とんとんとん、と軽快な音がする。
器具がこすれるような音と漂ってきたお味噌汁の香りに、閉じていた瞼をゆっくりと開けた。
朝食の香りで目が覚めるなんて、中学校以来だ。昨夜しっかりと抱きしめて寝たはずなのに腕の中はもぬけの殻で、余程早起きだったのか温もりなど既にない。

音を立てないようにベッドから抜け出す。リビングに通じる扉を開ければ、一層いい香りがした。誘われるまま廊下と一体になっているキッチンを覗く。狭い中忙しなく動き回る姿を見つけて、頬が緩んだ。こちらに背を向けているため、気配を消して仕舞えば近づいても気づかれることもない。

朝食の準備がひと段落する頃合いを見計らって、その細い体をもう一度腕の中に閉じ込めた。お気に入りだと教えてくれた柔軟剤の香りがする。

「わっ、吃驚した…」
「おはよう。早いね」
「おはよ、夏油くん。起きてたの?」
「いい匂いだったからね、ずっと見ていた」
「えー…声かけてくれたら良かったのに。すぐ食べる?」

彼女の声に応えるように、炊飯器から炊き上がりを知らせる童謡が聞こえた。それを無視して、面紗の上から頬へキスを送る。隙間を縫うように身体へと彷徨いでた手が、抗議の意思を持って弾かれた。少し強張った筋肉がいつもより敏感に反応する。菜箸が俎板の上で転がった。

「駄目なの?」
「駄目だよ、昨日したでしょ?」
「私はまだ足りないんだけど、困ったな」
「夏油くんが困るのおかしくない?逆だよね、普通」
「君が体力を付けたら解決する問題だと思わないか?」
「残念ながら思わないかな!」

彼女は可笑しそうに笑って、腹に置かれたままの手を軽く叩く。自分の為に作られた朝ごはんは確かに魅力的だが、腕の中にいる彼女程でもない。シンクから遠ざけるように自分の方に引き寄せれば、困ったような笑みに変わった。諦めたのか、飽きれたのか。先程まで自分の力で立っていた彼女が、力を抜いて身体を委ねた。
2人分の呼吸が、静かに響く。今はこの時間を堪能していたい。お互いに今日は休日と銘打っているのだから、多少の我儘は許されるだろう。

「ふふ…」
「どうかした?」
「ううん。別に」
「何、気になるんだけど」
「内緒。言ったら夏油くんが調子に乗りそうだから」
「そう。なら言いたくなるようにしようか」
「わっ!待って、言うよ!言うから!」

服の上から胸のふくらみに触れれば、案の定降参は早かった。それ以上悪戯ができないように必死になって両手で掴んで侵攻を止めようとする。気まぐれに動きを止めてやれば、ほっと息を吐いて力を抜いた。その気になれば押し倒すことなんて造作もないのに、これで止めた気になっていなら、憐みを通り越して最早滑稽としか言いようがない。

「それで?どうして笑ったのか教えてくれる?」
「調子に乗らない?」
「努力はするよ」
「うわあ、不安しかない」
「ほら、早く言って」
「わかった、分かったから!」

急かす様にふにふにと柔らかく指先で圧力を加えれば、一層慌てて口を開いた。

「私、この時間が結構好きだなって」
「この時間?」
「うん、夏油くんの腕の中にいる時間。上手く言えないんだけど、凄く安心するの」
「…」
「私って術式的に腫物扱いされることが多いんだ。でも夏油くんはちゃんと認めて、意を汲んでくれるでしょ?」
「そうかな」
「そうだよ。私がしてほしくないことは絶対しないし、聞いてくれる。それが凄く嬉しくて。まあ、例外もあるけど」
「……」
「抱きしめてくれる時は特にそう感じるの。“私”、ちゃんとここに居るんだなって、居ていいんだなって安心する」
「居てくれないと、私が困る」
「ふふ、有難う。夏油くんも勿論だけど、後輩たちは皆優しくて好き」

腕の中の彼女が見上げて、目を細める。話してくれた言葉は嬉しいが、最後の一言が余計だ。ここまで関係を進めておきながら、彼らと同じくくりにされたのではたまったもんじゃない。あの時から、彼女は特別になった。同じ土台で見てくれないと困る。
細い身体を囲う腕の力を強める。

「結婚しようか」
「えっ?!」
「悟や硝子と一緒くたにされるのは気に食わない。だから結婚しよう」
「急にどうしたの、夏油くん。寝ぼけてる?」
「残念ながら頭は冴えてる。君は首肯してくれるだけでいい、準備は私がするから」
「ちょっと待って、え、まって?」
「今すぐは難しいかもしれない。呪術連は私が作った団体への不信感もあるだろうし、君への風当たりが酷くなっても困る。でも大丈夫、こういうことなら気は長い方だから」

この関係になって5年、高専時代を入れれば8年だ。よく我慢した。
未だに状況を理解できてない彼女は、腕の中でオロオロしている。気まぐれだけでこの関係が続いていたと思っているのなら、お人好しにもほどがある。勿論、そこに付け込んだこちらの作戦でもあるが。
関係を切られていない以上少なくとも嫌われてはいないだろうし、そろそろ囲っても誰にも文句は言われまい。寧ろ一部から早く責任を取れと思われていそうだ。

「私だけでいいよ」
「え…?」
「君を安心させられるのは、私だけでいい」
「…う、でも…」
「ね?私と夫婦になって」

そうしたら引き取った二人とも本当の家族になれるし、一緒に暮らせる。まさにいい事尽くしだ。
当の本人は顔を真っ赤にして下を向いてしまった。直球過ぎだろうか。だが良くも悪くも欲がない彼女の性格上、遠回しの表現では躱されてしまうし、意識してくれない。
垂れた髪を耳にかけてやる。耳まで真っ赤にしているのだから、期待するなという方が無理な話だ。

「いや?」
「嫌じゃないし、う、嬉しいけど…でも…げ、夏油くんはそれでいいの?もっといい子はいっぱいいるだろうし、何か責任とらせちゃったみたいで…」
「君じゃなきゃ意味がない。責任というならそうだな…」
「…」
「ここまで私を惚れさせた責任、取ってくれる?」

上げさせた顔にした逆さまのキスは、拒まれなかった。



「落ち着くまでは通い婚にしようか。勿論私が通うよ」
「え、あ、うん?」
「其れとも事実婚がいい?上が煩いならまずは既成事実も作ろうか。君に合わせるよ」
「き…っ?!いや、そんないい笑顔で言われても…」




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