「落ち着いた?」
「…………はい。すみませんでした……」
「いいよ、気にしないで」
降谷は気まずげに視線を逸らしながら小さく頭を下げる。泣いた後特有の重怠さが襲い掛かってきていた。何なら若干の鈍痛もある。
マグカップが一つと氷が入ったグラスを五つ乗せた漆器のお盆を両手にキッチンから出てきた結加理は首を横に振った。テーブルの上にまとめて置かれたグラスに、萩原が右手に持った麦茶ポットを傾け中身を注いでいく。カラ、カラン、と鳴る涼しげな音。
キッチンにいた彼女たち二人が戻り再度全員が揃ったところで結加理は居ずまいを正した。
「ところで降谷くん、一つ聞きたいことがあります」
「! はいっ」
伸ばされた背筋と真剣な表情。真正面から見据えられた降谷の背が緊張でピンと伸びたのは自然な流れだった。
「他人の作ったご飯を食べることに抵抗は無いですか?」
「……はい」
ほんの僅かに言いよどむが降谷は是と答える。
その一瞬の躊躇いを目ざとく感じ取った結加理は再度口を開く。我ながら意地悪な質問になってしまうな、と頭の隅で呟いた。
「……では聞き方を変えます。ケーキである私が作った料理を食べることに抵抗は無いですか」
「っ」
この問いに対して即答できずに降谷は息を詰めた。この場の誰もが予想していた反応である。
だよなぁ、と内心で結加理は頷く。次いで、個人の意見ですが、という前置きをして言葉をつづけた。
「これから先、様々な面で何かしらの対策を考えないとマズいと思うんですよ。舌、更には鼻まで多少なりとも鈍ってしまって機能しない、ってことは今まで以上に異臭にも毒物にも気付き難いだろうし……今の時期とかだと悪くなった食べ物とかにも気付けないから食中毒のリスク高まりそうじゃない? おなか壊しますよ」
正論だった。
そして、いつの間にか外れていたはずの敬語が中途半端にひょっこり戻ってきている。
「ケーキの人間限定で異物混入に気付けるようになる、なんていうのはあまり捜査には関係なさそうですけど。でも被害者か加害者がケーキだった場合は逆に気付きやすいかも? あと、ドラマとかで見るような潜入調査とかすることになった場合……正直詰みそう」
「潜入捜査とかドラマの見過ぎだよ! って言えればいいんだけど、何があるか分かんないしね」
「……考えすぎだ、とは言えねぇのがな……」
「まあ、そもそも美味しいものを求めるのは日本人として全く可笑しい事じゃないから、やっぱり早急に何かしらの策は経てた方が良いと思う。降谷くんのモチベーションにも繋がることだしね」
頷く萩原と松田に神妙な顔でそう告げると、結加理は深く嘆息した。
実は世界的に見ても日本は限界を迎えたフォークの暴走確率が高い傾向にある。
歴史的に見ても分かる、食べ物に対しての執念深さ。食品が腐っても腹を壊さなければ無問題とし発酵食品として成立。毒があれば毒抜きや消滅させる方法を模索。食用出来ないと言われていてもなんとか食用可能な状態にする方法を模索。
頭の隅に様々なエピソードが浮かんでは消えていく。
まあ、食い意地が張っている、と言われればそれまでなのだが。
対策を立てた方が良い、というのは満場一致の考えだ。しかしそんなに神妙な顔で言うことだろうか、と諸伏が首を傾げた。彼に首を傾げ返して結加理は真顔でこう告げる。
「あのね、日本人ですよ? 食に対して貪欲すぎて、とんでもエピソード満載な日本人ですよ?」
「えっと……?」
「食に対して貪欲すぎる日本人のDNAを持っているんだから、味覚が無くなって発狂しないでいられるわけがない。そうでなかったとして、モチベーションの低下やら心身の健康の維持に影響が出る。って言うのが私の持論、です」
ごく一部で大丈夫な人も居るかもしれないけど、と諸伏に向けて続けられた言葉は降谷の耳を通り過ぎて行った。
降谷はこれまでに容姿が原因でアレコレ言われ続けてきた過去を持つ。一般的に想像される日本人としての容姿とは異なるためだ。もちろんそんな人間ばかりではないことは分かっているが、幼少期からの経験と記憶は消えるものではない。
だからこそ、ごく自然と「日本人だから」と言われ少なからず動揺していた。硬直した彼は瞬きすらも忘れたらしい。
結加理はチラリと視線を向けたものの、彼が一体どんな感情をしているのか読めなくなってしまった。肩を竦め再び諸伏に視線を向ける。
「食べ物への執念で分かりやすいのだと……そうですね……。死亡率高い毒もってるけどフグ食べます、調理法はこれです、なんて外国で言ったとします」
「はい」
「多分『Oh,crazy!』ってしか返ってこないと思いますよ。美味しいから食べるぞ〜毒持っててもプロが捌いてるんだし大丈夫〜解毒法ないけどね〜って食べるなんてね」
「確かに……」
「昔の人は調理法確立されてない時でも食べてたみたいだし、毒に当たって死んでも運が悪かったんだ、で食べるのヤバいしか言いようがないよね。まあ正気の沙汰じゃないというか」
「言われれば言われるほどヤバさしか感じねぇ」
黙ってやり取りを聞いていた松田が、思わずといったように呟く。
はるか昔のご先祖様方の執念には恐れ入るとしか言えない。
言われてみれば尤もな話だ。深く考えたことが無かったのか、五人の視線は各々あちこち遠くへ飛んでいる。
「あとコンニャクとかの作成秘話も疑問符しか浮かばないし」
調べてみなよ、と促せば萩原が素直にケータイで調べ始める。そして何とも形容しがたい表情で顔を上げて頷いた。
因みに降谷は知っていたのかコンニャクという単語が出てきた時点で更に遠い目をしていた。
何で石灰を混ぜようという考えが浮かんだんだろう。
「……めっちゃ、理解した」
これ序の口だからね、と言う結加理の目も若干遠くを向いている。全員の視線が交わらずそれぞれ別の方面を向いているという奇妙な光景。
仕切り直し、と言わんばかりに両手を軽くパンと鳴らして結加理は持論の展開をつづけた。
「……ともかく。身も心も満たされなければ辛いだけだ、と思うわけ。美味しいものを腹いっぱい食べて、ホッとして、満腹だ〜満足だ〜なんて言って、眠くなって。そんなひと時が有るのと無いのとじゃ、雲泥の差だよね」
そんなありふれた、けれども何にも代えがたいものを幸せや幸福だと言うのではないだろうか。
たかが食事、安い幸せだ、などと笑うなら笑えばいい。美味しいものを美味しいと思い食べられるのは、幸せな事だ。どう言われようと思われようと、結加理はそう思っている。
そして、それは降谷がフォークになってからは無くしたはずのモノである。各々が複雑な感情に苛まれ静かに目を伏せた。
降谷は食べることに忌避感を抱いてはいない。ただ少し苦痛と億劫さを感じるようになっていただけで。しかし今回の一件で、食事について目を背け続けることはできないのだと突き付けられた。どうしても向き合わなければならないのだ、と。
一度グッと唇を引き結んだ降谷は意を決して口を開く。口内がカラカラに乾いていた。結加理から「ケーキである自分の手料理が食べられるか」と問われた後、どうしてか発言できずにいたのだ。
「篠原さんは、……いや、篠原さんだったらどのような対策を立てますか?」
「うーん、とりあえず協力してくれるケーキの人を探すしかないですよね。フォークと友人関係を築けるような人、メンタル面で強い人、自分が食べ物認識をされる可能性が消えなくとも平気な人、を探す……かな」
取れる行動が限られているのだから仕方がない。答えながらも結加理は内心で渋面にならざるを得なかった。
(正直、そんなケーキと出会える確率なんて相当低いんだけどね……)
無意識のうちにその眉が寄り、目が細められる。フォークと関わること自体を拒むケーキは多いのだ。
「…………僕の、都合のいい勘違いでなければ、なんですが」
言いよどみながら降谷は緊張した面持ちで結加理を見据える。その口端が震えているのは恐らく気のせいでは無かった。
「先程、ケーキである貴女が作った料理を食べることに抵抗は無いか、と聞いたのは……僕の為、と思って良いのでしょうか」
こうして問うに至ったのは、ある程度の確証があるからだ。自意識過剰ともとれる発言なのは百も承知。しかし降谷の為でないというならば彼女の発言の意図が全く分からなくなる。
結加理の瞳を捉えたまま降谷の視線は動かない。心なしか常時よりも目が大きく開かれているようにも見える。膝の上で組んでいる両手に力が入り、瞬きの回数が極端に減っていた。
空気が張り詰めている。誰が見ても分かるくらいに降谷は神経を尖らせていた。
──彼女からの答えを聞くのが、少しだけ怖かったのだ。
「そうだね」
短い肯定。
若干半眼になりつつある目で降谷を見つめ返し、結加理は口角を僅かに下げる。
「……というか、それ以外に何かある? 後は丸投げだよ〜、頑張ってね〜、なんて放り投げるような無責任ではないつもりだよ」
そう言葉を続けながら、どこか呆れにも見える表情でテーブルに頬杖をつく。手の平で押された頬と口元がぐにんと歪んだ。
「なんで、ここまでしてくれようとするんですか」
「そりゃあ君が萩ちゃんの友達だから」
どうしても降谷は分からなかった。彼女にとってメリットなど何もないはずだ。
勘違いの末に暴走し、出された料理を台無しにした。責め立てるような言葉も投げつけた。
そして何より、彼女自身がケーキだということは、フォークの降谷という存在を認識するにあたってマイナスにしかならない要素だ。
そんな相手を何故こうも気に掛けることが出来るのか。今しがた可愛がっている後輩の友人だからという理由を上げられはしたが、しかし降谷はやはり理解も納得も出来なかった。
降谷の表情から考えを察したのだろうか。結加理は頬杖をつくのをやめて改めて向き直る。その瞳に宿るのは静かだが力強い光。
「あとは、ココに連れてくるのにOK判定を出したお友達だから、かな。ある意味で私の要塞みたいなもんだから」
それについては後でまとめて詳しく話すよ、と小さく困ったような笑みを浮かべる。
「ココはセキュリティのレベルが中々高くてね。まあ、それも含めて来る人は限られているんですよ。自分から招くのは気心知れた仲良い人だけだし、萩ちゃんから『連れて行きたい』って紹介された人も今までで数人程度だからね。新しく来る人って珍しいの、本当に」
おそらく降谷たちが思っている以上にこのマンションのセキュリティレベルは高い。
ケーキであること、ケーキとフォークの研究に携わる人間だということ、個人的にフォークから目を着けられているということ。それ等が相まってこのレベルでなければ身の安全が確保できないというか、なんというか。
──なお、後程に話すことになる内容にも関わってくることである。
「萩が相当考えてくれているのは知ってるからね。友人として紹介してくれる人も、ある程度のラインをクリアした人だっていうのも。それでも、その中でココに連れてきたいって言われる人は殆ど居なかった」
まさか自分の行動について触れられるとは思っていなかったのか、萩原は目を見開きパシパシと瞬かせた。
隣で萩原が身じろぎしたのを感じて、結加理は僅かに目を細め小さく笑みを浮かべる。
気付かれてはいないと思っていたのだろうが、知っているのだ。結加理が傷つかないように、と様々な予防線を張ってくれることも。彼自身が見守れる範囲での脅威を極力減らそうとしてくれていたことも。
「……優しいよね、凄く考えてくれてる。いろんな面で人の事を良く見てるんだな、って思うよ。だからその萩から信頼されてる友人を、私も大事にしたいと思うワケ」
萩原は驚きに一瞬身じろぎしたものの真剣な話をしている横で声を上げることはない。至って静かだ。しかし次第に落ち着きなくソワソワしはじめる。
うろ、と視線を泳がせたのは結加理以外からの視線が萩原に集まっている所為だ。視線も泳ぎ定まらず、頬もどこか赤くなっていく。要は照れくさいのだ。自分の行動をこうも言語化されるというのは、それに伴い友人からあたたかな目を向けられるのは、どうにも面映ゆい。
そんな萩原の様子に気付いているのか気付いていないのか、結加理は特に言及することなく降谷へ再度の問いを投げかけた。
「ご理解いただけた?」
「……はい」
若干の間を開けて答えた降谷は僅かに視線を落とす。
互いの事を思いやっている関係なのだな、互いに大切なのだな、と表情や言葉の節々から伝わってくる。それでいて男女の仲のような空気を全く見せないのだから、どうにも不思議さを感じてならない。
「それで、……私が作ったもの食べれそう? ってか今から用意しようと思うんだけどチャレンジできそう?」
「多分、大丈夫だと思います。……お願いしても良いですか」
「りょーかい」
つい先程、和え物の調理工程を見たことで多少なりとも気持ちが落ち着いたのか、それとも彼女が無害だという認識が出来たからなのか、降谷は本当に無理なく頷けた。
萩原の顔を立てるというわけでも無く。結加理に気を遣ったわけでも無い。
それを表情や声色から感じ取ったのか、結加理は一つ頷いて立ち上がる。流れるように確認事項を問いキッチンへと足を向けた。
「最近あんまり食べてないんだったら、油ものは避けた方が良いかな?」
「いえ、おそらく問題ないかと思います。食堂で出される分は完食するようにしていたので」
「お、偉い偉い。味がしないものを口に入れるのは抵抗あるだろうに、頑張ったね」
子ども扱いのように聞こえる言葉ではあるが、本心から思っているのが伝わってくる。それほどまでに実感が込められていた。
電子レンジの稼働する音が消えてから程なくして、結加理がお盆を手に戻ってくる。乗っているのは箸が数セット、小皿と小鉢、大小のおにぎり一つずつ。箸が複数用意されたのは単純に取り箸として使う予定だからだ。
とりあえずコレ、と降谷の前に置かれたのは揚げ茄子の煮びたしとピーマンの肉詰め。先程他の面々に出したメニューの一部。きちんと降谷の分は別に取り置いていたのだ。
「はい、これさっき皆に出したヤツの降谷くんの分。……あ、おにぎりは小さいのと大きいのどっちがいい? 大きい方は萩が握ったやつだよ」
炊き込みご飯のおにぎりはサイズが違うものが大小一つずつ。大きさが違うのは単純に手の大きさの違いの所為だ。
手を伸ばした降谷は一瞬その動きを止め、小さい方を選び手に取る。
「……いただきます」
「はい、召し上がれ」
皆に見守られながらおにぎりを口に運ぶ。降谷は先程とは違った気まずさや緊張に襲われていた。何かを食べるという行為に、こんなにも注目される経験は今までになかったのだ。
茶色く色づいたおにぎりを一口含んだ途端、口内に広がるだしと醤油の優しい香り。程よい握り加減なのか、ご飯同士が詰まりすぎずふんわりとした口当たりで、二口目、三口目と口に含むたび米の一粒一粒がほろほろと崩れていくようだった。
おそらくコリッとした歯ごたえは筍で、プリッとした弾力はキノコだろう。たまに混ざる違った食感がまた食欲を刺激する。
「……」
「あ、あの、降谷くん……? 無理して食べなくていいからね?」
「……」
一口食べた後、もっもっもっ、とそのまま無言で食べ続ける降谷に不安を覚えたのか、結加理が声を掛けるが応えはない。
いいのか? 大丈夫なのか? と萩原や諸伏に視線を向けるも笑顔を向けられて終わる。先程も似たようなやり取りがあったな、と釈然としないままではあるが見守ることにした。まあ流れに身を任せることにした、ともいう。
降谷はあっという間におにぎりを一つペロッと平らげた。サイズ的にも小さめだったためだろう。
熱々になるまで加熱されたわけでは無いようで、ほんのりとした温かみが身に染みるようだった。
(……お、いしい……)
次いで降谷が手に取ったのは箸、それから小鉢。萩原が握った方の大きいおにぎりに手を伸ばしかけたが、同時におかずも用意されていたことを思い出したのだ。
小鉢の隅に添えてある大根おろしは崩さず、まずは茄子を一つ摘まんだ。薬味として上にちょこんと乗っていたしょうがのピリリとした刺激が舌先に走る。濃すぎず薄すぎない味付けにどこかホッとする。鰹節の風味が口いっぱいに広がる。揚げ茄子が舌の上でとろりと溶けた。
だし汁に浸りきっていなかった部分があるのか、カリっとした食感も楽しませてくれる。
油を吸った茄子は、何故こうも美味しいのか。
今度は大根おろしを崩して小鉢の中でだし汁と混ぜてみれば増すサッパリ感。
ほう、と無意識のうちに感嘆の息がこぼれ落ちる。
──美味しかった。空腹は最大の調味料とは言うが、それを抜きにしても美味しかった。
味を普通に感じることのできる食事自体から離れて久しい。こんなにも心落ち着くものだったのか、と改めて思う。
(美味しいって、そう思って食べられるのは、本当に幸せなことなんだな……)
無言で食べ続ける降谷の目が再び潤んでいく。
ぼたぼたと涙が溢れ落ちる本日二度目の光景。次々と箸を進める様子を隣で見守っていた諸伏はへにゃりと眉を下げた。先程のタオルは既に回収されているため手元に無いのだ。
「……まっ、また泣くのかぁ……」
食べながら涙をこぼしている様子に、結加理が困ったように立ち上がった。
タオルの出番はまだなくならないようだ。新しいティッシュの箱も用意した方が良いのだろう。
無理をして食べているわけでは無いということは、降谷本人の食べっぷりと周囲の反応で分かった。だから結加理が聞くのは一つだけ。
「美味しい?」
「んぐ、……は、いっ」
乾いたタオルを降谷の目元に押し付けながらの問い。今度は答えがあった。
途切れつつも万感の思いが込められた返答。何度も頷く彼の頬は濡れている。その頷きを受け取り、結加理はニカッと破顔した。
「うん。なら、良し!」
──ああ、なるほど。
その弾けるような笑みを前にして降谷はストンと何かを納得したような心地だった。萩原が彼女を先輩と呼び慕う訳を、理解できた気がしたのだ。
「降谷くん大丈夫みたいだし、ちょっとあっちに居るね。そろそろ揚げ物するから。……あ。降谷くん、調理過程とか見なくても良い?」
「ん? ……ん、はい、大丈夫です」
「将来、飲食店とか喫茶店に潜入捜査とかすることになったら、何て時のために見ておいたりとかはしなくても良い?」
「飲食店でも喫茶店でもバイトなんてしないと思います、けど……?」
「うーん、そう?」
「そうです」
結加理からの問いと提案が予想外だったのか、問われた降谷以外の四人もきょとりと目を丸くしている。
何とも言えない複雑な笑みを浮かべたまま結加理は空になったお盆を手に取った。そのままキッチンへと戻っていく。
降谷の言を聞いた彼女が、
(いや、たしか紆余曲折の末に喫茶店でお仕事する事になるんだったような……気がするんだよなぁ? 違ったっけ?)
などと頭の隅で呟いていたなんてことに、誰も気づけるわけもないのだ。
降谷とて唐突な問いに対し不思議に思わなくもない。しかし、余程のことがない限り一般人が警察官と関わる機会は少ないのだから、実際の警察官について知るわけもない。むしろ関わる機会など無い方が良いのだから当然である。
フィクション作品などの影響を思えば、潜入捜査ありきと考えられるのも仕方がないのではないか、とも感じるのだ。
だから彼は、数年後に彼女の言葉を思い出して何とも言えない複雑な心境になる、なんてことを知るわけがないのである。
キッチンへと向かった彼女の背をチラリと一瞥し、降谷はピーマンの肉詰めを半分に割る。肉厚で大きさが中々だったのだ。途端にじゅわっと溢れ出てくる肉汁がもったいない。これ以上肉汁を逃さないよう慌てて口へと運んだ。
ピーマンのほんのりとした苦味、肉の旨味と玉ねぎの甘味、それを引き締めるピリリとした胡椒の刺激。微かにチーズの味もする気がするのだが断面を見ても確認ができない。もしかすると隠し味で少しだけ粉チーズを入れているのだろうか。
肉だねの味付けは濃くなく控えめで、飽きることなくいくらでも食べられそうだった。二つ目は等分することなく豪快に一口で頬張ることにした。先程のように肉汁を逃さないためである。
はふ、と一つ息をついて、降谷はキッチンへと顔を向けた。
キッチンから聞こえ始めたのは揚げ物が出す気泡のはじける音。それが妙に食欲を刺激してくる。換気扇は回しているらしいのだが、それでも油のにおいがリビングまで広がっていた。
「なあ降谷ちゃん。俺の先輩、良い人だろ」
「……ああ」
「そんで、かっこいいだろ?」
「……そう、だな」
囁くような声で会話をする萩原と降谷の視線は互いを向いていない。
どこか眩しそうに細められたそれぞれの瞳は、コンロ前に立つ彼女の背に向けられていた。
■
みんな大好き唐揚げ。味は塩、しょうゆ、柚子胡椒の三種類。数時間とはいえ下味を染み込ませていた為、飽きることなく楽しめるだろう。
そう考えながら下準備が済んだ鶏肉を油に次々と投下していく。
揚げ物ということで用意したキャベツの千切りと大根おろしも恐らく活躍するだろう。ちなみに、茄子の揚げびたしでも活躍した今回の大根おろしは松田作である。
手伝えば揚げたてをこっそり分けてもらえると知っている萩原と松田が率先して運搬係になっている中、結加理は唐揚げにつけて美味しいと個人的に考えている
タレを作り始めた。
次々に出来上がる揚げたての唐揚げ。そこに成人男性五人という要素が加わればどうなるか。──争奪戦である。
結構な量を揚げたはずなのに瞬く間に一つの皿が空になった。
「……えーと、一応聞くけど、もう少し揚げる?」
「揚げてー! もっと欲しい!」
「むしろ何で要らねぇと思った?」
「だよねぇ」
そして答えは決まりきっているだろうな、とは思いつつも確認のため問えば案の定の返答。満面の笑みの萩原と頬が緩んでいる松田はハフハフと揚げたてを食べながら戻っていく。
噛んだ瞬間に揚げたての衣がサックリと、中の鶏肉からは肉汁が溢れる。その熱さに舌先がヒリつくも食べるのをやめられない。柔らかくもプリッとした弾力がたまらない。濃すぎず、しかし食べて確実に分かる程度にはしっかりした味付け。これもまた飽きることなく箸が止まらない原因の一つだ。
「はい、コレもどうぞ。油淋鶏のタレね」
お好みで使ってね、と出されたそれにパッと目を輝かせたのは松田だった。
彼女が揚げながら同時並行で作っていたタレ。それをいの一番に受け取り、唐揚げにかけている。
「はあぁ、美味ぇ……いくらでも食えるわマジで」
唐揚げに何かを付けるのか、そのまま食べるのか。これはよく話題に上がるテーマだろう。
一番良く聞くのはレモン。他にも塩、タルタルソース、ポン酢、七味、かけずにそのまま、などその他諸々。何をつけようがかけようが、それは食べる人間の好みである。
ちなみに降谷はかけない派だった。揚げたての唐揚げはカリッとした衣も楽しみたいのだ。
しかし、目の前で松田があまりにも美味しそうに頬張るものだから、興味が出てしまった。この時点で降谷は出される料理、それに付属する薬味やタレなどに外れがない事を悟っていたのだ。
試しに、と比較的小さめな一つにタレをかけて丸々口に放り込む。そしてクワッと目を見開いた。
──酸味が効いた甘じょっぱさ。ほんのりとしたごま油の香り。すりおろされたしょうがの汁と刻みネギの風味が味の深みを増幅させている。
これを唐揚げと組み合わせて美味しくないわけがないのだ。タレと大根おろしを少し混ぜても良いかもしれない。味は少し薄まるだろうが、おそらくサッパリ感が増す。
出される唐揚げの殆どが塩味だったのは、このためか。咀嚼しながら納得する。
美味しいものを食べている最中に口数が減るというのは稀なことではない。現に降谷もやはり無言だ。黙々と食べ続けている。
よく食べるなぁ、などと感心しながらも結加理は彼の胃袋に対してちょっとだけ不安になった。久々の味を感じる食事の所為でリミッターが外れていやしないか? と。
「腹八分目だからね、降谷くん。腹八分目。はい復唱!」
「はい、いっぱいたべます」
「こらこら」
「すみません。えっと、腹八分目ですね、腹八分目」
もきゅもきゅと口を動かし続ける降谷はそう答えながらも、腹八分目で抑えられる気がしないな、と頭の隅で呟く。いっぱいたべます、は本心である。
だって美味しいのが悪い。様々な意味で満たされるような心地にさせる料理ばかりなのがいけないのだ。
食い溜めが出来ればいいのに、などと割と本気で考えながら新しい唐揚げを口に放り込んだ。
そんな降谷の思考などお見通しなのか、結加理は困ったように笑って萩原に顔を向ける。ちょうどやり取りを見ていたらしく視線がかち合った。
「萩ちゃんと一緒なら、またここに来ても良いから。食べ過ぎておなか壊さないようにしてね。……でもまあ、大体は研究室の方に籠ってるから事前に連絡貰わないと無理なんだけど」
「そうなんですね」
「……ってかすごい確率だよなぁ。今日先輩と会えるなんて全く思ってなかったのに」
「あー、うん」
急に言いよどみ、うろんと視線を泳がせた結加理に、萩原と松田はどこか嫌な予感を覚えた。
ジッと無言で見つめれば致し方ないと言わんばかりに肩を竦められる。
「……えーと。ちょこっと前に色々あったから、今日はそれに関する追加の事情聴取+αで出かけた帰り」
「…………は? はあっ!? いや確かに町中で会うなんて珍しいなって思ったけどさぁ!」
「うっわ出たぞ事後報告! 吐け! さっさと何があったか吐け!」
「松田くん、それ、お巡りさんが言うセリフじゃないと思うんだよなぁ」
「まだ訓練生だ!」
「腹ごしらえしたら、それもちゃんと話すから」
引き攣った表情の萩原と松田の反応を見る限り、事後報告の常習犯のようだ。
両手を上げて降参の意を示しながらも軽口は忘れない。
したたかなのか、彼等の反応に慣れているのか、それともこの反応を覚悟していたのか。恐らくは全部なのだろう。
ゆっくり食べてる場合じゃねえ、と言わんばかりに食べる速度を上げた二人に倣い、降谷達もまた箸を進める速度を上げたのだった。
2023/6/11/
もぐもぐもぐもぐもぐ。
降谷くん、また泣かせてごめんね。
2023/9/6/支部にも投稿しました。
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