〜 捌 〜

彼にとって世の全てだったあの方は、今頃何をして居られるのでありましょうか。

それこそ、あの方こそが彼の神や仏だったように私には思えました。生きていく為に、何かしら縋るべき存在は必要で御座います。

「何故、人は人が居らぬと生きていけぬのだろうね」

私が彼にそう言った時、ふと窓の外に目をやると、吹雪も幾分か治まっており、この地方独特の雪が降ってきておりました。

大粒の雪が、穏やかな風に吹かれ、まるで花弁のように辺りを舞うので御座います。そしてこの地方に住む私達は、その雪をこう呼ぶのです。雪桜、と。



「何故かは俺にも解らへん。あいつに拾われるまでは、一人でも生き抜いてやると思っとったしな」

彼の話では、天涯孤独の身になったのは五つか六つの頃だと言うことでした。そんな子供がそのような事を考えたなど、何とも生き難い世の中で御座います。

私の心も辛くなり、どうやらそれが顔に出ていたようで、彼は外の雪のように柔らかに笑い、私にこう言いました。

「ただ、逃げて来た先がお前ん所で良かったて、俺は心底思っとる」

ああ、その一言で、私も何故だか救われたような気が致しました。巡らせた思考の一つ一つが無駄では無かったと言ってもらえたようで、目頭が熱くなるのを覚えた記憶が御座います。

私もだと、その時に言ってやれば良かったと、今でも後悔しております。私も、君が私の所に逃げて来てくれて、温かく充実した日々を過ごす事が出来たと、言っていたなら。

ひょっとすると、彼は私の元に留まっていてくれたやも知れません。今更言ったところで、最早遅過ぎるのですが。

「冬も半分が過ぎた。冬が終われば、俺は此処を出るつもりや。残りは二月。世話になったな」

それは、明確な彼の決意で御座いました。出ようと思うではなく、出ると彼は言い切ったので御座います。私が以前、好きなだけ居れば良いと言った時から、きっと彼の心は決まっておったのでしょう。

今更何を言っても、きっと変わらぬであろう。そう思った私は、ただ一度だけ頷いて見せ、こう言いました。

「出来るならばあと二月だけ、その間だけは、君の事を家族と思っていても良いだろうか」

私の言葉に、一瞬戸惑った様にも見えた彼ですが、穏やかに微笑んでくれました。期限付きならば、彼も承諾し、私自身もその時までには、別れる覚悟が出来るだろうと思ったので御座います。

その夜も、私達は普段と変わらず同じ蒲団で眠りました。お互いの間に、会話はありませんでしたが。

私は眠りの世界に引き込まれながら、次に纏まった金が入ったならば蒲団をもう一組買おうと考えました。

万が一、いつか彼が帰って来た日の為です。形にしなければ安心出来ぬなど、私も女々しいとは思いました。

けれども、やはり希望は捨てたくは無かったのです。彼にとってあの方が世の全てであったように、その頃の私には、彼がこの世の全てに思えておりました。

一方的な感情であったやも知れませんが、確実に彼の存在が、私の生きる目的になりつつありました。両親を失ってからは、私は私自身の為に生きる事に精一杯で、周りを見ている余裕などありませんでした。

寺の仲間とも話はしましたが、顔と名を知っている程度の仲でしたので、彼とあまり変わらないものだったのです。

彼が来てから、私は人と共に住む幸せを知りました。それは大層喜ばしい事で、今の私に多大な影響を与えたと思っております。そう、人は人が居らぬと生きて行けぬと言うよりは、人は人の為に生きる生き物なのです。

次の日も、また次の日も、私達は同じ朝を迎え、同じ様に生活しておりました。必ず来る、別れの日に向かいながら。



冬も一等厳しい寒さの時期を過ぎ、少しずつ雪も降らなくなって来ておりました。

彼が居なくなるのを指折り数える日々。苦しく無い筈がありません。けれども彼の前でだけは、私は平常心を装い続けました。

「如何致した。最近元気が無いようだが」

晴れた日で御座いました。唐突に、私達が通う寺の和尚様にそう言われたのです。私達はこの方に、様々な知識を教えて頂いておりました。

「人の意志を自由にするなどと言うことは、許される事ではありませぬよね」

自分自身に言い聞かせる様に、私はそう吐き出しました。罪深いと和尚様に叱咤されるであろうと思いましたが、私は続けました。

「私の傍から離れて欲しくないと、泣いて縋る事が出来ないのは解っておるのです。それでも考えてしまう自分が、愚かで堪らないのです」

しかし、和尚様はそのような事はなさいませんでした。私の話に耳をお貸し下さり、穏やかに微笑まれました。

「善哉、善哉。人とはその様な生き物なのだ。誰かを慈しんだり、愛しく思ったりする事は、決して悪では無い」

そう仰り、私の頭を軽く撫で、和尚様は堂の中に入って行かれました。私はその背中を眼で追い、もう一つだけお聞きしたい事があると伝えようとしました。

しかし、後ろから彼が私を呼ぶ声が聞こえましたので、それは叶わなかったのです。

「では私は、如何したら良いのですか」

誰にも聞こえぬ様に呟いたその声を聞いたのは、仏だけだった事でありましょう。仏がその問いに答えてくれたかは解りませんが。

私の元に駆け寄って来た彼に、私はこう尋ねました。私の家を出る日は決めているのか、と。ややあって、彼は寺の境内に植えられてある、桜の木をを指差しました。

「あん桜が咲いたら、ここを発とうと考えてるんやけど」

ここ連日暖かい日が続いていたためか、既に蕾がちらほらと枝に見受けられました。彼も私も、暫くその桜の木を眺めておりました。お互いに言葉が無かったのです。何と言うべきか解らなかったのです。

「数える程の日数しか無いやろうな。金は最後、少し多めに払うから」

静寂を破ったのは彼でした。こんな時ですら金の心配をしなくとも良いのに。そう思いながら、私は彼を見て笑いました。

心の中で一つだけ、ある事をすると、決心をして。

(20120805)