今でこそ私も落ち着いてはきましたが、当時は精神的に弱かった面も御座いました。
ですから、あの方に会った後すぐに彼に普段通りで接するなんて事は、私には困難であったのです。
「顔色悪いな。冷えたんか」
私の顔を覗き込んだ彼の両の黒い光は、本当に私を心配している顔で御座いました。
ああ、出来ることならば、あの方の言葉は私の胸の内にしまっておきたい。そんな私の馬鹿な考えを、いとも容易く打ち壊す程に暖かな表情だったように記憶しております。
「今日は遅かったのだね」
「おん、ちょっとな」
彼の苦笑が白い息となって、私の目の前に広がりました。その時、心の内に秘めておきたいなどと考えた事を、ようやく惨めなものだと気付いたので御座います。
彼が自分の前から居なくなる事と、彼に隠したまま苛まれる事の二つを、秤に掛けたのですから。
「つい先刻、あの方がお見えになったよ」
気付くと私の唇が、自然とそう綴りました。喉の奥から絞りだした声は、聞き取りづらかったことでありましょう。
私は、前者を選んだので御座います。彼が私の前から居なくなるとしても、どのみち隠したままで一緒に住み続ける事など出来やしまいと思いました。
彼の目が大きく見開かれたのを、私は視界の端に捉えました。しかし、その時私は彼の目を見る事が出来ず、人差し指の逆剥けを指で弄っておったのです。皮を千切ると、僅かに血が赤く滲み出て、じんわりとした痛みが生まれました。
「ああ、そうか。とうとう来てもうたんやな」
彼の口振りは、いつかこの日が来ると解っていたようでした。いえ、私もきっと気付いていたのでありましょう。
屋内はしんとしており、爪先からは刺さるような冷たさが伝わって来ました。
「それであいつは、何て言うとった」
おれはおこっとらへんから、いつでもかえってきてええんやで。なぜあんなことをしたんか、そうぞうがついてんねん。せめるつもりはないねんで。
あの方が仰った言葉を、私はそのまま彼に伝えました。けれども私の語り口は、音としてそれを発しただけであって、その言葉の一つ一つの意味などを伝えようとしているものでは無かったでしょう。
私の発するその音全てに頷くように、彼はじいっと聞き入っておりました。
「そうか、そんなこと言うとったか」
私が全てを言い終えると、彼は柔らかく、けれども冷たく笑いました。それは肩の荷が下りたと同時、また別の物を背負ったようで御座いました。
私には彼が赤子の首を締めた理由など想像もつきませんでしたので、あの方の言葉の意味が解らないままだったのです。
何度も考えた事は御座います。けれども、出した答えに確証を得ることは、ただの一度もありませんでした。
「参った。あいつには、解ってしもたんやな」
「その、動機は何だったのか、私には教えてくれないのか」
つい、うっかり。私は口を滑らせました。訊く気など無かったのです。ええ、本当に。
けれども彼の表情が、あまりにも儚く消え入りそうで御座いましたので、繋ぎとめなければと思い、訊いた次第に御座います。彼は目を固く瞑り、そのまま押し黙ってしまいました。
やはり、訊いてはいけなかったのです。踏み込んではならぬ領域だったのです。そのことを解っておったはずなのに、訊いてしまった私は、なんと莫迦だったことで御座いましょうか。
私は罪悪感で押し潰されそうになりました。彼の心に更に傷を付けてしまったのならば、如何したら良いのだろうかと。そんなことばかりが頭の中をぐるぐると渦巻いておりました。
「知ったらきっと、お前は俺を軽蔑するわ」
「するものか」
即答しました。それはもう、彼が言い終わると同時だったように記憶しております。彼は驚いた様子で、私を瞳に映しておりました。
「私は君とは長い付き合いではないけれど、多少なり君の人格は知っているつもりだ。君は莫迦ではないし、軽率なことをしないことは、解っている」
一息でそのような台詞を言ったので、少々酸素が足りなくなったのか、目の前がくらりとしました。彼からどのような返答があるだろうかと、私は緊張して待っておったのです。
(20120803)