(これで、第一段階はクリアかな……)
はあぁ、と深く重い溜息を吐いた結加理は自分用の飲み物としてマグカップにお湯を注ぎ、ティーパックをその中に落とした。
「この話は胃もたれするから、本当なら食事が終わった後にしようと思っていたんだけど……まあこうなったら仕方がないしな」
予定外も予定外。そうポツリと言いながら五人が座って待つ座卓へと足を進めた。
調理器具を片付けてから行くから先に座って待っているように、と彼等をリビングの方へと追いやっていたのだ。テーブルの上に残っている皿にラップをかけておくように、と。
濃くなりすぎない内にティーパックを取り出した。これから詳しく話さなければならない内容を脳内で反芻してはため息が出て来る。頭痛がしてきそうだった。
重い足取りでリビングへ向かい、結加理は当然のように萩原の隣に腰を下ろす。
テーブルの上にはそれぞれのグラスとウェットティッシュが置いてあるだけ。移動された皿の場所を見るに、萩原が率先して片付けてくれたのだろう。
「……では、」
「あの」
「はい?」
「タイミングを逃してしまって言えずにいたのですが、敬語で話していただかなくて大丈夫です」
結加理が話し始めようとするのを遮って伊達が片手を上げる。ずっと言いだそうと思っていたのだが、どうしても口をはさめずにいたのだ。
「えっと、お気遣いありがとう。──では、改めて。……どこから話しましょ」
「できれば、なぜ味を感じられるようになったのかを、教えて頂きたいです」
「……そうでしたね、抜けてました」
降谷の問いに、ああ、と頷いて結加理は用意しておいたバインダーの一つを手に取った。
敬語でなくとも良いと言われはしたものの、すぐに切り替えられず中途半端に敬語のままだ。
「味を感じる仕組みとして、単純に成分が関係している場合もあるし、そうでもない場合もある。人間が食事をする時に使う感覚は意外と多いからね。……ということでこれを見てください」
テーブルの上にバインダーから取り外した資料の複数枚を広げて、説明の体制に入る。
──味の感じ方には、視覚、嗅覚、味覚、温度、これらが主に影響してくる。他にも環境的要因や心理的要因も関わってくるのだが今は割愛しよう。
舌で感じる刺激とは別に、鼻で感じた刺激もまた脳が味を認識する大きな要因になる。主にこの二つが味の認識を担っていると言っても過言ではない。食品からの嗅覚情報は、舌が受容した味覚情報と統合され、風味として認識されるのだ。
世の中に流通している食品に「香料」が使われているものが多数存在する。
例えば、砂糖水を三つ用意し、イチゴ、レモン、バナナなどの香料をそれぞれ加えたとする。使用したのは水と砂糖と香料のみ。果汁は全く使っていない。しかし、何故かそれぞれ別々の味に認識するのだという。
人は、舌と鼻で味を認識している。
──この事からはじき出される事象は、フォークは舌だけではなく鼻も鈍っている、ということ。
ちなみにこれは推測ではなく既に確認されていることである。
「そして、次はこっち。……味覚の閾値、という言葉はご存知で?」
「はい。物質の味を感じることが出来る最低の濃度。検知閾値、認知閾値がある。一般的には検知閾値を指すことが多い。閾値が低ければ低いほど、少量でも味を感じることが出来る。……ですよね?」
「正解です。良く知ってましたね」
「味覚障害になってから、一通り調べたので」
よどみない返答。流石降谷、と言ったところだろうか。
分からないことはとことん調べる。気が合いそうだな、と結加理は内心で呟いた。過去に彼女が味覚障害になった時も同じように調べたものだ。
キョトンとしきりな他をそのままに、降谷との質疑応答、講習会のようになりつつある。当事者同士なのだから当然と言えば当然か。
「フォークの人は、この閾値が非常に高くなっている可能性があります。そして、舌と鼻が極端に反応するのがケーキの人間がもつ一部の成分のみ。……というのが通説になっていますね」
「通説、というのは?」
「フォークの舌に反応するケーキの成分というのが、完全に特定されていないんですよねぇ。多分、そのケーキ個人によって持つ成分が違うのかもしれない、って言われてるんで」
硬いままだった結加理の敬語が若干崩れたものになり始める。表情もどこかぐったりしたものにじわじわと変化していた。
「つまり、ケーキ、フォーク、これらの事象が認知されてから相当数の年月が経っているにも関わらず、研究が一進一退なのは……個人による差があまりにも大きすぎるから、ということですか」
「そういうことです」
資料に隈なく目を走らせている降谷の表情が曇る。
根本的な面においては早期解決が難しすぎる、と改めて突き付けられたのだ。無理もない。
「服用中の薬の影響や、ちょっとしたことでも変化があるようなのでね。フォークはともかく、ケーキは無自覚の人も多いですし……それも研究が進まない一因ではある、かな」
フォークだけがケーキを認知できるのだから、ある意味で仕方がない事ではある。
ケーキと判明した瞬間から様々な面で危険に曝されるようになるのがほとんどだ。ケーキだと判明した後、積極的に研究へ協力する者もそう多くはない。
これは後程ゆっくりと話す予定であるため、結加理は深く触れずに別の話に移行する。
「でもフォークも発症後しばらく、それこそ何十年も気づかなかった、ってパターンもありえるわけですけど」
「……本当に、そんなことがあるんですか?」
降谷が怪訝な顔で僅かに目を細める。自身はすぐさま気付いたのに、という気持ちがあるのだろう。
その横で諸伏と伊達も首を傾げたり、片手を顎に当て考える様子を見せていた。飲食店でのゴム手袋着用などの話を聞いた後なのだ。当然の反応である。
「そうですね、例えば──」
結加理が挙げた例は次の通り。
実は小学生の時にフォークの症状を発症していたにも関わらず、大人になるまで気づかなかった男。
母がケーキというのが大前提にある。ここでは無自覚か自覚しているかはあまり重要ではない。
その男は食物アレルギー持ちであるため小学校で出される給食も食べられず、毎日弁当を持参。外食もなかなか難しく、仮に外食できたとしても味を感じられないため「美味しくない」となるため足は遠のく。
小中高とそれは続いた。当然毎日ケーキである母の手料理を食べているのだから自身がフォークだと気付くはずもない。
大学生になり上京するも、母の手料理が食べられない環境下では全くしない食事をとり続けることとなる。味を感じられなくなった要因がフォークと結びつかず、ストレスによる味覚障害、きっかけが上京であると診断されるのも無理はない。
家族の勧めで実家に戻れば味覚障害はたちまち治るのだから。原因はやはり実家以外での生活のストレスだと確信づけてしまうこととなった。
就職も当然地元で。実家から通える場所に。職場での食事や接待も食物アレルギーを理由に辞退、もしくは外されることが多くなる。
ケーキである母が突然亡くなるまで、男は自分が気付くことはなかった。時折、多少の疑惑は持っただろうが。
その後、味が感じられなくなっても肉親を亡くしたストレスによる味覚障害と信じて疑わず。ケーキを前にして飢餓感を覚えてようやくハッと気づくこととなる。
子供の頃に発症してはいたものの、結局は大人になりどうしようもない状況になってからの自覚。
そう考えると全くあり得ない話ではないのだ。
「……とか。条件が揃えば、こういった事例も無いわけではなさそうなんですよねぇ。なぜ外食だと美味しくないんだ? 的な疑惑は抱くけどフォークだと確信するには至らない、みたいな」
「…………そう、ですか」
「そういった隠れフォークも少なくないかと」
眉間にしわを刻み、口をへの字にし、深く深く何かを考えこむ降谷は緩慢な動きで右手を動かすと口元を覆った。
「……ああ、話が逸れましたね。戻しても?」
「あ、はい、お願いします」
「フォークの舌を刺激するのがケーキの持つ成分であり、それは非常に閾値が低いと考えられます。ケーキがごく普通に調理をして、手からごくわずかな……うーん、何らかの成分とかが食材に付着し、それに連動して他の食材の味を感じられるようになる。「閾値の共振」と言ったところですかね」
最後が曖昧なのは正式名称がついていないためだ。
ちなみに結加理が取り組んでいる研究内容はこれに近いものである。
テーブルの上に広げられている資料をある程度ひとまとめにし、バインダーから更に資料を数枚取り出す。右手で口元を覆ったまま無言で思案する降谷の前にそっと滑らせた。
「フォークは味を感じられなくなっただけで身体が必要とする栄養、接種方法、それは何ら変わらない。という研究結果がまとめられている論文の一部です」
「これは、僕たちが見ても良いものなんですか?」
「ええ。一般公開されているものですよ。……まあ、好き好んで読む人は少ないようですけど」
日々更新され続けているケーキとフォークについての研究。
研究者と一部の当事者たち以外は逐一追うことは無いだろう。何せ数が膨大なのだ。自分に関係のない事にまで意識を向ける人間など稀だ。
「生きていくうえで、食べるということは欠かせないものです」
食べなければ死ぬ。生きるために食べる。それは当たり前のことだ。
「……サプリメントや栄養補助食品なんてものも近年幅広く出てきていますけど、結局それは文字通り補うものでしかないし。結局「食事」自体は必要不可欠。……フォークは食事を遠ざけがちになってサプリメントとゼリー飲料で済ませようとする人が多いらしいんですけど、それでは心身ともに不調をきたすのは当然ですよ」
理性を失ったフォークによる事件が無くならない、数が減らないのも頷ける。
そう続けた結加理は表情を変えずにマグカップを手に取った。
淹れた直後より少し温度が下がったのを確認してから口をつけるが、まだ熱い。舌先がチリリと痛んだ。
極度の冷え性なせいで夏場でもあまり冷たい飲み物を好まない。猛暑日ならば水筒に冷たいものを用意することもあるが、それでも外での購入は稀。今回も例に漏れず淹れたのはあたたかい紅茶だった。
(……火傷した)
チロッと僅かに舌を出して痛みと熱さを逃す。困ったことに猫舌なのだ。
「……でもフォーク、は……」
「ん?」
「結局、どう足掻いてもフォークは、ケーキなしではまともな生活が送れない、ということ、ですよね」
両手でグラスを包み込み、力なくそう言った降谷の顔を一体どう表現したらいいものか。
悲壮、痛嘆、苦悩、憂愁、悄然。そして、隠しきれない嫌悪。どれもが当て嵌まるようで当て嵌まらない。
結加理の記憶の中にある「降谷零」の印象は、清濁併せ持つ人物だった。時と場合に応じて見せる顔を変える。どんな手を使ってでも目的の為ならば必要なだけ必要な手を打つ。そんな人物だった。
しかし目の前の彼に抱いた印象は、高潔にして潔癖。清廉潔白。常に正しさを求める、強い正義感が主軸にあるのだと。確証は持てずともそう認識した。
結加理はどこかヒヤリとしたものを感じて僅かに目を細める。返答を間違えられない。そんな緊張感。
「……ありきたりな言葉だけど、社会において生活には色んな人が関わってくるし、誰かの力が無ければ成立しないことが多いわけで。ケーキやフォークの人の、関わることも、そういう枠なんじゃないかと考えてる」
言葉を選びながら紡いでいく結加理は、それでも彼を納得させられるだけの説得力は無いと自分でも感じていた。
この世界において、フォークへの認識と置かれている立場はそれほどまでに厳しい。
「この人の料理を食べている時は美味しいものが食べられる。幸せ。……くらいの考えで良いんじゃない? と私は勝手に思ってる。だってさっきは普通に料理──」
「けど、……でも、フォークはッ」
降谷が耐え切れなくなったと言わんばかりに声を上げた。
いつの間にか俯いていた彼の視線はテーブルを向いたまま。力が籠められすぎた肩が、硬く握られた拳が、吐き出される声が、震えている。
「別の人間のからだを、その一部を、美味しいと思うんですよ!? 行き過ぎれば食人衝動にっ負けるんですよ!? そんなのもう、人間じゃ──」
「──それを言うんだったらケーキだって人間じゃ無いって事になるな!」
ハッと息を呑んだ結加理は降谷の言葉を遮った。何を言うのか分かってしまったのだ。最後まで言わせるわけにはいかなかった。被せるようにケーキという呼称を出したのは怯ませるためだ。
テーブルにダンッと結加理の左手が叩きつけられ、右手がテーブルの向かい側に座っていた降谷の胸元に伸びる。
この剣幕に肩を揺らしたのは降谷だけではない。一瞬で室内の空気が張り詰めた。──それこそ料理を台無しにされた時にだってこんなにも怒気を露にしなかった。そんな彼女が感情に任せて声を荒上げたというのは、今しがた放たれようとした言葉が余程聞き流せないものだったのだろう。
「ち、違っ」
テーブルについた左手も、降谷の胸ぐらを掴む右手も、傍から見てはっきりと分かるくらいに震えている。それがどんな感情が元でのものなのか誰も判断できない。
「違わない。『フォークを狂わせてるのはケーキだ』なんて言ってる連中だっているくらいだから」
「……え?」
「『フォークとケーキの関係性について解明されない、研究が進まない。その原因はケーキが協力に積極的ではないからだ、ケーキ自身が原因だってことを自覚してるからだろ!』とか、ね」
「そんなっ」
「……ま、そんな連中はごく一部なんだけど。確かに存在してる」
全く予想だにしていなかった内容にバッと顔を上げた降谷は、そこでようやく結加理と視線がかち合った。射貫くような眼差しに、逸らすなよ、とでも言われているような気持ちになる。
「ともかく、フォークだから、フォークになったから、すぐに食人衝動に駆られるわけでは無いでしょ。……世の中に浸透してる空気と考えと、常識と言われている思い込みや定義づけ、全っっ部が邪魔してくるよね。色眼鏡で見ないで、考えないで」
一度口を噤み、深く息をついて結加理は呼吸を整えた。
「──頼むから、今はフォークとケーキという関係は置いといて、私個人としての話を聞いてほしい」
胸ぐらを掴んで、下から睨みつけるように見上げてくる彼女の眼。若干たれ目がちで優し気な印象が強かった双眸は、今やキュッと猫のように吊り上がっている。
その視線は、嫌になるほど真っすぐだった。降谷の目を、意識を、逃さないと言わんばかりに射抜く。
降谷は結加理の手を振りほどけない。相手が女性ということ以上に、ケーキであるということが思考を支配して下手に動けずにいる。身体がガチガチに強張っているくらいだ。
なぜならば、フォークとは加害者側になる存在なのだ、という考えが一般的な考えとしても降谷の中でも根強いためである。
今しがた「ケーキとしてではない彼女個人の言葉」を聞けと言われはしたものの、それが出来れば苦労はしない。どうしたってこのケーキとフォークという要素が降谷の思考を狭めてくる。
けれども、何か意図があるのだと分かってしまったから、降谷はグッと下唇を噛みしめて彼女の言葉を待つ他ない。
「──いい? さっき説明した通り、「味を感じない」のと「特定の成分を甘味として感じるようになる、舌が反応するようになる」という点を除けば、普通の、今までと、何も変わらない」
再度開かれた口から紡がれた声は酷く静かだった。言い聞かせるように、ゆっくりと区切りながら放たれた言葉。
一瞬、降谷は何を言われたのか分からなかった。処理できなかった。理解が出来なかったのだ。
……変わらない? 何が変わらないというのだ。
沈黙が落ちること何拍か。徐々に内容を飲み込めてきたのか、降谷の双眸がじわじわと見開かれていく。
その様子に結加理はふと思った。──ああ彼はまだ、自分が知識として知っている
降谷さんではないのだな、そりゃそうだ、と。
結加理が前世での知識として知っている降谷零は、ほとんどが二十九歳の頃の姿で描かれている。
この数時間で幾度となく見ることとなった反応、言動、表情、思考。似ても似つかないものばかりだった。
まだ青い。
眼前で動揺を露にしたままの降谷から手を放して、彼に気付かれないよう結加理は深くゆっくりと息を吐きだした。
「あのね、降谷くんは変なオプションがついちゃっただけで、ちゃんと人間だよ。真っ当な。だから、さっきのような事は貴方から言わないで。自分を傷つける必要はないから」
「……っ!」
おそらく「今は」という言葉がつくであろうことは重々承知だ。しかし、他ならぬケーキである結加理から、この言葉を言われたという事実。それが何よりも降谷の胸を震わせた。
非人間じみた、人間ではなくなったような、などというのは他ならぬ降谷自身が思っていたことだ。それを真っ向から否定された。いや、否定してくれた。
強張っていた肩から力が抜け、ストンと両脇に落ちる。限界まで見開かれた目が揺れている。その目尻がじんわりと潤んでいくのに時間はかからなかった。
涙が溜まり、溢れ、落ちる。
大粒の涙がぼたぼたと落ちては降谷の服を濡らしていく。
「……え、…………えっ! どうしよ萩ちゃんっ!? なっなっ泣いっ」
「ははっ、泣いちまったねぇ」
「いや笑い事じゃなくて!」
ギョッとしたのは彼女だけで、慌てふためく結加理とは対照的に他の四人はどこか安心したように笑っている。何故に。
軽く丸まった降谷の背をトントンと叩いている諸伏にティッシュを手渡すも、数枚しか残っていなかったようで箱が空になる。慌てて近くの棚からハンドタオルを取り出して涙がこぼれ落ち続ける顔に押し付けた。
「え、えええごめんね強く言い過ぎたかな、ご、ごめんよぉ……」
「ち、が、……違く、て」
今までのやり取りの事もあって触れていいものかと、狼狽える結加理はおろおろと手を上げては降ろしている。そして最終的には、触れるか触れないかと言った位置で手を左右に揺らした。
まさかのエアなでなで。混乱しすぎである。
その光景に堪えきれなくなった松田が噴出した。音の出所に目を向けた結加理が肩を揺らす松田に気付き、なんとも形容しがたい表情に変わる。次いでギッと睨みつけるのだが全く怖くない。
そもそも松田は此処にきてから笑いすぎだ。じっとりとした目で見つめるが意に介した様子も無い。その横では萩原もニヤニヤしているのだから、やはり今この瞬間の結加理には味方が居なかった。
「えっと、でも本心だからね? 全部」
テーブルを挟んだ向かい側で、降谷は片手で目元を覆っている。声こそ出ていないものの肩が震えていた。応えはない。
どうしたものか、と視線を泳がせて結加理は先程続けられなかった言葉を告げた。
「あと、食人衝動に駆られたフォークとはまた別に、ケーキを誘拐して売買する連中とか、私利私欲のために他者を食い物にするような普通の人間に対しての方がよっっっぽど、「こいつら人間じゃねぇ」って思ってるよ」
その声色にはひどく実感が籠められ、様々な感情が滲んでいる。
言い知れない何かを感じて伊達は思わず結加理の顔に浮かぶ表情を確認した。苦虫を噛み潰したような表情。既に何か被害を受けたのだろうか、と僅かに目を細めた。
そんな伊達に気付かず、彼女はおもむろに立ち上がる。決して言い逃げではない。気になることがあったのだ。
(潔癖症になりかけてそうだし、無闇に触れない方がいいけど……でもな……)
収納ラックの一つからタオルを更に一枚、その隣の引き出しから白い手袋を取り出す。両手に嵌めてテーブルの元に戻る。先程まで座っていた萩原の隣ではなく、降谷の横に。
降谷の手が届く場所に膝を着き、結加理はそっと彼の顔を覆う片手を外す。何ら抵抗なく降ろされた手を取る。両手で軽く握るが手の全体を包み込むことはできなかった。手の大きさが違うのだ。
「こうやって近くに寄っても、ケーキの匂いを感じるだけでガブガブしたいとは思わないでしょ?」
「……がぶ」
「がぶ……?」
結加理の独特の言葉選びに降谷と諸伏は二人揃って小さく首を傾げた。次いで、諸伏が理解できたのか拳と手の平をポンと合わせて頷いた。
「あ、食べたいって事か」
「思わない、です」
ぽろり、再度落ちた涙が頬を濡らしたのを見止めて結加理は降谷の両頬に手を伸ばす。抵抗されないことを良い事に、人差し指の背で右頬をぬぐい、親指の腹で左目の目尻に溜まった涙をぬぐう。
のろのろと顔を動かし結加理と視線を合わせた降谷はくしゃりと顔を歪めた。柔らかく笑んだ彼女の目に負の感情は全く浮かんでいない。しかし降谷は不安がぬぐえないでいる。
「……あの……何で、手袋……」
やはりフォークに触れるのは嫌なのだろうか、と心の柔い部分が軋む。気遣われているとは全く考えもしていなかった。
不安に揺れる瞳を間近で見て結加理は困ったように眉をハの字にさせた。潔癖症になりかけているのならば直接触れるのは避けるべきだという考えに加え、焦りすぎて手が汗ばんでいるのだ。素手で触れるのは憚られる。
「あー、いや、顔が良すぎるので。降谷くんがフォークだからとかではなくて」
「……かおが、よすぎる……」
苦し紛れに絞り出された言葉が理解しきれなかったのか、僅かに首を傾げて降谷は呆然と呟いた。その発音は若干怪しい。
「宝石を扱う人、手袋してるでしょ。そんな感じ」
「……ほうせき……?」
これまた呆然と呟く彼の背後に宇宙が召喚されている。この人は何を言っているんだ? という言葉が聞こえてきそうな顔でぱちくりと目を瞬かせていた。衝撃のせいか涙はいつの間にか止まっている。
面白いものを見たと言わんばかりに笑う松田、ニコニコと嬉しそうな諸伏、どこかホッとしたように微笑み肩の力が抜けている伊達。その中で萩原はどこか面白くなさそうに唇を尖らせている。ムムム、と。俺にはそんなこと言わないのに? なんて言葉が聞こえてきそうだ。
そんな萩原の隣に戻った結加理は小声でコソッと自身が感じた懸念を伝える。チラリと盗み見たのは降谷と諸伏。
「……潔癖症になりかけてたら触れるのはマズいでしょ」
「!」
「まあ、さっきキュウリ食べてくれたから大丈夫だと思うけど、念のためね」
ほんの僅かに目を見張った萩原は一瞬だけ視線を渦中の人物へ向ける。聞くつもりはなくとも結加理の声が耳に飛び込んできたらしい松田と伊達もまた同様に。
特に反応していない様子から察するに、おそらく聞こえてはいないだろう。それでいいのだ。こんな些細な気遣いなどに気づかなくとも。
■
自身のマグカップと空になったグラスを回収し、結加理は一度キッチンに戻ることにした。
単純に自身の腹が訴える空腹感に耐えきれなくなったためである。真面目な話をしている時に腹の音が鳴るのは、是が非にでも回避したい。
何を食べようか、と麦茶を取り出すために冷蔵庫を開けながら考える。
(うーん、半熟の味付け卵、肉じゃが、蓮根とごぼうのきんぴら、仕込んでおいた唐揚げ用の肉はそのままだけど……見事に酒のつまみっぽいのばっかりだな)
ラップが掛けられた皿二枚を萩原が両手にそれぞれ持ちながら歩いてくる。対面型キッチンのカウンター部分にそっと皿を置いた後、彼は複雑そうな表情で口を開いた。
「結加理先輩、ありがとね」
「ん? いいえー。一応、言い方は悪いけど保身的な意味合いもあるし、本当に礼には及ばないってやつだよ」
「うん。それでも。いつもはここまでがっつりアフターフォローしないっしょ」
「まあ、萩ちゃんたちの友達だから、いつもよりは気を付けたけど……」
本当にそれだけなのだ。今回言葉を尽くし、資料や実演で相手を納得させるまで動いたのは、偏に萩原と松田の存在が大きい。何も普段の結加理とて萩原の言う通り無条件で慈善活動じみたことなどしない。
むしろ今しがた萩原に告げた通り保身の意味合いが強い面もあったりする。だから、感謝などされる理由など本当に無いのだ。
前世の記憶がほぼ薄れつつある。ファンとしては所謂ライト層だったこともあって記憶に残り続けているエピソードや登場人物は非常に少ない。
それでも結加理の中に根強く色濃く記憶に残り続けている存在が
江戸川コナンを筆頭とした降谷零を含めた数人。
故に、結加理は自身の記憶に残り続けている人物たちをキーパーソンであると認識している。そんなキーパーソンの一人である彼が、こんな場所で、フォークというだけの要因で、潰れていいわけがないのだ。
「一時はどうなる事かとは思ったけど一応丸く収まって良かった。もう少し話さなきゃいけないことは色々残ってるけど。……雛鳥だったから、かな」
「雛鳥?」
首を傾げる萩原に頷きを返して、結加理は若干遠い目をする。
「いやぁ、彼、まだひよこちゃんでしょ」
「……ひよこちゃん」
「そう髪の毛も相まって、ひよこちゃん。ピヨ」
学年総代を務めた様々な面で抜きんでているアイツがそんな可愛いタマか? と、萩原は返答に窮した。
複雑そうな表情を浮かべていることに気付いてはいるものの、結加理は特に触れずに肩を竦めるだけに留める。
その胸中は察せるようで察せることができない。警察学校でどのように過ごしているのかを彼の口から聞いたわけでも無く、現状を詳しくは知らないのだから当然だ。
後のトリプルフェイス、結加理の中ではその印象が強すぎる。先程も考えていたことだ。
完全無欠、完璧超人、非の打ちどころのない、出来ないことはないのではないのか、天才肌、そんな風に言われることが多かった彼。
その所為か、今の降谷のことはまだ雛鳥のようにしか見えないのだ。隙の無い描写が多かった所為か、それと比べてしまうとこの場にいる彼は感情のブレが分かりやすい。
……それはさておき目下の問題はまた別にある。正直なところ現時点ではまだ少し難しい部分があるのではないか、と結加理は考えていることだ。
「ね、萩ちゃん。──降谷くんに手料理再チャレンジ、どう思う?」
それは、ある程度の説明を受けた彼がケーキである結加理の作った料理を食べることが出来るか否か。
ここで克服してもらわねば、きっと後々の彼が行動する全てに響いてしまう。
2023/5/29/
泣かせてごめんね降谷くん。それだけ一杯一杯だったって事で。
前世記憶に関しては本編、他番外とも若干の差があったりする。生き延びるために頭フル回転させてる弊害。
そしてまだまだ終わらない……。
2023/9/6/支部にも投稿しました。
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