03.夜を駆けるもの2


夜闇に紛れて突如として現れた謎の生き物。犬と言うには大きすぎ、熊と言うには細すぎる。
そんな未知の生き物に、心の柔い部分を守られることになろうとは。出会った当初の彼──諸伏景光は全く考えもしていなかった。


○


……つまり現時点では、非常に警戒している上に若干の恐怖心を隠しきれていない。
ホラーが苦手である彼にとっては悪夢のような状況。耳元で己の心臓が脈を打っているのはないかと思う程に強く、ドッドッと鼓動の音を感じていた。

急に動いて大型犬にも似たこの生き物を刺激するのは良くないと一瞬で判断した。だが壁際まで後退った後、どうにも動けずに冷や汗をかく。つまり硬直してしまったという訳だ。悲しい事に。
徐々に詰められた距離は、謎の生き物がその気になれば一瞬で飛びかかられてしまう程に縮められている。いくら優秀な警察官である彼であろうとも夜闇に紛れて現れた未知の生き物を前に困惑、恐れ、忌避の思いが駆け巡っても仕方がない事だった。

しかして。夜に溶け込む謎の生き物は急激な動作など何も起こさなかった。
警戒されているのを感じ取っているのか一度その場にペタリと腰を落ち着ける。所謂お座りの状態。きょとりと丸くした目で諸伏を見上げて首を傾げすらしている。次いでさらに一歩ずつ距離を詰めてくる。諸伏の前を横切るように身体をしならせながら左から右へと移動するのを、ただ見ているほかなかった。
──そしてついに、諸伏の足に尻尾が触れた。ゆったりと動かされたそれがスルリと撫でるように。力と言う力を感じさせない接触だった。
次いで謎の生き物は、立ち尽くす諸伏の足元に再度お座りをする。それはもう、腕を数センチでも動かせば指先が触れてしまいそうな距離に。
緩慢に目を瞬かせ、首を傾げた謎の生き物に見上げられた諸伏はグッと息を詰めた。見上げてくるまん丸な瞳、ぺたりと垂れ下がった長く大きな耳、時折聞こえるキュウと小さく鼻を鳴らす音。一瞬、絆されそうになったのだ。
何だ、撫でていいんだぞ? 撫でないのか?
……そんな幻聴が聞こえてきそうだ、と思ってしまったのは疲れているからなのか。恐怖心のせいで思考回路に異常をきたしてしまったのか。

この時になって、諸伏は謎の生き物が自分に顔を向けた際には口を開けていなかったことに気づく。
もしかすると思っていた以上にこの生き物は賢いのかもしれない。ただ構ってほしくて近寄ってきただけなのだろうか。そんな疑問が浮かぶ。
危機感や恐怖心が消えたわけではない。だが、少なくとも害するために近寄ってきたわけではないと判断した諸伏は小さく息を吐いた。

ふと、長く垂れているその耳が何か音を拾ったのか、謎の生き物は急に頭を動かした。諸伏から見て真正面へと顔を向けたその拍子に耳が近距離にあった諸伏の手に当たる。遠心力の所為だ。
そのままジッと何処かを見つめこときっかり三秒。二度の瞬きの後、顔が再び諸伏に向けられる。つぶらな目、とでも言えばいいのだろうか。きゅるんと効果音でも聞こえてきそうだ。
夜の街の限られた灯りの下でも分かる毛艶。先程手に触れた長い耳の感覚がふと頭をよぎる。手触りはきっと良いんだろうな、と諸伏はそっと手を差し出した。警戒心の欠片も無く見上げてくる謎の生き物の口元よりも下に。急に手を出して噛まれないよう、慎重に。
──言い訳をするとするならば、諸伏は疲弊していたのだ。心身ともに。
潜入捜査における様々な出来事が彼の精神を削っていた。いくら仕事と割り切ろうとしても心のどこかに苦痛が残る。本人も自覚していない、心の柔い箇所が悲鳴を上げている。

ぱちくり、一つ瞬きをした謎の生き物は、自らその顎を諸伏の手の上に乗せた。
おお、とちょっぴり変な感動すら覚える。野生の動物がここまで人懐っこいのも珍しい。諸伏は特別動物に好かれやすいという訳ではなかったのだ。
するりと手を緩やかに滑らせて顎から頭へ、そして気になっていた耳へと順に撫でる。

(……何か、もふっとしてるけど、それ以上に、もったり? もっちり? してる……すごく不思議な触り心地だ……)

まず諸伏が思ったことはそれだった。
艶やかな毛並みは見た目通り素晴らしく良い。指の間に引っかかることなくスルリとほどけるような触り心地。それでいて手の平に吸い付くような、もったりとした感触もある。なんとも癖になりそうな触り心地だった。
毛並みの良さに驚き、次いで彼は僅かに瞳を揺らす。

(……あたたかい……生きて、いる……)

そう、生きている。
動き、息をし、鼓動を鳴らし、体温を保ち続けている。──数時間前に諸伏が裏(・)の人間として、組織として手を下した相手と違って。
組織にとって不利益になると判断され処分された、限りなく一般人と言って差し支えない人物。本来ならば諸伏が守るべき対象だったはずの、人間。
思い出すだけで胸を締め付けられるようだった。

潜入捜査の一環として、自分が厭っていたはずの行為をせねばならない。
……誰かの命を蹴落としてまで、組織の中で伸し上がってきた。いや、そうまでしなければ伸し上がれなかった。奪い奪われ、見捨て見捨てられ。結果として守れなかったものばかりだ。不審に思われないよう可能な限り足掻こうとも、諸伏の手からは零れていく。
何を信条に、何を誇りに立てばいい。
そう自問自答する夜など幾らでもあった。きっとこれからも考え続け向き合い続けなければならないことだ。そして、きっと答えらしい答えは得られないことを彼は悟っていた。自分で納得できるラインを探し、落としどころを作らなければいけないのだ、と。
ふとした瞬間、足元がぐらつくような錯覚に襲われる。それほどまでに諸伏は無力さと罪責感に苛まれて精神が摩耗していた。

──そんな不安定さが、不思議なことに今は多少なりとも鳴りを潜めている。
アニマルセラピー、とでも言えばいいのだろうか。もったりとした手触りの、非常に毛並みが良い謎の生き物。その存在に少なからず傷ついた心が癒されたのは確かだった。

「……おまえ、野良だろうに。警戒心どこに落っことしてきたんだ?」

ずっと張り詰め、強張っていた顔の筋肉が緩む。
ほんの僅かでも余裕を取り戻せたおかげだろうか。改めてマジマジと謎の生き物の姿を見つめることが出来た。
ふと気になったのは呼吸。動物特有の浅く速い呼吸ではない。どちらかと言うと諸伏と同等かそれよりも落ち着いている。体格が大きい事を考えればそう不思議ではないのだが、大型犬の様子を脳裏に思い返してもどこか奇妙さを覚える。
そして、非常に大人しかった。ある程度好き勝手に触っていたというのに、されるがまま、触られるがままだったのだ。どこか諸伏を気遣っているように擦り寄って来すらしていた。
まあ、背中から腹へと手を伸ばそうとした瞬間、酷く恐ろしく低い唸り声を上げられたのだが。拒絶と言う拒絶はそれくらいだろうか。

「クゥ……ケケ」

犬とは思えない若干不気味な鳴き声も、ただちょっと特徴的で個性的なだけである。そう思えば可愛いものだ。いや、そう思ってしまえるほどに諸伏は見事に短時間で情が湧いてきてしまっていた。
チョロいと言うなかれ。彼は疲れている。

(見知らずの動物にまで心配されるくらい、情けない面をしていたのか……?)

目の前の生物に触れていない方の手で思わず顎を擦った。
元気のない人間に対し、野生の猫が心配するかのように擦り寄ってくるという行動。これは弱った獲物認識されているらしい。……と言う話を聞いたことはないだろうか。
非常に幸いなことに諸伏はこの説を知らない。知らぬが花、とは正にこのこと。

ふと、力が抜けてリラックスしている状態に近かった生き物の姿勢がピンと伸びる。

「──ッ!」
「えっ」

諸伏はその急な動作に手を離した。同時に体躯の大きさを改めて感じる。やはり犬と言うには無理があるような気がしてくる。
しかし次の瞬間、そんな考えも吹っ飛んでいくような光景が待っていた。

ロップイヤー──ウサギのたれ耳。
その形状と酷似した耳は可動ではないのだと諸伏は勝手に思っていた。それが急に直立する。前後左右へと音を拾おうと動いていた。
あ、動くんだ。と半ば呆然と目を見開いたのは不可抗力であると主張したい所である。だらんと垂れていた耳が垂直に立ち上がるとは誰も思うまい。
良い姿勢でのお座り状態から徐に立ち上がった謎の生き物は気怠げに前足を踏み出す。その耳はすっかり元の垂れた状態に戻っていた。

「行くのか?」
「……ケゥゥ」

肯定とも否定とも取れない不思議な声を出して黒い謎の生き物はチラリと諸伏を一瞥する。しかし何の躊躇もなく歩き出し、その身を夜闇に溶け込ませた。

(……あれは結局、犬って事でいいのかな。いや、犬って事にしておこう)

偶然とはいえこの短時間の交流で諸伏は絆された。今までにない不思議な触り心地だったとしても。何か全体的に怪しくて不気味な空気を醸し出していたとしても。ちょっと変わっているだけでアレは大型犬である、と。諸伏はそう結論付けた。
だから、その毛先が闇に薄く溶けているように見えたのは、きっと気のせいなのだ。


諸伏は知る由もない。
まさかこれ以降も謎の生き物がフラッと現れてはアニマルセラピーもどきをしては去っていくなんてことも。さらには途切れることなく交流が続くなんてことも。
何なら命の危機を救われることになるなんてことも。次いでのおまけに、もはやバディを組んでいるかのような状態になるなんてことも。
この時点での彼は考えもしていない。当然である。


○


犬とも狐ともウサギとも言えない動物。なお現在確認されている生物には当てはまるかどうかは分からない。
そう聞いてどう考えるだろうか。──「新種の動物」「突然変異体」「何かの実験体」などを思い浮かべる者が多いだろう。
ならばそこに「人語を流暢に話す」という条件を加えるとどうなるか。──「化け物」一択である。
それを結加理は非常によく理解していた。
だからこそ、己が厭う鳴き声を曝してしまうことを覚悟で姿を現した。憔悴している知り合いを見て見ぬ振りが出来るほど、彼女は冷淡ではなかった。
たとえ獣の姿になろうとも人の心は失っていない。

(多少は気分が浮上したようで何より、かな。……対人で、初めてこの姿が役に立った気がする。諸伏くんが犬猫好きで良かった……)

まあ、出会い頭は怯えられていたが。都合よくその反応は忘れることにした。
アパートに戻ってから一息ついた結加理は若干の気怠さを感じながらも、頭の片隅でそう考える。アニマルセラピーもどきは意外にも効果があったように思えたのだ。
黒い獣の姿であるとはいえ、結加理の意識は人間の時と変わらない。視線の高さや五感の鋭さが変われども根本は揺らいではいないのだ。今のところは。
だからこそ譲れない一線があったのは事実。何も結加理とて好き勝手にさせていたわけではない。いくら後輩を通しての共通の友人であろうと、彼を心配していようとも。最低限の人間の尊厳を守るためである。
頭、首、腕、肩、背に触れるのは許そう。だが腹周りや尻は許さん。セクハラだ。容赦なく唸り声を上げれば素直に手を引いてくれたので良しとする。
……目の前にいた動物がそんな心持ちだったなどとは、さすがの諸伏も思うまい。


何はともあれ。
これがきっかけで妙な縁が結ばれた二人(・・)の、ある意味で初の邂逅だった。


2022/9/24/
そのうちきっともののけひめごっこする。実は一番夢主のDead&BadEndが多い番外シリーズ。
2023/4/28 一部修正しました。

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