〜 玖 〜

私が決意したこと。それは、彼に文を書く事でした。口で言うにははばかられることも、墨と筆、それと紙の力を借りれば、伝える事が出来るような気がしたので御座います。

彼に比べると私の書跡は達者ではありませんでしたが、私は出来る限り丁寧に、一文字一文字に気持ちを込めて書いて行きました。推敲を重ね、何度も書き直しながら。

何度か彼が私に、何を書いているのかと聞いてきましたが、人への文だから見ないで欲しいと誤魔化しました。そして、納得の行くものが書けた日。寺の桜の蕾が、一つだけではありましたが開いたのです。

ああ、とうとう。とうとう、この日が。



「咲いたな。ほなこれ、今まで世話になった分の金や」

その日の夜、私と彼は囲炉裏を挟み、最後であろう食事を取りました。味などは感じられなかったように記憶しております。ひたすらに咀嚼し、喉の奥に追いやっていただけでした。

そして食べ終えた時、彼が懐から小さな袋を取り出して私にそれを握らせました。ずっしりと重いそれを開けると、今まで彼が私に払っていたものとは比べ物にならない程の金が入っておりました。

「どうしたのだ。この大金は」

私が訊くと、彼は表情無くこう答えました。

「今まで俺が働いて貯えとった、金の全てや。もう俺には必要あらへんからな」

金が必要無いとは、どういう事なのでしょうか。彼は一体私の家を出て、何処に行ってしまうのでしょうか。彼の行く先が解らないことがひどく不安に思えましたので、私は訊くことに致しました。

「訊いても良いかな。私の家を出て、君は何処に行くのだい」

私の問いに彼は暫く黙り込みました。私はじっと、彼を自分の瞳に映しながら返答を待ちました。その時間を長いとは微塵も感じませんでした。

「あいつの所に、戻ろうかと思っとる。あいつの最期を看取る為に」

心の何処かで、きっと彼は何時かあの方の所へ戻るであろうと思っておりました。二人の間にある何かが、途切れる事はきっと無いであろうと。

けれども、それが死に際を見る為とは想像もついておりませんでしたので、私は少しばかり戸惑ったので御座います。

「あいつは、もうあんまり長くはあらへん。あいつの亡き後、誰があの赤子を見る。誰があいつの死を語る」

一体彼は何度、死別の苦しみを味わうのでしょうか。

「双方とも、俺の役目やないやろうか」

けれども彼は、それを消化していたようなのです。諦めの感情ではありませんでした。人の死と言うものは確かに何時かは訪れます。何人たりとも、例外は無く。彼はそれを悲観せず受け入れ、そしてどうすべきかを自分で考えておりました。

どうすべきか。その答えを出すまでに、私は大層悩みました。きっと彼も悩んだのでしょう。眠れぬ夜があったやも知れません。けれども、彼は負けじと自分なりの結論を出したのです。

「あいつが動ける間に、ここを離れるつもりや。この地方の冬は厳しいからな。次の冬は越されへんと思うわ」

ここを離れるつもり。その言葉が、私の頭の中に響き渡りました。つまりそれは、今後会う事の出来る見込みが格段に下がると言うことで。

その時は、まだ行く先は決めておらなかったのでしょう。彼はそれ以上詳しくは語りませんでした。

「明朝、俺は戻るわ。ほんまに世話んなった。何度礼を言うても足りひん程や」

彼は深々と頭を下げました。そしてその日はそれきり、何も語ることはありませんでした。彼も、私もです。ただ何時もと同じように、共に一つの蒲団で眠りました。



その日の夢はただひたすらに、雪面に足跡をつける夢で御座いました。私は裸足で歩いておるにも関わらず、冷たさは感じておりませんでした。

息が白い。周りも白い。そして、頭の中も白い。何のために、歩いているのか。何故裸足で、雪面に足跡を残しておるのか。幾度も幾度も振り返り、その足跡を確認してはまた少し歩く。そんな事を繰り返す夢で御座いました。

ああ、私は、何をしておるのだろう。彷徨い何時か疲れ果て、この場で果てるのだろうか。出口の無い場所に一人、捨て置かれたようで御座いました。

そのうちに雪も降り始め、さらに白に埋め尽くされて行く世界の中、私はふと、暖かいものを感じたのです。先に進めば進むほどその感覚は増し、そして一瞬、ぶわっと吹雪きました。

私は顔を腕で覆い、目を堅く閉じました。しばらくそのまま立ち尽くしておったのです。風の音が止み、恐る恐る目を開けると、そこは白の世界でした。けれども何かが違います。降ってくるものも自分の足元にあるものも、雪ではないのです。

よく見ると、それは桜で御座いました。白の花弁がはらはらと舞っておりました。そして更に足を運んで行くと、桜の木が見えてきたのです。何処かで見たことのある、桜の木が。

その下には、人影が見えました。私は近付いて、誰なのか顔を確かめようとしました。しかしその時、背後から私を呼ぶ声がしました。何処か懐かしい声で御座いました。

「誰ですか、私を呼ぶのは」

そう言って振り向いた瞬間、目の前が闇に包まれたのです。目を開けると、黄色い光が飛び込んで来ました。朝日です。ついに、別れの朝がやって来ました。

彼は蒲団の中にはおらず、部屋の隅で身支度を整え、私が所持していた書を読んでいました。私は蒲団から飛び起き、慌てて支度を始めました。どの位慌てていたかと言うと、袴の片方に両足を通してしまった程です。

彼は読んでいた書を閉じ、喉の奥でくつくつと笑いました。私は恥ずかしさのあまり、彼を睨みつけてしまったのですが。

「慌てんでも、まだ出て行かへんで。寺のご住職に挨拶に行くんが先やからな」

微笑みながら、彼は私にそう言いました。その頃の彼の表情はかなり穏やかになっており、背負っていたものを下ろせたようでした。

いえ、下ろせたと言うよりは、彼が重荷を背負いきれる程に強くなったのだと私は思っております。

和尚様にご挨拶をと彼が言った時、私はふと考えました。彼はこの家を出て行くだけで帰ってくるのだと期待を抱くため、私は彼をこの家から見送りたいと。

目を瞑り、遠ざかって行く彼の後ろ姿を想像しながら、私は固く着物の帯を締めました。

「君に、受け取ってもらいたい物があるのだけれど」

私がそう言うと、彼は不思議そうな顔をしながら頷きました。私は机の上にあった文を手に取りました。そう、彼に宛てた文で御座います。その文を彼に差し出すと、彼は戸惑いながらそれを受け取ってくれました。

「私はこの家から君を見送るよ。その文は私が居らぬ所で読んで欲しい」

彼は私の言葉に静かに頷くと、文を懐にしまい、立ち上がりました。窓から光が差し込み、彼を背後から照らしておりました。その光は眩すぎ、私の目の奥をずんと刺すのです。

涙が出そうで御座いました。

「ほな」

彼は戸口まで歩み、一度私を振り返りました。深々と頭を下げた彼の姿を、私は鮮明に覚えております。

「ほんまに世話になった。達者でな」
「君も、どうか達者で」

ぱたりと戸が閉まる音が響き、それきり我が家は静寂の世界となりました。私が彼に書いた文の内容は、次の通りです。

(20120806)