Dr.クズ丸

「げっ…」

前処理が終わる短い時間で、駆け込むように夕食をとった私を待ちかけていたのは、2時間くらい前に依頼されていた検査結果と、先輩からのありがたくない付箋。宛先と私への上辺だけの労りが書かれたそれをぐしゃりと潰す。自分の仕事は自分でしようよ、先輩。いやね、先方がきっと恐らく与えられた部屋にいなかったからだろうけど、それならそれで重要書類はここへとか籠を設置するように先方に提案してみたらいいのでは、と何度思ったことか。毎回毎回、先輩のタイミングの悪さを尻拭いさせられる私の身にもなってみろ。

出来上がったばかりの結果が収められたファイルを開く。担当医の欄に目を滑らせれば悲しきかな、この病院で色んな意味で大人気であるその人の名前だった。内科医、五条国永。神から与えられしその恵まれた容姿と人目を引く儚い髪色。それでいて剽軽で快活。話しやすく診断も正確で上からも下からも信頼されている、内科の若手エース筆頭。噂ではその手先の器用さから外科よりも手術が上手いらしい。へえ、神様は意地悪ですね。そして言わずもがな、看護師や患者からも大人気である。そして彼が当直の時は、仮眠室に出入りする看護師が絶えないのだとか。次の日には私も私もというお話で現場は持ちきりだ。貴女は参加しなかったの、とたまに聞かれるが、知らんがな、である。そんなイベントに参加したくありません。部屋にかけられた時計を見る。この時間であれば急患も入る可能性が高いし、部屋に戻っているだろう。はあ、ともう一度大きな溜息を吐き出し、廊下に出た。

「お、また面倒事押し付けられたのか?」

「獅子王先生、こんばんこー」

白衣のポケットに手を突っ込み、チュッパチャップスを転がして声をかけてくれたのは、小児科で活躍する獅子王先生だ。夜なのに太陽みたいに輝く金髪と笑顔が眩しい。一緒になって遊んでくれると子供に大人気。小児科で金髪ってどうよ、と最初の頃思っていたけど、底抜けな優しさでカバー出来てるから問題ないらしい。この病院の規律の意味がわからない。彼はへらっと挨拶した私の手にあるファイルを見て、お察し、みたいな顔をした。

「相変わらずこき使われてんな」

「下っ端ですからね」

「縦社会は辛いなあ。これやるから元気出せよ」

「うっす。有難うございますー」

プリン味のチュッパチャップス。彼のポケットは4次元か何かだろうか。いつも色んなお菓子が入ってて、会うたびに1つ2つくれるので私の贅肉が増える原因の1つでもある。聞けば今さっき夕食を終えたみたいで、これから当直らしい。頑張ってくださいと言えば、おう、と元気な返事が返ってきた。

「そういえば五条先生見ました?」

「あー…さっきシャワー室から出てくるのは見たぜ」

「じゃあ部屋にいますね。待ちぼうけ喰らわないので良かったです」

シャワー室から出てきたということは、そういうことである。獅子王先生も視線を泳がせてたし、まあ言わずと知れたことでもあるので今更驚きもしない。軽蔑はするけれども。イケメンのデフォルトだよね。

「お前はあんまり興味ねーよな、鶴丸のこと」

「鶴丸?」

「ん、ああ。五条先生のこと。俺たちの中ではあだ名みたいなもんだな」

「同期でしたっけ?まあちゃんと検査結果を届ける時間に部屋にいてくれれば興味はないですね。イケメンは3日で飽きるって言いますし」

「変わってるって言われねぇ?」

「言われますよーでも病院勤めなんてこんなもんです。それに女の戦いは遠くで見てるに限ります」

そう言えば獅子王先生は苦笑いを浮かべた。そもそも私は出来るだけ平穏でいたいのだ。あんなサバンナの肉食動物よろしく目をギラギラさせた人たちの中には入りたくないし、働いた分だけきちんとお給料を貰えればそれで満足。病理の臨床検査技師であるため限られたスタッフとしか関わりがないので、職場恋愛も何もないのだ。お喋りの相手は細胞の標本とチームメイト。寂しくなんてない。恋は始まる前から終わっている。獅子王先生とそんな他愛もない話をしながら移動し、それぞれ用向きがある病棟の前で別れた。私の仕事はここからである。出来ることなら渡してすぐに帰りたい。絡まれるのも看護師に睨まれるのもごめんだ。五条と書かれたプレートが下がる扉をノックする。少しして、どうぞと入室を促すやや低めの声がした。

「失礼します。五条先生、依頼頂いていた検査の結果をお持ちしました。ご確認をお願いします」

「ああ、遅かったな」

「一度別の者が伺ったんですが入れ違いだったみたいです」

少し皮肉を入れてやったが全く効果はないようだ。髪を拭いていた手を止めてファイルを受け取った五条先生は、早速中を開いて確認している。中途半端に掛けられたタオル、まだ水気の残る銀髪と首筋を流れる水滴に何とも言えない気持ちが沸き起こる。まるで他人の情事を見てしまったような恥ずかしさと、背徳感。それに少しの絶望感。仕事をしている時の真剣な姿とは全く違う姿に、戸惑いというか落胆というか兎に角居心地の悪さを覚えるのだ。全てはこの人から流れ出る色気のせいなんだろうけど。だからこそ、この部屋には1秒たりとも長居はしたくないのだが、この人は確認が終わるまで待てと言う。どんな拷問だ。前に一度結果を置いてさっさと帰ろうとしたら、首根っこを掴まれて椅子に座らされた上、病理解剖室へ苦情が入れられたので、今ではこうして大人しく待つことにしている。カチカチと秒針が動く音と紙が擦れる音が響く。ずっと紙面を見ていた琥珀色が、スッと細められて私に向けられた。ある意味、確認が終わったという合図でもある。よし帰れる。

「じゃあ私も仕事あるので戻りますね」

「いや、待ってくれ。ここの数値、値がおかしくないか?」

「え?何処です?」

「ここだ」

五条先生は私が横から覗き込めるように上体を少しずらした。とんとん、とペンで叩かれる場所を覗くが別段おかしい数値はない。その前後も確認したけれど私では何が変なのか分からなかった。きちんと、彼が疑った病名を肯定する数値が出ているのに、何がおかしいのだろうか。それとも何だ、寝起きでボケているのか。文句を言おうと顔を上げれば、何故か目を閉じた五条先生のご尊顔がもの凄く近くにあった。いつのまにか細くも男らしい指が顎に添えられて、上を向かされる。へえ、まつ毛まで白くて長いんだ、じゃなくて。グッと手で押し返せば物凄く不服そうな顔をされた。本来その表情を浮かべるべきは私だからな。油断も隙もない色男め。

「何をするんだ」

「こっちの台詞です。そういうサービスは仕事の内容に含まれていません!」

「そう言うな。口寂しいんだ、慰めてくれ」

「どの口が言いますか!他の看護師さんにでも頼んでください!」

「ははっ!いつにも増して威勢がいいな。恥ずかしいのか?安心してくれ、自分で言うのも何だか俺は上手い」

「そう言う問題じゃない!!」

「ほう?ならば何が問題なんだ?緊急の連絡も入っていない、君は俺に検査結果を届けるという仕事を完了した。俺の時間も空いている…何も問題はないだろう?」

するりと腰を撫でた手でぐっと引き寄せられる。もう片方の手は、さっき押しのけるときに使った私の手を握りこんで、これ見よがしに手の甲へ唇を落としてみせた。圧倒的な支配と色気。食べられる前のあの独特な気配が漂い始める。だがしかし、そこは私の理性が押し勝った。私は仕事でこの部屋に来ただけで、五条先生の寂しさを埋める一片になるつもりはない。今後も顔を合わせる仕事相手となれば尚更だ。嘘も方便、今こそその宝刀を使う時だろう。

「私、恋人いるんで!こういうことは間に合ってます!!」

「は?」

一世一代の嘘だが、彼の理性を取り戻すのに一定の効果はあったらしい。ふっと力が緩んだ隙に距離を取る。見開かれた目が段々細くなって行くのを見て、背筋に悪寒が走った。捕まると多分まずい。そう判断した私の行動は早く、失礼します!と脱兎のごとく逃げ出した。エレベーターを待っている時間も惜しく、普段誰も使わない階段を駆け下りる。3階分降りた先の踊り場で、しゃがみこみ、上がりきった呼吸を整える。ばくばくと鳴る心臓が煩い。引き寄せられた時に香った五条先生の香水を思い出して、益々顔が熱くなった。あんな、性にだらしがないイケメンになんかときめくわけがない、そう思いたいのにやっぱり心というものはどうにもならないらしい。どう転んだってあの人は一夜の快楽のために女を使い捨てにする最低な男であると同時に、真っ直ぐに人の生死に向き合い、治療に奔走してくれる心優しい五条先生でもあるのだ。

「くそーっ…だから嫌なのよ」

認めよう、私は五条先生を好いている。ただし、それは仕事をしているあの人の姿とその姿勢にだ。決して艶と色気を撒き散らすもう1つの顔にではない。同じ人だと分かっていても、どうしてもそこは譲れない。ぎゅっと目を瞑る。それだけで五条先生の指先から溢れる熱を思い出して、頭が爆発しそうだった。だが騙されるな、あれはお前の嫌う色ボケじじいだ。

「…よし、今日のことは忘れよう」

嘘とはいえ、恋人がいると宣言したわけだし、面倒臭い関係になる事を嫌う五条先生のことだ。これ以降私が絡まれることなどないだろう。自分で失恋の道をこじ開けたけど、元々想いを伝えるつもりもなかったし、都合よく絡まれない為のいい牽制にもなった。それにあの人がある特定の誰かのものになるなんて想像すら出来ないし、色よい返事をもらってもセフレがいなくなる日はきっと来ないだろう。ならば想うだけの方がきっと楽だし傷つくこともない。

「…よしっ!帰ろ!」

ぱんっと自分の手で頬を叩き立ち上がる。今日はこのまま帰って、私の失恋と明日からの平穏な日々に祝杯をあげようではないか。気持ちを切り替えて病理解剖室へ戻った私だったが、次の日から地獄を見るようになるなんてこの時はまだ知る由もなかった。




「…鶴丸か、どうした」

「鶯丸、どういうことだ。聞いていた情報と違うじゃないか」

臨床検査技師である女が部屋を飛び出して行ってから暫く、彼女の言葉に固まっていた五条は鈍い思考の中ポケットから携帯端末を取り出し、目的の番号をタップする。数コール後に出たのは、彼女の先輩でもあり自分の同期でもある鶯丸。その変わらない呑気な口調に、国永の苛立ちは益々募った。灰皿を持って喫煙スペースであるベランダへ移動する。

「俺は言われた通り、彼女に仕事を押し付けて帰っただけだが、何かあったのか?」

「恋人がいるらしい。お前の話では居ないはずじゃなかったか?」

「ほう?知らん間に作ったのか?」

「俺が聞いているんだ」

ぐりっと灰皿に煙草を押し付ける。態々煙草嫌いの彼女のために、一日我慢していたのが馬鹿みたいだ。短くなったそれを捨て、新しいものに火をつけてから肺の奥まで吸い上げる。目前に迫った、彼女の表情は悪くなかった。薄っすらと頬を染め少し開いた唇の奥に艶々とした舌が潜む様子は、彼女を押し倒したわけでもないのにゾクゾクするものあり、ふと香った匂いに頭がくらくらした。もう少し強引に行くべきだったかと反省するも、怖がらせては意味がない。自分に興味を見せないどころか、関わることを最低限にしようとする彼女に興味が出たのは、欲しいものは何でもすんなりと手にしてきた国永にとって必然だった。ただ本当にこちらに靡いて恋人面をされることは避けたいという我儘もあり、だからこそ恋愛に溺れず割り切れる人間かどうか、確信を得るまでは手を出さないことにしてのだ。

そうしてじっくり彼女の情報を集めて漸く手を出すに至ったというのに、その口から出たのはまさかの恋人存在宣言である。あれだけ色恋沙汰のいの字もなさそうな彼女に恋人がいたとは、流石の国永も見誤ったかと呆気に取られた。その不意をついて逃げられたのだ。逃げられたこともそうだが、あの雰囲気まで持っていったのに彼女の興味がどうしたってこちらに向かない事が苛ついたし悔しい。

「くそ…お前の話も当てにできんな」

「当てにする方が間違っている。彼女と俺は仲が悪いわけではないが、腹を割って話すほど仲が良いわけではない。大包平のことならいざ知らず、ただの後輩のことを一字一句教えろと言うほうが無理があると思うが?」

「違いない。まあいいさ、いざとなれば別れさせる手はいくらでもある」

「時々お前は怖いことを言う。その前にやるべき事があるんじゃないか?」

鶯丸の言葉を鼻で笑う。女癖の悪さは今更だし直すつもりもない。それに、このままのほうが彼女の歪む顔が見る事ができるので、ある意味必要な余興でもあった。所謂、好きな子ほど虐めたくなるという子供染みたあれに似ている。快楽に溺れる顔は後々見られるとして、傷付いたような、歪んだ顔を見るにはこれが一番である。自分だけがあの能面を崩す事ができる、それを思うだけで優越感があった。

「異常だな」

「今更さ」

「ならば尚更早く手を打ったほうがいいんじゃないか?彼女のいう事が本当なら、恋人にはもっと色んな顔を見せているだろうしな」

「それもそうだな」

ちらっと下を見れば、例の女が足早に帰るところだった。その足取りは軽い。今から恋人のところへ向かうのかと考えると、収まっていたはずの苛立ちが腹の中で身を起こす。手に入りにくいものほど欲しくなるとは、まさにこの事。早くこちら側へ落とさなくては。落ちた後はそれなりに遊んでさよならになるだろうが、既にここまで振り回されているのだ。それくらいしないと割に合わない。

「明日からまた借りる」

「分かった。まあ、程々にな。あの子は優秀だから、抜けられては困る」

「善処はする、と言っておこう」

鶯丸のため息を最後に電話を切る。欄干に身を預け、彼女が駅の方面へ歩いて行く姿を見ながら明日からの接触を考えた。恐らく、ここ数日は警戒した野良猫のようになるだろう。その様子が簡単に想像できて、喉で笑った。怪しく細められた瞳は獲物を狙う獣のようで、その視線は彼女から外れることはない。

「さて、どうしてやろうな」