後悔など決して、しておりませんよ。彼と過ごした日々は、私にとってはむしろ誇りであります。
なにしろ、沢山のものを得ることが出来たので御座いますからね。それはもう、全て申せと言われても無理だと即答出来そうな程にです。
私の話もいよいよ終盤で御座います。彼が赤子の首を絞めた理由が気になりますか。では、お答え致しましょう。
その前に一つ、約束をして頂けますでしょうか。理由を聞いても彼の事を軽蔑しないで頂きたいのです。決して、彼は悪い人間では無かったのですから。
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「単純な理由や。俺はあの赤子に嫉妬しただけや」
彼は吐き捨てるようにそう言いました。自嘲しているようにも見えました。
嫉妬。それは罪深いものです。私自身、彼に体格や知識で嫉妬の念を覚えたことが御座いましたが、 必ずそれは後々自分の胸を締め付けるのです。
外は轟々と吹雪いてきておりました。この地域で吹雪くことは珍しく、まるで彼の心の内が影響したかのようで。
「俺にとって、あいつこそがこの世の全てやった。あいつ以外の人間とは関わる事自体が稀やったし、進んで関わりもせぇへんかった」
彼の言うとおり、彼が進んで人と話す場面を私は見たことが御座いませんでした。寺でも私から話し掛けて二、三度会話しただけです。それも、彼は相槌を打つ程度。
共に暮らすようになってから、ようやく私は彼がこんなに笑って話す人間だと知ったのです。それまでは、寡黙だとばかり思っていましたから。
「あいつの傍でやったら、俺は人として扱ってもらえたんや。孤児になった直後なんか、周りからの扱いは道具みたいなもんやったし」
その時の彼の苦痛たるや、私の想像を遥かに上回る程のものだった事でありましょう。それでも彼の語り口と表情からは、ひしひしと苦しみが伝わって来たのです。
「あの赤子は幼い。成長した時、今の記憶なんかあらへんのやろな」
それはそうでありましょう。私も一つか二つの頃の記憶など、全く持っておりません。彼の瞳は今、現在を見ているのではなく、遠い過去を見ているようで御座いました。
「一人で明日生きる為にもがく事も、親が居らんと泣く事も、昔を思い出して苦しむ事も無いんやろう」
ふと、外の雪嵐のけたたましい音が止み、彼のその言葉だけが部屋に響きました。
過去のしがらみと言うものは、そうそう容易くは解けないものです。彼の体には荊のように、自分自身を苦しめるそれが、幾重にも絡み付いていたのでありましょう。
私に対しての問いなのか、はたまた独り言なのか。彼はぼそりとこう放ちました。
「あの子が成熟して、何時か自分の生い立ちを知ってもうた時に、絶望を味わうんちゃうやろか」
彼の口調はまるで、赤子を心の底から哀れんでいるかの様で御座いました。
私には、彼も、その赤子も不憫でなりませんでした。そんな心を持っている私自身が、一等不憫だったのやも知れませんが。
「そう思たら、いっそ、一思いにて、手に力が入ったんや」
彼の両の手が、緩やかに天に掲げられました。まるで、救いを求めるかの様に。
彼は宗教にとても興味があったようで、寺で学んでいるときも、宗教については普段から熱心だったのが、更に熱心になっておりました。
それは彼自身が、神仏に救いを求めていたのでありましょうか。過去からの解放を望んで。
「せやけど結局は、あいつを赤子に奪われると思たからとった行動かも知れへんな。まるで子供や」
ははは、と彼は声に出して笑いました。その顔は何とも無邪気で、彼の言葉に偽りの無いことの証明であった事でしょう。単純なそれこそが、彼が一等思っていた感情なのやも知れません。
(20120806)