きみ以外を歪めた世界

高専を揺るがした、あの星漿体暗殺事件から約2ヶ月後。私は夏油くんと任務を組む事が多くなった。

それもその筈。五条くんはあの事件の死に際でついに覚醒し、とうとう反転術式を操作できるようになった。御三家の一角を担う五条家出身で六眼を持ち、反転術式を使える呪術師。文字通り、最強の肩書きを手に入れたのだ。今はもう日本のどこにも彼の右に出るものはいない。

それは、今まで肩を並べあい切磋琢磨してきた二人の決別を意味したのかもしれない。

一級から特級術師へと無事昇格した五条くんは、今では1人忙しなく日本各地を飛び回っているらしい。
階級と相棒の多忙によって組むことができなくなった夏油くんと、卒業後は準一級術師でありながら監督補佐官として高専に従事する予定の私が組むことになるのは、最早必然だったのだろう。
それに今年は来年よりも呪霊の発生ペースが高い。その為任務も梯子状態のとなり、ペアとして固定されやすかった。

バスに揺られること数時間、恒例となった山村での任務を終え、漸く下山に漕ぎ着けた。しかし悲しきかな、ここは田舎。20時を過ぎればバスは勿論、タクシーすらない。否応なく、途中で立ち寄った村で唯一の民宿に泊まることになった。

飛び込みに近い宿泊のため部屋は一つしか取れず、枕を並べて寝ることになったものの、5回目ともなれば慣れもしよう。こんなこともあろうかと、寮の自室と同じ簡易結界を張れるお札を持ってきて良かった。

お風呂に入ってさっぱりとした髪を拭きながら、座敷の襖を開ける。夏油くんは、部屋唯一の窓からぼんやりと景色を見ていた。その横顔はどこか翳りと憂いを帯びている。その事が、益々彼の存在を朧げにしていた。
念のため、発動防止の術式を付与した面紗を付けてから声をかける。

「夏油くん、お風呂空いたよ」
「……有難うございます」

夏油くんは歪な笑みを浮かべながら、そこを動こうとはしなかった。さっき取り込んだ呪霊がまだ馴染んでないのかもしれない。彼は呪霊を取り込んだ後、いつも人知れず何処かで嘔吐いている。夏油くんにとって呪霊は、吐瀉物を処理した雑巾の味がするらしい。同じ方法でありながら、不味さなど感じた事がない私には、その苦悩は分からない。

彼の術式が経口摂取による呪霊操術といえど、それがストレスになっていることは火を見るより明らかだった。

必要最低限の言葉と食事。あの事件から夏油くんら少しずつ食が細くなったし、あまり言葉も出さなくなった。それでも呪霊は日々発生し、休む暇もなく駆り出される。誰かが生んだ呪いのせいで、いつも仲間が死んでいく。その状況に慣れろなんて無理な話だ。割り切れるのは、五条くんくらいかも知れない。

弱きを守り強きを挫くなんて、綺麗事だ。非術師は呪力が無いだけで弱いとは限らない。こちらが満身創痍で祓っても、彼らから罵倒されることもある。人の死を喜ぶ民間人だっている。それでも呪いからは守らなければならない。世の中、矛盾だらけだ。
そんな現実に、夏油くんの中で何かが少しずつ壊れていった。

まず人に向ける視線が変わった。特に、呪力を持たない民間人に向ける視線が。守る対象を蔑む視線に変わり、それは日を追うごとに冷たくなっている。
更に呪霊を取り込む毎に彼の中にどす黒い感情が溜まっていく。黒い瞳の奥で、行き場のない怒号ばかりがうねりを伴い、増幅していた。

呪霊との戦う日々の中、それらは夏油の中に確実に根を張っていく。一年前の、キラキラした姿はもう見る影もない。このまま暗い水溜りに溺れていく姿を、見たくなかった。

だからつい、口から出てしまったのだ。私のエゴとも言える言葉が。

「夏油くん、キスしよっか」
「は?」
「きみの“それ“、喰べてあげる」

切長の目がこれ以上無いほど見開かれる。いつもポーカーフェイスを気取る彼の驚いた顔を見るのは、ちょっと気分が良かった。
ぽかんと口を開けたままの夏油くんにそっと近づいて、その薄い唇をなぞる。おおよそ健康的とは言えない色。弾力はあるものの、少しカサついていた。

「瀬波せんぱ、」
「“いただきます”」

面紗をとって、唇を合わせる。
最初はそっと触れるだけ。触れては離し、離しては触れる。少しずつ、夏油くんの中に根付いてしまった負の感情を喰べる。溢れた感情は、硝子ちゃんが吸ってる苦い苦いシガレットのような味がした。

そうして何度も唇を合わせるうち、うっすらとできた唇の僅かな垣間。ゆっくりと味わうように、誘うように何度も舌先でなぞった。徐々に開いていく隙間に、ふと笑みが溢れる。キスをしながら、少しこけてしまった彼の頬を、指で撫でた。

途端に、後頭部へ回された大きな手。誘いに乗った彼の舌が、私のそれを口内へと誘導する。擦り合わせて、絡めて、離れようとすれば角度を変えて追いかけてくる。

「んっ、……んんっ!」
「、ふっ…」

儀式めいた口付けが、性急なものに変わる。
絡めるだけでは足りないとばかりに舌を吸われ、押し返された。逆に侵入した彼の舌先が、歯裏をなぞり、口腔内を闊歩する。あまりの息苦しさに腕を突っ張るも、首の後ろを押さえる彼の手が、逃がしてはくれなかった。ドロドロに溶かされたものが入ってきて、こくんと喉を鳴らして飲み込む。混ざりすぎなのか、味が分からない。混沌を喰べているみたいだ。
酸素不足に、意識が朦朧とする。いつの間にか主導権は彼が奪い返していて、喰べていたつもりが食べられているようにさえ感じた。

どちらのものとも言えない唾液が口の端から落ちる頃、漸く唇が離れた。親指が、口元を拭う。酸素を必死に取り込もうと肩で息をする私を、夏油くんは嘲笑った。
いくらかスッキリしたような笑み。緩むその頬は、少しだけ赤みを帯びていた。

「ははっ…誘ってきたのは貴女なのに。随分と拙いですね」
「……こういう事に慣れっこの夏油くんには敵わないよ」
「先輩の中で、私はどんな印象なのか気になるな」
「生意気で女たらしで最強の後輩かな」
「ははっ…印象最悪だな。いつもこんな事を?」
「ううん、誰かの感情をこうやって喰べたのは初めて。夏油くんだから特別」

何か呟いたみたいだけど、うまく聞き取れなかった。そのままぎゅうっと抱きしめられる。疲労で抵抗する気力もないので、いつもはお団子がある辺りをよしよしと撫でた。
キスでこんなに疲れるとは思わなかった。世の中の恋人たちは大変なんだなと、他人事のように思う。

「夏油くんの優しさと、呪術師に対する一途さは誰にも負けないよ」
「……悟の方が優しいですよ」
「五条くんとは違った優しさが君にあるんだよ、夏油くん」

彼は何も言わない。ただ、抱き締める力だけは強くなった。肩に夏油くんの軽やかで暖かい呼吸を感じながら、本来の目的を確認する。

「口直しにはなった?」
「ええ。癖になるくらいには」
「……言い方がちょっと」
「照れてるの?貴女が誘ってきたのにかわいいね」
「揶揄ってるでしょ?」
「そんなまさか。煙草よりも断然この方がいい」
「本当かなあ」

彼が鼻で笑う。気分は少し上を向いたらしい。床に落ちてしまった面紗を拾いたいけれど、動くたびに抱き締める力が強くなるので、そのままにしておいた。結界もあるし目も合わせてないから大丈夫だろう。
今になって、他人に甘えることを覚えた大きな子供みたいだ。でもきっと、ずっと大人のふりをしてきた彼にはちょうど良い。そのきっかけを作った身として、最後まで付き合おうと決めた。
ここへきて、漸く穏やかな時間が流れ出した気がする。

その日私たちは、初めて一つの布団で眠った。何をしたわけでもない。ただ、お互いの体温を感じながら、ゆっくりと眠りの底へ落ちていった。




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