トイレと洗面台の場所を教え、降谷をリビングから退出させた。その後の話である。
室内はどうにも気まずい空気が払拭されずにいた。
仕方あるまい。勘違いだったとはいえ異物混入疑惑が浮上し、学友の普段は取らないような行動に翻弄され、結果としてその学友がフォークだと突然知る事となった。怒涛すぎる展開。これで動じずに居られる人間など稀だろう。
(──さて、どうするべきかな)
肩身の狭い思いをしている諸伏や伊達に気取られないよう、結加理は静かに深く息を吐いた。堂々巡りになりそうな思考を無理やり働かせる。焦っている自覚はあった。
まさか、十数年前にインストールしてしまった前世の知識によって一方的に知っていた人物が、フォークであるとは全く考えもしていなかったのだ。しかも後のトリプルフェイス。彼ほどの知識と思考力ならば事細かに説明しなくとも良いだろう、とも思う。──万全の状態ならば。
残念ながら現状は先程の通りだ。少々不安が残る。
「ごめん結加理先輩。気づけなくて。あと角煮も……」
眉を下げて萩原が結加理の傍に歩を進める。その背を諸伏と伊達の視線が追いかけたのは自然な事だった。
「いや、フォークだってことを隠そうとする人が殆どだから、こればかりは仕方ないよ。……角煮は私もほとんど食べてないし残念だったけど」
「降谷は、食べ物を粗末にする奴じゃないし、むしろ好き嫌いで食べ残しを許さないタイプだし、人間性もしっかりしてる良い奴なんだよ。本当に」
「うん。萩ちゃんが
ココに連れてくるのを認めた人で、人間性に難があった人なんていないからね。その観察眼を疑ったことはないよ」
こればかりは誰の所為でもない。強いていうならば世界の所為だ。
友人のフォローを入れる萩原は、他でもない結加理にそう宥められてもどこか浮かない面持ちだった。
今回は誰にとっても不測の事態。不幸な事故という表現がしっくりくる。少なくとも結加理はそう思っていた。
「……味覚障害と食欲不振が続けば、どんな人間も調子を崩すよ。精神的にも平常ではいられないし。今回は不幸に不幸が重なったというか、まあタイミングが悪かったんでしょ」
加えて、結加理は前世の記憶によって彼の事を多少なりとも知っていた部分があるため、事態の飲み込みと納得も早かったのだ。
──まあその前世知識も、だいぶ薄れてきてしまっているため確実性など当てに出来ないのだが。
「それよりも、とりあえず説明に必要な物とか揃えてくるから。先にちゃちゃっと食べられるだけ食べちゃって。その後で手伝ってもらえると嬉しい」
「りょーかい。あ、角煮の他にも何か作ってくれてたよね?」
「作ってるよ。すぐに出せるのは揚げ茄子の煮びたし、卵焼きの二つ」
「うーんどっちも欲しい」
「おっけー。……あと、ピーマンの肉詰めは多分そろそろ焼きあがる、かな? さっき見た時はあと五分だったし。どうする?」
チラリとオーブンの方を見やり、結加理は僅かに首を傾げる。
実は緊迫した空気の中でもずっと肉が焼ける香ばしい匂いが漂っていたのだ。
「それも欲しい! です!」
「はーい」
告げられたメニューに萩原は曇りがちのままだった表情をようやく明るくさせた。振る舞われる料理の中でも好きなものだったのだ。
「あ、お二人は無理して食べなくとも大丈夫ですからね。一度異物混入が疑わしいと思ってしまったら、どう説明されようと抵抗感はなくなりませんから。材料費もまだ萩原から渡されてませんしね。気にしないでください」
「班長、諸伏ちゃん、先輩は管理栄養士の資格も取ってるし衛生関係の勉強もしっかりしてるし、かなり気を遣ってるからね。ここに出してもらったのだって……」
「はいはい、良いから」
言い募る萩原を宥めて困ったように結加理は笑う。誤解は解消したはずではあるが、友人たちの中に僅かにでも懸念が残るのは我慢がならない様だ。
唇をちょっとばかりムムッと尖らせた萩原を横目に、結加理は漆器のお盆をテーブルの上に置いた。そして降谷の席にそのままにされている汁物のお椀、ご飯茶碗、落ちた箸、グラスを次々に乗せる。松田が座っていた場所にあるお碗だけはそのままにしておいていいだろう。
「おそらく話が長くなります。とりあえずその前に何かしら食べてもらいたいんです、けど、うーん今からコンビニに行ってもらって……」
「あ、あの、これ、食べさせてもらえませんか?」
「俺も、ご迷惑でなければ」
先程の騒動の後だ。一度疑惑を持ってしまった以上、手料理はあまり気分が良いものではないだろう。
そう考え提案した結加理の言葉を遮るように、諸伏が声を上げた。その手にあるのは彼女がまだ回収していないお椀。
伊達も続いて同意を示す。これまた諸伏同様、結加理に回収される前にお椀を手に取っていた。
「それはまあ、あなた方が良いのならば構いませんけど……」
本当に良いのか? 大丈夫なのか? 萩原の為に無理をしていないか?
と言わんばかりの困惑の表情で首を傾げる。
「疑ってしまってすみませんでした」
「申し訳ない」
「いや、事情を知らなければ当然あの反応にもなります」
揃って真剣かつ緊張した面持ちで謝罪を口にする二人に、反応に対して一定の理解を持っている結加理の方がギョッと目を剥いた。
「そもそもケーキとフォークの関係性なんて、当事者になるか親しい人が発覚した状態でなければ詳しく調べようとも思わないでしょうし。今回の事はもう『不幸な事故だった』とでも考えてください」
本当に彼等が気にすることではないのだ。慌てて納得させるための言葉を選ぶ。
「あとは、正確な情報や詳細が世の中に出回ってない、というのもありますしね。……せっかくなので今日は少し話を聞いていってください。警察官になるなら避けては通れない分野だと思いますし」
「ぜひよろしくお願いします」
真面目かつ誠実な人柄なのだろう。警察官という言葉に反応したのか更に表情を引き締めた二人に、結加理がそう思うのは当然の事だった。
──フォークによるケーキの惨殺事件は残念なことに無くならない。そして、フォークによる事件に見立てられてしまい、別の真相が裏にある場合も少なくない。
誰も言葉にはしないが、警察、ケーキ、フォーク、この三つの要素が重なった時に脳裏を過ぎるのはそれしかなかった。
ふと落ちた沈黙を破るように、ピー、ピー、と焼き上がりを告げるオーブンの音がリビングに響く。
「焼きあがったみたいだから、ちょっと待っててね」
一度視線をキッチンへ向けて結加理はそう告げる。次いでお盆にのせた二つのお椀に目を向けると僅かに考えるそぶりを見せた。
「松田くんのご飯はおにぎりにしちゃうかな。その方が楽でしょ。あと、おかわり分もちっちゃいおにぎりにするから」
「それ良いかも。おにぎり握るのは俺も手伝うからね」
「ん。よろしく」
萩原の賛同を得られたため、テーブルに置いたままだった松田のご飯茶椀も回収する。
キッチンに戻った結加理がまずしたことと言えばシンクの中の確認だった。
容赦なくぶちまけられた角煮は当然食べられる状態ではない。深皿は割れてこそいなかったものの、ふちの一部が欠けている。もともとシンクに置いていた食器とぶつかったようだった。形あるものはいつか壊れるとはいえ、残念なことには変わりない。
(肉詰め出してから片付けよう……)
片付けは彼等が食べている時にすればいいのだ。僅かに目を伏せるが、瞬時に切り替えてきぱきと動き出す。
オーブンを開けば襲い来る熱気。良い具合の焼き目がついているピーマンの肉詰めに、結加理は満足げに一つ頷いた。
厚手のタオルで天板を取り出し調理台の方へと移動するのだが、やけに視線を感じる。顔を上げれば諸伏と目が合った。それはもうバチッと。気になるのだろうか。
うん? と結加理が小さく首を傾げるも気まずげに視線を落とされてしまう。とりあえず気にしないことにして作業を続けることにした。
竹ぐしを突き刺せば、じゅわりと溢れ出る肉汁。それぞれ完全に火が通っていることを確認して熱々の天板から皿に盛りつける。
「萩ちゃん、これお願い」
「はいはーい」
呼び掛ければすぐさま取りに来てくれる萩原に肉詰めの皿を手渡す。いつでも出せる状態になっていた卵焼きも共に。
テーブルに運んでいく姿を横目で見送って、結加理は意識して堪えていた溜息を深くゆっくりと吐いた。
何も結加理とて、この惨状に何も思わないわけではない。しかし限界状態ではないフォークの拒否反応は割と良くあることなのだ。ただ、ここまで過激な拒否反応は久々だったため、かなり面食らったが。
視線をシンクに落として再度溜息を吐く。ちょっとだけ片付けが憂鬱だった。
手が角煮の油まみれになるのは遠慮したいな、とぼんやりと思う。皿の破片での怪我を避けるためにもゴム手袋を出してしまおう。
そう考えながらゴム手袋を装着し、一度キッチン回りを片付けるのだった。
■
洗面所から降谷と松田が戻った時には、テーブルの上は随分と様変わりしていた。
真ん中に先程までは無かった卵焼き、きんぴら、大きな肉団子のようなもの、おにぎりが並んでいる。肉団子のようなものは半分が緑色で覆われているようなのでピーマンの肉詰めか何かだろう。
そして、松田のご飯茶碗の代わりにおにぎりが一つ置かれていて、降谷のお椀は二つとも消えている。
(……まあ、当然、だよな……)
家主である結加理はコンロの前に居るようで、降谷たちが戻ってきたことにまだ気付いていなかった。
戻ってきたは良いものの、降谷は結加理へどのように声を掛けていいものかと決めかねていた。
キッチンまであと数歩というところで足が止まる。それ以上足を進められない。頭の中でぐるぐると思考が堂々巡りして纏まらない。優秀な頭はこんな時ばかり上手く働いてはくれなかった。
「あの……」
「ん? ああ、戻ったんですね。ちょっとだけ待っててください」
少し離れた場所から声を掛けられたことでようやく気付いた結加理が目を瞬かせ、その言葉を遮るように片手を上げた。肩に力が入った状態で佇む降谷が言葉を選びあぐねいているのを察したのだろうか。何なら落ち着かせるかのように笑みすら浮かべている。
何故、あんなにも酷い態度を取った自分に笑いかけられるのだろう。降谷は疑問を抱かずにはいられなかった。
座っていてくれ、と他でもない結加理から柔らかな笑顔でそう促され、ダメ押しのように松田にトンと軽く背を叩かれ、降谷はようやくノロノロと動き出した。
座布団の上に座り直せば萩原に無言でグラスを差し出される。
「ごめんな、降谷ちゃん。さっきは咄嗟とは言え力任せに抑えつけちまって」
「……いや、萩原は何も、間違ったことはしていないよ。むしろこっちこそ悪かったな」
至って普段通りの調子で言葉をかけてくる萩原に、降谷はそう返すのがやっとだった。
この間にも頭の中ではぐるぐると様々な思考が駆け巡っている。
家主の気遣いで点けられていたTVの音がやけに大きく聞こえた。
それなりのサイズの座卓は、女性の一人暮らであることを考えると違和感を覚える程度には大きい。もしかすると冬場であれば炬燵に様変わりするのだろうか。
座卓だけではない。部屋、間取り、点在する家具、家電、食器、どれをとっても一人暮らしにしては広すぎ、大きすぎ、多すぎる。
複数人で住んでいると言われても納得できる。一人暮らしにしては物が多すぎた。ここまで部屋の広さも設備も充実しているとなると、家賃は……などと浮かんだ考えを降谷は慌てて打ち消す。
女性の部屋をあまり不躾に見るのは憚られたが、どうにも落ち着かず視線があちこちに飛ぶ。
座卓の上に乗る誰かのグラスの中で氷がカランと音を立てた。こうして再度同じ席に腰を下ろしたことでまざまざと感じる、先程までの感覚との違い。ようやく周囲に目を向けられるようになったのだと降谷は自覚する。
ある意味でショック療法のようなものだったのかもしれない。
気持ちを落ち着かせようと萩原から手渡されたグラスへと口を付けた。
──この部屋に通された直後に用意されていたものとは色も形も違う。萩原か彼女が新しく用意してくれたのだろう。
気を遣われたんだな、と頭の隅で呟いた。
口に含んだ液体は、当然ながら味はしなかった。
「……うーん」
ふと、思い悩むような声が耳に滑り込んでくる。結加理が冷蔵庫の中を覗き込みながら上げた声だった。
パタリ、冷蔵庫の扉が閉じられた音に五人の視線が自然と一点に集中する。
右手を扉に当てたまま考えを巡らせるように天井に視線をやると、結加理は僅かに首を傾げた。次いで、お手上げだと言わんばかりに肩を落とす。
「全員こっちに来てくれませんか? もう実際に見てもらった方が早い気がするので。目の前で料理すれば、どんな説明よりも納得できるでしょ。手っ取り早く時短しましょう」
その言葉を聞いた誰もが思った。確かに一理ある、と。
いち早く萩原が空になったお椀類を片手にキッチンへ向かう。一拍遅れてそれに続いたのは松田だ。思わず顔を見合わせた降谷と諸伏は、伊達に軽く背を押されて立ち上がった。
一般女性よりは若干しっかりした体格である結加理、鍛えているためそれなりにがっしりした長身の萩原。大人二人が立っても窮屈にならない調理スペース。その奥のコンロも複数確認できる。パッと見ただけでもキッチン回りも非常に充実していた。
ペニンシュラキッチン──所謂、一辺が壁に接しているL字型レイアウトのオープンキッチンである。
カウンター越しに覗き込む松田は僅かに目を細めた。シンクの中に食器や調理器具、そして降谷がぶちまけたはずの角煮、それ等を含め何もない事に気付いたのだ。
(一人で片づけたのか。……仕事早ぇな)
新しく用意されていたおかず、おにぎり、そしていつの間にか済まされていた片付け。果たして彼女はどんな思いで動いていたのか。
松田は渋面で彼女の手元を見る他なかった。
「何つくるの?」
一人だけキッチンの内側に入ってきた萩原の問いに、うーん、と小さく唸りながら結加理は再度冷蔵庫を開ける。──この冷蔵庫も一人暮らしにしてはかなり容量が大きいものだ。
「和え物かな。中華クラゲとキュウリがあったから……」
そう返答しながら取り出したのは見切り品のシールが張られたままの透明なパック。そしてキュウリが二本。
萩原にキュウリを手渡せば、何も言われずとも水で洗いはじめる。二人のやり取りや行動に無駄がなかった。普段からこの調子なのだろう。
降谷たちの前にあるのは、明らかに何ら細工もされていない食材二つ。中華クラゲのパックも購入時のままであることはラップの状態で判断できる。
「じゃあ、まずは私の両手。こちらは怪我も何もありません。そして、助手の萩原くんがキュウリを洗ってくれましたので、これを使います」
「あ、俺助手なんだ」
結加理は両手の甲と掌と順に見せ、怪我をしている箇所がないことをそれぞれに確認させた。隣で萩原がくすぐったそうに笑っているのはスルーしている。
「萩、端っこ降谷くんにあげて」
「りょうかーい」
ゆるゆるとした口調で答えながらペティナイフを器用に扱い、適当に切ったキュウリの切れ端を降谷に差し出す。無言でそれを受け取りほんの少しためらった後、彼はそれを口に入れた。
「味は?」
「……しません」
萩原の問いに答える降谷の眉間が僅かに寄っている。
その目の前で萩原と場所を交換した結加理はまな板の上のキュウリに手を乗せると眉を寄せた。皮に硬い部分がある。大きさ的にも若干育ちすぎたものなのだろう。
そんなことを考えながら、端を小さく切り落とした。
「じゃあこれは?」
「……、味が、します」
「何の?」
「きゅうりの」
結加理からキュウリの切れ端を渡され、萩原から渡された時と同様に眉間を寄せたまま口に入れた降谷は次の瞬間きょとりと目を瞬かせる。その表情はどこか幼い。本当に驚いているようだった。
そんな彼に一つ頷き、結加理はまな板の上にペティナイフを置く。
「基本的に飲食店では調理する人は調理用の手袋をしていますよね、薄いゴム手袋、と言えば分かりますか?」
「はい」
「あれ、おそらく衛生面を考慮しているだけではなく、今の状況の対策でもあるんですよ。フォークの人間が居ない限りケーキだとは分かりません。ケーキ本人も。もちろん雇う側だって採用担当者や職員がフォークでない限り分からないでしょうから」
その説明に、萩原と松田以外の三人が驚きを露にする。
──この場の誰も知らぬことだが、結加理の前世と比べてもソレは顕著だった。
どの店舗でも必ずと言っていいほど手袋を着用している。寿司などの、どうしても素手での調理しか難しいものは例外ではあるが。
時代はまだ平成真っ只中、割と中期である。
多少衛生管理面があまい店もチラホラ見かけるというのに、この調理用手袋だけはどこの飲食店でも同様に着用している。大手チェーン店は例外なく殆どがそうだ。個人店はまちまち。
まあ、たまにさぼっている店員を見かけることもあるのだけれども。
その違和感と自身の経験から結加理が導き出したのが、先程の説。
「調理提供した人間の中にケーキが居ることが判明するとすれば、そこには必ずフォークが関わっている。ケーキの有無で味の変化を感じるのはフォークだけですからね」
一つ息を吐き、結加理は塩を取り出した。調味料入れからではなく市販されている袋に残っている状態で保管されていた方だ。
降谷にそれを差し出して味を確認するように促す。口に含んだ後、渋面で首を横に振られた。
味を感じられない状態の塩をそのまま口に含んだのだ。おそらく砂が口に入ったような感覚に襲われているのだろう。
「ペッて出していいですよ。ほらキッチンペーパー」
「……すみません。ありがとうございます」
「いいえ。味を感じないと砂糖や塩の感覚は砂ですからね」
何気ない言葉に目を瞬かせたのは降谷達だけではなく、意外にも松田もだった。この言い方ではまるで実体験のようではないか。
結加理の隣では浮かない顔の萩原が眉を顰めている。
「えーっと、続けますね。フォークやフォークの周囲には独自の情報網があるようなので、そうなると情報は基本的に悪用されます」
僅かに目を細めながら告げられた言葉に、伊達の背筋が自然と伸びた。
「店名、出入りするスタッフの容姿、もしかすると名前も。言いたくは無いですけど、襲撃や誘拐されるリスクはかなり高まります。あと、今回のような衛生管理面での訴えあるとか。……まあ、後者は裏付けが取れなければ動かないでしょうけど。自分がフォークだって言いふらすようなものですしね」
説明の最中、降谷がグッとした唇を噛み両手を握り締める。
それを気にせず言葉をつづけながら結加理はキッチンペーパーでキュウリとまな板の水気をふき取った。
キュウリ二本を並べて塩を振り、上から押しつぶして縦に割っていく。こうして細胞と組織を壊すことによって味が染み込みやすくなるのだ。
一度説明を区切り、食べやすいように適当な大きさにちぎってはボウルに入れていく。
(硬い部分、割れるか? 手が塩塗れだから包丁使うのヤなんだよなぁ)
ちょっとの手間ではあるのだが、予定では包丁を使わずにパパッと作れるはずだったのに、という思いが出てきてしまう。意地でも硬い部分を割りたくなってしまった。
グッと力を込めて全体重を乗せる。──だが右手に全体重を乗せても、それこそ両足が浮いても、キュウリが割れない。そんなことあるのか。
ぱしぱしと目を瞬かせた結加理はなんとも形容しがたい顔で浮いていた両足を床につけた。
目の前で何が起こったのか全く分かっていない降谷、諸伏、伊達もポカンとしている。萩原と松田がその一連の流れと同期三人の反応を見て肩を震わせた。笑いを堪え切れていないのが丸分かりだ。
「……ふっ、ふはっ! 先輩、そこまで非力じゃないのに……!」
「ははっ、ンはははっ! どんだけ硬ぇんだよそのキュウリ……! いまっ、いま身体浮いてたよなっ!」
全く二人とも笑いすぎである。
ひぃひぃ笑う彼等の目じりに若干の涙が浮かんでいるくらいだ。萩原と松田の笑いにつられたのか、諸伏と伊達も肩が震えている。
「じゃあ、萩、割って!」
「んふっふははっ! 仰せの、まま、にっ……ははっ」
「いや、いい。もうペティで切るから」
やけになり萩原にバトンタッチしようとしたものの、了承の意を示す萩原は笑いが収まらずそれどころではない。
スンと表情を抜け落とした結加理が包丁での調理に切り替えるのは自然流れだった。
拗ねないで、拗ねるな、などと萩原と松田が口々に言うが別に拗ねてなどいない。ちょっとイラっと来ただけである。
「……ちょっと待って、今どこまで話したか分かんなくなった。反抗期キュウリのせいで」
「んフはッ笑わせるな……!」
手早くキュウリを切り終えた結加理が説明を続けようとしたが、今の衝撃でどこまで話したのかが一瞬飛んだ。反抗期キュウリという単語に笑いのツボが刺激されたらしい松田が撃沈する。
ジト目でその様子を見やって、彼女は無言のまま手を洗った。
ちなみに、彼等五人の頭からも説明されたはずの内容が一部飛んでいたのは余談である。真面目な空気もどこかへ吹き飛んで行ってしまった。
「まあいいや、質問に答えるスタイルに変えよう。何でも聞いてください。分かる範囲で答えます」
手の水気をふき取った後、中華クラゲのパックからラップをはがしつつ結加理は提案した。その方が早いと思ったのだ。
断じて考えるのが面倒になったわけではない。
「あの、いいですか?」
「どうぞ」
「ケーキの人が素手で料理するだけで料理の味を感じられるようになるなら、それが分かってるなら、なぜ一般的に知られていないんしょうか」
質疑応答の開幕早々から良い質問をぶつけてきたのは、控えめに挙手のポーズで声を上げた諸伏。視線がチラリと彼の横に立つ降谷へ向けられる。
幼馴染に深く関わることなのだ。他人事ではいられないのは当然のことだった。
「その疑問は尤もですよね。私も最初疑問だった。フォークが味を感じられる食事ができるなら、味でも物理的にも飢えることもないし、ケーキが衝動的に襲われることなんて無くなるんじゃないか、って」
醤油、めんつゆ、酢のボトルを取り出しながら結加理が答える。
適当にひょいひょい調味料をボウルに入れていく様子に、普段料理をしない面々はギョッとした。きっちり計量するものだと思っていたのだ。
なお、結加理はほぼ感覚で調理している。自炊歴が長い人間の調理法などこんなものだ。
「色々と簡単な話じゃなかったんですよ」
そう前置きされて告げられた内容は、警察学校に通う彼ら五人の背筋が自然と伸びるようなものだった。
ざっと大きく分けての三つ。
一つ目、あまりにもケーキ側のリスクが高すぎるということ。
二つ目、ケーキの存在を狙うのはフォークだけではないということ。
三つ目、残念ながら通常思考のフォークだけではないということ。
詳しくは腰を落ち着けてから話すことにして要点だけを伝える。今回、結加理が萩原に持ちかけようとしていた報告、相談とも重なるのだ。
キュウリを一つ取り味を見る。うーん、と小さく首を傾げて醤油をちょっとだけ追加した。
「あと、いつでもどこでも、甘い汁をすする連中ってのは存在しますからね」
ダメ押しのように呟かれた言葉に五人の目が死んだ。
そうこうしている間にも味付けが終わる。最後にボウルを振って全体に味を馴染ませてからタッパーに移し替え、結加理はそれを降谷の目の前に差し出した。その横から萩原が箸を差し出す。
「はい、降谷くん。出来上がりを食べてみてください」
「……い、ただきます」
この場の全員に見守られながら降谷がキュウリを口に運ぶ。
目の前で調理された、正真正銘、何ら混入していない料理。──それはしっかりと素材と調味料の味がした。
「醤油とかの味も、きゅうりの味も、します」
久々に食べた、まともに味を感じる料理。へにゃりと眉が下がったその顔はどこか泣きそうにも見えた。むぐむぐと咀嚼している降谷を横目で見て、諸伏はホッとしたように息をつく。
「なんだか手品みたいだね。種も仕掛けもありません、的な」
誰に向けていったわけでも無い独り言。ぽつりと呟かれた諸伏の言葉に、思わず結加理は萩原と顔を見合わせた。きょとりと目を瞬かせ、そして手元を見る。次いでどちらともなく破顔した。
どうしてだろうか、彼の発言で非常に場が和んだ気がする。
「んー、実際には種も仕掛けもあるんですけどね。……ねえ萩ちゃん、君の同期なんだか可愛いね」
「えっ!」
「はは、先輩ならそう言うと思ってた」
「えっ!?」
優し気な眼差しを向けられ、可愛いと言われた諸伏がびくりと肩を揺らす。年齢が一つしか違わない女性にそんな目を向けられるとは思いもしなかったのだ。
追い打ちをかけるかのように萩原も同意を示されてただ驚くしかない。諸伏ちゃんは可愛い担当だからねぇ、何て言う萩原に結加理は大真面目な顔で頷いている。
納得しないでほしかった諸伏の肩を松田がポンと叩いた。諦めろ、と。
「……ん? なんか、」
諸伏があたふたしているのを横に、二口目を口に運んだ降谷はふと動きを止めた。味を感じられなかったわけではない。きちんと和え物の味がする。だが、それだけでは無かったのだ。
その様子に気付いた結加理の表情が硬くなる。
「え、手とか怪我してないけど、もしかして甘みが勝ってる?」
「んん? ちょっと少しだけ甘い? 何だったかなこの味? …………あ、みたらし、っぽい味……?」
先程の割れなかったキュウリを思い出し、降谷は複雑そうに眉を下げた。
もしかして力んでいた所為なのだろうか。ついでに結加理の虚無が浮かんだ顔を思い出して顔を背ける。つい笑ってしまいそうになった。
ケーキとしての甘さが醤油に合わさった結果、まさかのみたらし風味が出来上がるというアクシデント。
複雑極まりない、といった表情で結加理は肩を落とした。
「みたらしかぁ……。降谷くんの方が美味しそうなのに、何だかすごく複雑なんだけど萩ちゃん……」
「うん!? 降谷ちゃんが!? 美味しそう!?」
爆弾発言ともいえるそれに萩原の声がひっくり返る。
ケーキなのにフォークが美味しそうとは、これ如何に。
「それこそみたらしのお団子。焼き目がついて美味しそう」
「いや、先輩、みたらしちゃ、じゃなかった降谷ちゃんは日焼けじゃなくて地黒だからね?」
「そっか、……不快にさせたならごめん」
「いえ……」
思わず萩原が真顔でツッコミを入れるが、動揺しているのか名前とみたらしの言い間違いが起きてしまった。松田が噴出していたのでもしかしたら話のネタにされてしまうかもしれない。
「……みたらしも美味しそうも、はじめて言われました」
「ええ?」
心底不思議そうに首を傾げた結加理に、複雑そうな顔で降谷は頷く。まさかそんな例えをされるとは。
「カフェオレとかミルクチョコとかは、まあ言われたことがありますけど」
「そっか」
フォークがケーキに「美味しそう」などと言われる、通常みられる現象とは真逆の構図。
特に意図したわけではないが結加理も降谷も視線がかち合ってから互いに目を逸らせないでいる。──目を逸らしたら敗北。おそらく本能的な睨み合い、危機感が刺激されたが故の反応だったのだろう。
見かねた萩原と松田の手によって均衡が崩されるまで、双方の視線がそらされることはなかった。
2023/5/21/
キュウリは実話。
なぜ全体重を乗せても割れない? おかしくない? となったので、これはもうネタにするしかないな、と。2023/9/6/支部にも投稿しました。
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