この方と同じ様な声で私を呼んで下さったものです。父の声とは、得てして厳しく、そして暖かいものなので御座いましょう。
私は少し間をおいてから頷きました。すぐに頷くことが躊躇われたのです。その理由は一つです。
私は家族を失う辛さを解っておりましたので、彼がその方の元に戻ることが恐ろしかったからで御座いましょう。彼の事を家族と思うのはいささか図々しかったかも知れませんが、少なくとも私は家族と思いたかったのです。
「あいつから、何か話は聞いとるん」
「我が家に来た経緯だけはお聞き致しましたが」
「そうか。俺にはあいつが何故あんな事をしたんか、想像がついてんねん。責めるつもりは無いねんで」
その方は私にそう言うと、少し微笑んで席を立たれました。
「もうお帰りですか」
「話を聞いたんなら知っとると思うけど、赤子がおるんでな。今日は失礼するわ」
そう、赤子を育てておいででしたね。ならば彼だけは、私の傍に置いたままに。
そんなことを考えてしまい、自己嫌悪に見舞われながら、私はその方を戸口までお見送りしたのです。
戸を開けると止んでいた雪が再び降り始めており、その方が来た時の足跡は綺麗に消えておりました。
「ほな、宜しゅう頼んだで」
ああ、なんと無情な一言だったことで御座いましょう。私の気も知らずその方は最後に一つ、それだけ言い残してお帰りになられたので御座います。
私はその方の後ろ姿が消えるまで、いえ、見えなくなってからも、ただ雪の上に残った足跡を見つめておりました。
・
どのくらいその様にしていたでしょうか。足跡も再び薄くなってきておりました。
そうしていると、きゅ、きゅ、という音が何処からともなく聞こえてきたので御座います。雪を踏みしめる音です。その音は、徐々に私に近付いてきました。
「なんや。この寒いのに外になんか出て、どないしたん」
彼で御座いました。
(20120801)