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あの日以来、特に約束したわけでもないのに五条先生は卵焼きを貰いに私の前に現れるようになった。あの平々凡々な卵焼きのどこに惹かれたのかは分からないけれど、無言で手を差し出されるので卵焼きが入ったタッパーをその上に置く。私は犬か。一緒に食べるときもあれば、約束があるのかそのまま帰っていくこともある。よく分からないけれど、その度に隙あらば顔を寄せてくるので、最近ではマスクをするようになった。五条先生は眉を寄せていたけれど、ある一定の効果はあったと思いたい。マスクの上から舐めるような口づけをされたけどな!これはノーカンだ。

「お願い!この通り!!」

だからこそ五条先生の嫌がらせと言う名の攻めに対抗するため、私も頭を使うことにした。まず1つは、勢いで言ってしまった恋人(嘘)について、誰かそれらしい人を頼めばいいのではないかと閃いたのだ。所謂レンタル彼氏的な。そうして電話帳から話の分かる異性の友人を探した。この際、仲の良い獅子王先生に一芝居打って貰おうとも考えたけど、出来れば五条先生と顔見知りでない人の方が成功率が高い。というわけで私が選んだのは、大倶利伽羅である。

「断る。面倒ごとに巻き込まれるつもりはない」

土下座の勢いで頼んで見たけれど答えは否。何となく分かっていたよ、君とは長い付き合いだからね。

「今度の飲み会の時だけでいいの!さり気なく迎えにきてくれればいいから!」

そう、何を血迷ったか普段はお茶しか飲まない鶯丸先生がお茶会ならぬお酒会を開くというのだ。まあ確かに、年に一回の病院全体の休みらしいので羽目を外したくなるのは分かる。そしてそういう宴会事の幹事は比較的時間に余裕がある病理解剖室に回ってくるのだけれど、当然そんなめんどくさいことを上司がやるはずはない。つまり下に投げられるわけだよ、私にな!お膳立てして参加可否のメールを出してもらって、その集計と場所の確保は私の仕事。業務外手当くらい貰いたいものだ。今年はイケメン医師の殆どが参加予定だそうで、それを狙った女性スタッフの参加数が増える増える。ちょっと、いやだいぶ怖い。人数が人数なので、某ホテルの広間を貸し切って立食パーティーと相成った。勿論五条先生も参加するらしい。彼は大人気だからここでも絡まれる可能性は低いけれど、念には念を。恋人の存在をちらつかせれば平穏が訪れること間違いなしだ。

「俺を当て馬にするな」

「後生だから!報酬は弾むよ!数量限定、らんぶ屋のずんだ餅5個でどう?」

「…」

「朔日餅もつける!」

「はあ。今回だけだからな」

「有難う!場所と時間は後でメールするね!」

大倶利伽羅が和菓子好きで本当に良かった。和菓子の老舗であるらんぶ屋のずんだ餅となれば、それなりの出費だが背に腹はかえられぬ。それにずんだ餅で平穏が取り戻せるならば安いものだ。和菓子は正義。らんぶ屋で働いている友達にも連絡しておかねば。これで準備は整った。あとはさっぱりすっぱり興味をなくしてもらおう。そして待ちに待った飲み会当日。朝からルンルンな私は鼻歌歌交じりで検体測定をしていた。

「ふふふ!」

「…ご機嫌だな。そんなに飲み会が楽しみなのか?」

「これで平穏が取り戻せると思うと、もう嬉しくて」

鴬丸先生が訝しげな顔をしたが、私は意味深に笑うだけ。こうして難なく飲み会は終わり、彼の興味も尽きる。筈だった。


「ん…」

微睡んでいた意識がゆっくりと浮上する。身体を包み込むのは羽根のような柔らかさと暖かさを持った何かだ。布団から出ていた肩が冷たくなっていて暖かさを求めるように包まり直す。ふわふわのふっかふか。おまけに安心するようないい匂いがする。こんな掛け布団、私の家にあっただろうか。誰かに頭を優しく撫でられるのが気持ちよくて、微睡みから抜け出せない。擦り寄るように身を縮めれば、笑い声が落ちてくる。笑い声?

「ん、寒いか?温めてやろうな」

聞こえるはずのない声が耳を掠めて、ぱちっと目を開いた。視界を埋め尽くさんとする白。その中に混ざる人の肌としての白。寝起きのイケメンは心臓に悪い。条件反射で逃げようとした私の腰をその人は難なく掴んで引き寄せた。いつのまにか押し倒されて、腕を突っ張る暇もない。人と人の肌の温度が溶け合う感覚。更にはなんかこう、いつもより人肌を感じるというかなんというか。上から覗く金色は、今にもキスを落としそうな距離で楽しそうに揺れている。むき出しの喉仏と鎖骨を、シャラリと音を立てて金の鎖が滑った。互いの肩はむき出しで、勿論大事な部分以外に布の感触はない。語弊があるからもう一回言うと、大事な部分には布の感触がある。ただ、何とは言わないけれど、太ももの辺りに何かが当たっている。現実として色々受け止めきれないけれど、念のためちらっと自分の身体を見れば、勿論私も下着姿だった。これは、まさか。

「ひいっ!!!」

「どうだ、驚いたか?」

「な、え、は…ここっ…!!」

「ほら、ベッドから落ちるだろう。落ち着け落ち着け。昨日のことは覚えているかい?」

ゆったりと気を紛らわせるよう頭を撫でられるけれどそれどころじゃないのだ。ぐるぐると記憶を辿るが朧げなものしか出でこない。確か昨日は立食パーティーで、お酒もたくさん出ていた。あんまり飲めない私はちゃんとセーブして飲んでいたはずだ。ソフトドリンクと間違えてお酒を飲んでしまったのだろうか。駄目だ、鶯丸先生に女避けに使われて、ドリンクのお世話していたところまでしか思い出せなかった。

「だいぶ飲んでいたからなぁ…取り敢えず服でも着るか。きみ、このままだと茹で上がりそうだしな…話はそれからだ」

「あ、あの…私、酔った勢いで何か間違いを……?」

「さあ、どうだろうな。是非ともその間違いってやつを具体的に知りたいもんだ」

「……その………致しません、でしたか?」

「…気持ち良かったぜ?」

ずり落ちていたキャミの肩紐を、態々触れ合いを連想させるような手つきで戻しながら、蕩ける瞳でそんなことを言う。耳元に落ちてきた吐息のような言葉で、せっかく引いてきた熱がまた上がった。まじめに答える気がないのか、彼は縮こまる私を見て綺麗に笑うとベッドを軋ませて部屋を出で行く。気持ち良かった?何が?精神衛生上の問題だろうか。パタンと扉が閉まり、色々キャパオーバーになった私は布団に突っ伏した。待って待って、状況を整理しよう。ここは五条先生の家で、五条先生のベッドで、目が覚めたら五条先生が隣に寝ていたと。やばい。病院のスタッフが知ったら私に明日はない事案なのではないだろうか。そもそも大倶利伽羅に恋人役を頼んでいたはずなのにどうしてこうなった。頭まで被った布団をぎゅっと握る。

「…、五条先生の匂いがする」

スンッと鼻を鳴らしもう一度吸い込んだが、自分で言って更に恥ずかしくなった。当たり前だ、これは五条先生のベッドなんだから彼の匂いが付いてるのが常識であって、他の女性的な匂いがしないことが意外だったとかそんな事は今はどうでもいいのだ。ちょっと、いや、だいぶ落ち着け、私。

「君、着替えたらこっちに…」

「ぎゃああああ!!ノック!!ノックしてください!」

「昨日散々見られたんだ、今更隠したところでどうなるわけでもないだろうに」

「それでも!女性の着替えを見る趣味はないでしょう!」

「脱がせる方になら興味はある」

「へんたい!!」

投げた枕は、笑いながら閉じられた扉にあたって落ちた。人様の家で行儀の悪いことをしている自覚はあるけれど、そんなことよりも恥ずかしさの方が優った。だってこんな貧相な体を、女性の体なんて見慣れてます、を貼り付けて生きているような五条先生に見られたのだ。そんな気はなかった私の下着はそれはもう、楽さを追求した代物だし豊満でもなければ引き締まっているわけでもない。普通体型だ。お目汚し失礼しましたと言いたくなる。流石にこの下着はない。いやいや、何落ち込んでいるの。これで決定的な亀裂が入るかもしれないなら喜ばしいことじゃないか。近くに置いてあった、恐らく彼が畳んだでくれたあろう服を着て、おずおずと部屋を出る。寝室を出るとモノトーンで彩られた広いリビングダイニングが広がり、そこに置かれたテーブルの上にはコンビニの袋が置かれている。シックな部屋には似合わないそのビニール袋が何となく寂しく映った。しかしその横にはクレンジングシートと化粧水のセットが置いてある。スパダリかよ。私に気付いた先生はいつのまにか白のスラックスと黒いTシャツを着ていて、マグカップを二つ持っていた。

「漸く天の岩戸から出てきたか。さっきコンビニで買ってきたんだが、君の好みが分からなくてな。好きなものを選んでくれ」

「いえ、お気遣いなく。それよりもとんだご迷惑をおかけしてすみませんでした」

「急にしおらしくなっちまってどうした。まあ俺にとっても役得だったし、あのまま帰らせるにも危なかった」

「すみません。それでですね、昨日私が帰るとき誰か迎えにきてなかったですか?」

「…いいや。俺が見つけたのはタクシーを一向に拾えず、ヘラヘラ笑っていた君とそれを白い目で見る通行人くらいだ」

「まじか。穴があったら入りたい…」

そう言って顔を覆えば笑われた。あまりにも少年みたいに笑うから、思わず指の間から凝視してしまう。その顔は女を貪る色気がある訳でも、患者に慕われている五条先生の顔でもなく、ただの五条国永に見える。仕事とプライベートでこれだけ表情や人間性が変わる人も珍しい。ぽかんと開いたままの口は、五条先生にの指によって閉じられ、すりすりと耳の輪郭を撫でられる。その手つきのいやらしいこと。一瞬だけでもドキッとした自分を殴りたい。

「間抜け顔もいいが、どうせなら君の欲に塗れた顔が見たい」

「あ、いつも通りの五条先生だったわ」

「さて…まだ日も高いわけだが俺も君も暇だ。これから2人でお楽しみと洒落込むってのはどうだ?昨日はお預けを食ったし、朝食はきみがいい」

「私は食べ物ではないですし恋人いますっ!ここテーブル!いたたた!背中痛い!」

「ベッドならいいのか?」

「よくない!あのですね、私はクズ男に差し出す体もなければ心もないんです。本気で欲しかったら一途になって出直してください!!」

彼はキョトンと目を丸くする。満月が落ちそうだと思いつつ、そそくさと距離をとった。言ってやった!言ってやったぞ!五条先生をクズ男呼ばわりすることに、一片の心も痛まないけれどこれは大きな進歩では無いだろうか。ふむ、と顎に手をやって考えている五条先生は、じりじりと距離を詰める。直ぐに壁に背中が付いた。後ろなんて気にしてなかった私の、短い逃亡生活は終わりを告げる。それを自覚させるように、ダンッ!、と五条先生の両手が顔の横に置かれた。所謂壁ドンというやつである。甘さよりも威圧感の方が強い。

「なら付き合ってくれ」

「…一応お聞きしますが、何処に…?」

「…きみは馬鹿なのか?この状況でそんなとんちきな返しが出るとは…あぁ、違うか。ならお望み通り、快楽という天国に連れて行ってやるよ」

「望んでませ、んっ…」

視線を合わせるように屈まれて視線を合わせられず思わず下を向いた。それを咎めるように服の下から差し込まれた手が指が素肌を滑る。慌てて上から彼の手を掴んで止めたけど、指は自由に動くのか、さわさわと脇腹のあたりを触られ、その優しくももどかしい感触に皮膚が泡立った。

「言い方を変えよう。きみ、俺と恋人になる気はないか?」

「こっ…?!え、は?恋人…?付き合う?誰かに縛られたくないとかほざいてた五条先生が?てか私、付き合ってる人が…」

「大倶利伽羅は"役"なんだろう?なら何の問題もない」

「…何で大倶利伽羅のこと知って…」

「酔っ払った君が言っていたのさ。この人が恋人役の大倶利伽羅です〜ってな」

ワントーン高い声で揶揄うように言われた。何だそれは。私の声真似か。全然似てないし、てか何で自分でバラしちゃってんの。昨日の自分を殴りたい。その上、さっきの迎えがいなかった云々のやり取りは嘘だったのかよ。頭の中で悪態を吐いていると、五条先生は逃がさないと言わんばかりの、やや瞳孔が開いた目を細め、あわあわと目を白黒させる私を楽しそうに見下ろす。逆光で瞳だけが爛々と光ってて怖い。詰んだ。これは詰んでいる。助けて獅子王先生。そんな救助要請虚しく、白く長い指を携えた手が今度は頬に触れ、両頬をぐにっと寄せられる。

「それに、残念ながら大倶利伽羅は俺の知り合いだ。あいつの交友関係も知ってる。詰めが甘かったな」

「んうええ?!いや、でも…私と付き合うとか…」

「理由が必要か?端的に言えば、君を他人にくれてやるのが惜しくなった。安心しろ、無理矢理抱こうとは思わんし、溜まるようなら別の女で処理する。君はただ、そこにいてくれればいい。焦らずともその内惚れさせる」

ドヤ顔で言ってますけど、それって根本的に何も解決してない。つまりは何か。セフレでもないけどとりあえず側にいて欲しい的な?え、恋人の定義って何だったかな、誰か教えてくれ。いつもの揶揄いかと思ったけれど、それにしては大分表情が真剣味を帯びているし側にいるくらいなら安いものだろと言われ、その剣幕に押されて首を縦に振ってしまったことも事実。

「押してだめなら押し倒すまでだ。まあ君の了承も得たことだしな。まずは一緒に朝食を食べようじゃないか、恋人さん?」

「……?!」

掠めとるようなキス。それは一瞬の出来事で、顔を離した頃には彼の顔から獲物を仕留めるような剣呑さが消えていた。頬にあった手が解かれ、するりと自然な流れで私のそれに指を絡める。ぞわり、と触れた先から何かが這い上がった。駄目かい?と首をかしげる五条先生のあざとい事。困ったように下がる眉、それでいてアンニュイな表情。慎ましく優しげに細められた瞳がそこにある。朝日に反射した髪がキラキラと輝き、本の中から出てきた王子様そのものに見えるくらいのエフェクトがかかっている。さっきまでは影を背負った魔王だったのに、色気というかチャラい雰囲気は綺麗さっぱり何処かへ霧散していた。これで惚れない女がいたら、そいつはもうゴリラである。認めよう、今この瞬間、底なし沼に突き落とされた。完敗である。こうなったら彼の興味が無くなるまでの間、夢を見ようと思う。

「…コンビニのパンって味気ないですね。立派なキッチンがあるんだから使えばいいのに」

「痛いところを突くなあ…何なら君が作ってくれてもいいんだぜ?」

「卵焼きなら。それなら食べれるんですよね?」

「…あぁ。君のそれは一等美味いからなあ」

私の口からは可愛い言葉は出てこない。それなのに彼は楽しそうに笑うのだ。君の、俺に媚びないそういうところが好ましいと、よく分からない評価も貰ってしまった。つまり物珍しいって事ですよね。知ってます。勝手に冷蔵庫を開けて卵を3つ、拝借。思ったよりも調味料は充実してたので、だし巻き卵は簡単に作ることができたけど、出汁が違うためか五条先生は味が違うと不満げである。何だかんだで一緒に食べることになったコンビニのパンはジャムパンだったから想像通り甘かったけれど、何だかいつも以上に甘く感じた。





「はあ…飲み会といえど疲れる」

ドリンクを取りに行くふりをして、漸く女たちの輪から抜け出した国永は、同じく避難してきたであろう鶯丸の隣を陣取った。死角になっているテラスに早々に引き上げたであろう同僚は、涼しげな顔で杯を傾けている。

「漸く抜け出せたか。モテる男はつらいな」

「よく言うぜ。彼女を使って自分だけのらりくらりと躱しやがって…」

「羨ましいなら鶴丸も部下を使ったらどうだ?最も、勘違いしない女がいればの話だが」

「嫌味にしか聞こえないぜ」

くくっと喉で笑った鶯丸に向けて大きなため息を出す。この男、自分の部下が勘違いしない女であることをいいことに、散々女避けに使っていたのだ。お陰で倍以上の女の相手をすることになった。それが面白くもないし、漸く抜けて目的の人物にちょっかいを出せると思いきや、その本人はいないと来た。完全に国永の機嫌は急降下である。

「そんな鶴丸に朗報だ。彼女ならあそこで絡まれている」

指を刺された方向を見ると、グラスを2つ持った彼女が複数人の男性スタッフに囲まれていた。1つはここにいる鶯丸の分なのだろう。この飲み会のことを聞かれているのかと思いきや、イケメンに大半の女性職員を持っていかれた他の男性スタッフが、余り物に声を掛けているだけのようである。国永にも靡かない彼女はそれなり容姿も整っているし、格好の餌食というわけだ。パシられた挙句絡まれるとは、彼女も災難である。にこにこ愛想笑いを浮かべているが、その顔は大分疲れていた。

「あぁ、酒を飲まされているな。得意ではないと言っていたが大丈夫だろうか」

「態とらしいな…俺に行けと?お前の部下だろう。散々使っていたなら助けに行ったらどうだ」

「その役目を譲ってやると言っているんだ。彼女を捜していたんだろう?颯爽と助けてやれば好感度も上がるかもしれん」

上手いことを言ってはいるが、恐らくここを出て女に囲まれるのが嫌というのが本音だろう。全く助けに行く気がない鶯丸に溜息をついて、吸いかけの煙草を灰皿は押し付けた。こういう美味しいとこだけ持っていくのもどうなんだと思わないでもない。これで好感度が上がるとも思えないが、助けた事をネタに揺すればそれなりの見返りがあるかもしれない。そう思い直した国永は、再び煌びやかな会場へと足を踏み入れた。

「あの、すみません。そろそろ上司を待たせてるので…お水も緩くなっちゃいますし」

「上司ってあの鶯丸先生でしょ?彼も女性職員が放っておかないし誰かお世話してくれるから大丈夫だよ」

「…私もあの、これ以上お酒は…」

「あと一杯だけ付き合ってよ。ほら、このソフトドリンクでいいからさ」

分かりましたと頷いて、持っていたグラスを置くと素直に渡されたそれを受け取った彼女。素面に見えるが思考が大分鈍っているらしい。男が渡したのは一見オレンジジュースにも見えるが、明らかにカクテルだ。大体ボーイが持っているものはアルコールだし、そもそもソフトドリンクは個別で頼まないと提供されない。彼女の緩い頭からはそんなことも抜け落ちているらしい。己に向けている警戒心の一片でも纏わせたいものである。気配を消しながらゆっくりとその集団に近づいった。

「それにしても君は珍しいよね、五条先生にもちょっかいかけられてるって聞いたよ」

「はあ…まあお遊びでしょうけど」

「普通あれだけ顔がいいと靡くもんでしょ?」

「別に顔で人を判断しているわけではないので」

「見た目に騙されないのは本当凄いと思うよ。五条先生って顔はいいけど性格がアレだし、夜遊びも派手だからね。君がそれに引っかからなくて良かった」

「…はあ」

「何であんな奴が内科で幅を利かせられるのか不思議だよ。もしかしたら理事長と寝たのかもね」

まさか女を回収をしに来た先で自身の陰口を聞くことになろうとは。ゲラゲラと笑う集団を見て、国永の顔からスッと表情が消える。別に悪く言われることは慣れている。同僚からの妬みや嫉みはいつだって付き纏ったし、器量の良さを武器に女遊びをすることだって間違ってはいない。だが理事と寝た発言は些か腹を据え兼ねるものがあった。誰があんな年増を抱くか。ここまでのし上がったのは裏表のないただの実力である。むしろ顔や地位が目的なのは言い寄ってくる女の方だ。まあそんな女人と遊んでいる事は確かなので今更否定する気は無いが、そういう事は面と向かって言ってもらいたいものである。本人のいない所で悪く言われるのは、何ともまあ気分が良いものではない。

「…お言葉ですけど」

「ん?」

「五条先生は確かに色々だらしが無いし悪い噂をたくさん聞きますけど、仕事はきちんとされていますよ」

「…まあ、それは」

「五条先生の書くカルテ見たことあります?患者さん一人一人の状態から考えうる全ての疾患名まで事細かに書いてあります。だから診断を間違えないし、決め付けないから患者からも人気が高いんです。診察の間に論文だって書いていますし、努力は惜しまない。それだけで医師としての実力は折り紙つきだと思いますけど」

「…っ」

「確かに性にはだらしがないです、そこは否定しません。人間としても最低です。ですが医師としての五条先生を私は尊敬しています」

「…は?」

「貴方方の言い分はただの負け惜しみにしか聞こえません。五条先生を羨むより先に、ご自身で努力されてはいかがですかね」

男性スタッフに気圧されず、きっぱりと言い切る彼女は何処か輝いて見えた。軽蔑もされていたが尊敬もされていた。それでも噂やフィルターに惑わされず、五条国永という人間をちゃんとその瞳に写していたことに、心臓が鳴る。血に乗って歓喜が全身を駆け巡った。どうしても緩んでしまう顔の筋肉を手で覆い隠す。締まりのない顔をしている自覚はあった。

一方、まさかそんな返しがくるとは思っていなかった彼らは動けないようだった。怯むスタッフを他所に、ぐいっとグラスを煽った彼女はご馳走様でしたと、男性の間を掻き分ける。ようやっと抜け出せたところで、やはりアルコールの一気飲みはきつかったのだろう。急に動いたせいで足元がふらつき、彼女の体がふらりと傾いた。言わんこっちゃない。転ぶ前にその腕を取って己の腕の中に引き寄せ、力に倣うまま転がり込んだ女を胸に抱き留める。やはり、こうでなくては。見下ろした先、いつもより濡れた射干玉の瞳と視線が絡んで、自然と口角が上がった。

「君、俺を褒めるなら是非とも面と向かって言ってくれ」

「…褒めてないです勘違いです」

「どれ、褒めてくれた礼だ。そこまで送ってやろうな。それから…後ろの男性諸君。俺を悪く言うのは構わないが、そう言うことは実力が追いついてから言ってもらいたい」

国永に睨まれてさらに縮こまった集団を置いて、その場を後にした。腕を引いているものの横を歩く女の足取りは軽いのに拙く、危なっかしい。酒に思考力を奪われているのか、彼女はされるがままである。いつもの言い合いもなければ、繋がれた手を振り払うそぶりも見られない。ただ大人しく付いてくる。何だこの生き物は。本当にあの悪態を吐く女と同一人物なのか。

「いやはや驚いた。てっきり俺は嫌われているとばかり思っていたが」

「…別に嫌いだなんて一言も言ってないじゃないですか。それに尊敬しているのは本当です。人間性はどうであれ、五条先生はかっこいいです」

「ははっ。君からそんな言葉を聞けるとは嬉しいねえ」

「きっと先生は顔が良すぎるから性格が捻くれたんですね、分かります」

「そうかもな…誰かに直してもらいたいもんだ」

出来れば君に、とでも言ったら彼女はまた嫌そうに顔を歪めるだろうか。ちらっと後ろに視線をやれば、手を引いているのは国永だと言うのにキョロキョロと周りに目を向けていたが、目が合うとへにょっと笑う。警戒心は何処に置いてきたんだと問いたい。

「あー…君、ちょいと飲みすぎだ。何処かで涼むかい?」

「いいえーお迎えが来る時間なので帰ります〜御機嫌よう」

「相変わらず冷たいなあ。迎えはご家族の方か?」

「んふふ〜丁度いいので紹介しますね〜」

「は?」

こっちです、と逆に手を引かれるので大人しく付いていくことにする。彼女からこうして触れてくることは初めてで驚いたが、これで素面に戻ったらどう慌てるのかと考えると中々気分のいいものでもあった。熱いくらいの温度が国永の指を握って、先導していく。連れてこられたのはホテルのエントランス。何だ、ホテルの部屋ではないのかと若干落胆したものの、人が疎らの中を彼女は一直線に歩いていく。その先に見知った顔を見つけ、国永の白い柳眉が上がった。同時に、彼女の手が離れる。

「おおくりから〜」

「…遅い。それに飲みすぎだ。酔っ払いを介抱するつもりはない」

「えへへ〜雰囲気良いってやつですよう」

「驚いた。伽羅坊じゃないか」

「…国永?」

彼女の後を追い、これまた同じように驚く大倶利伽羅に近づく。でれでれと腕を組もうとする女を軽くあしらっている姿はどう見たって恋人のそれではないし、大倶利伽羅の表情とて迷惑極まりないと言いたげてある。

「あれ?お知り合いです?参ったなあ…」

「おい、どういうことだ。説明しろ」

「ちょっと黙ってて。五条先生、この人が私の恋人役の大倶利伽羅です〜」

じゃん、と効果音付きで声高らかにされた宣言。こいつ、役って言ったか?今、恋人役って?思いっきり嘘の恋人だと宣言した彼女に、2人分の呆れた視線が刺さる。しかし酔った本人には何の効果もないばかりか、自分が口走ったボロにすら気付いてすらいない。国永と大倶利伽羅の視線が交わり、互いに互いの置かれた状況を把握した。厄介なことをしてくれる。一方の彼女は目的を果たして満足したのか、大倶利伽羅に凭れ掛かってうつらうつらし始めた。気が知れた知り合いだからか、急に眠気が襲ってきたらしい。そこまで気を許していると思うと少しだけ羨ましかった。

「…伽羅坊、一晩だけ彼女を譲ってくれないか?」

「…手当たり次第に手を出す癖、まだ直っていないのか?いい加減やめたらどうなんだ」

「こればっかりはな…天地がひっくり返ったところで直らない」

「直す気がない、の間違いだろう」

大倶利伽羅の鋭い視線に、国永は参ったとばかりに肩を竦めた。しかしこれとそれとは別物である。あんなことを言われた後だ、不覚にも揺すられた部分もある。近くに置いてもう少し彼女という人間を知りたくなった。

「何、悪いようにはしない。脈がないなら諦めるさ」

「泣き付かれる俺の身にもなってみろ」

「ははっ!案外ころっと忘れるかもしれないぜ?なんせ俺が口説いても中々落ちないからな」

「…見た目に反して傷付きやすいやつもいる」

「肝に銘じよう。それで、譲ってくれるのか?」

大倶利伽羅はこれ以上言っても無駄だと思ったのか、彼女の顔を見て暫し巡考する。そうしてじっくり考えた後、勝手にしろと身を引いた。片手にはヘルメットを持っているし、こんな状態では連れて帰れないと判断したのだろう。

「助かる。もし彼女に問い詰められたら埋め合わせはしよう」

「別にいい。それよりも約束は守れと言っておけ」

「約束?」

「言えば分かる。俺は帰るからな」

くれぐれも面倒ごとを起こすな、と警告じみた言葉を貰い、その背を見送ってから彼女をタクシーに乗せた。そうして自宅に連れて帰ってベッドに転がしてから数十分。女が起きる気配はなくむしろ益々深く寝入っていしまっていることに、少々落胆した。いや、その方が運びやすくていいのだが。

「無防備なのか図太いのか…」

ぐっすり寝たままの女を見下ろす。ここまで来て手を出さない己を褒めたい。服を着たままでは寝にくいだろうと最もな理由をつけて、抜きエリのシャツのボタンを外し袖を抜き、細身のデニムも足から抜いてやる。服を脱がせていけば起きるかと思ったがその気配はない。一皮一皮剥いていくうち、とても恋人がいるとは思えない何の変哲もないインナーと下着が出て来て笑ってしまった。インナーの裾を捲れば、女性にしてはやや薄い腹がのぞく。そっと触れると思った以上の弾力があり、肌はなめらかで吸い付いてくるようでもあった。ごくりと、喉が鳴る。そうしてゆっくりと撫でまわし堪能した後、へそのすぐ下に顔を寄せた。少し食んてみれば、何処もかしこも柔い。舌で湿らせて、ちゅうっと吸い付いてやる。途端に寝ているはずの彼女から発された、鼻にかかったような吐息に気分が良くなった。

「…綺麗に咲いたぜ?我慢している俺にご褒美ってな」

満足げに咲いた紅い華を撫で、自分も来ているものを脱いで彼女の横に体を滑らせる。これくらいの驚きなら許されるだろう。腕の中にぴったりと収まる身体は、まるで自分の為に拵えられたように妙にしっくりときた。首筋に顔を埋める。汗と彼女と、それから使っているボディソープが混ざったような匂いに、くらくらした。

良く良く考えれば、自分から抱きたいと思ったのも、自ら口吸いを求めるのも彼女だからだ。何かに誘われるように気づけば顔を寄せており、その甘さと柔さは他の女では感じる事はできない。獅子王との会話を思い出す。

「…他にくれてやるには惜しいな」

他の誰かに取られるくらいなら、首輪でもつけておくべきか。さらさらと流れる髪を撫でながら、今だけは自分のものだと腕の中の彼女をもう一度抱え直した。