ある程度話が落ち着いたところで部屋に沈黙が落ちる。時計の針がカチカチと時を刻む音だけがやけに響いていた。
真面目な話であるため気が散るかと思いテレビを消していたのだが、音量を下げて点けたままにしておいても良かったかもしれない。そんな考えが結加理の脳裏を過ぎる。
誰もが真剣に聞いていた所為か、麦茶ポットを持ってきたというのに中身があまり減らずにいる。容器の側面が汗をかいてテーブルに小さく水たまりが出来ていた。
五人ともにそれぞれ険しい表情が崩れない。形の良い眉がずっと寄っている。
特に降谷は自身と密接に関わりのある事柄である所為だろう。話題が話題なのだから仕方のない事ではあるのだが、結加理にはその様子がどうにも少し引っかかった。また無用に己を追い詰めやしないか、背負う必要のないケーキのことまで背負い込みやしないか、と。
ふむ。考え込むように左手を顎に当てて彼女は僅かに口を歪める。
自分自身がケーキであるが故に、説明にも偏りが出てきているのは自覚していたのだ。フォークについても少し触れておくべきだろうか。
「……ケーキだけじゃなくて、もう少しフォークの話をしようか」
「えっ」
結加理としては考えた末の提案だったのだが、そんな思考など知る術などない彼等からすれば何ら脈略が無い申し出。揃ってきょとりと目を瞬かせるのも仕方なかろう。
「フォークについての話、ですか?」
「そ。私がケーキだから、ケーキの話が中心になっちゃったけど、フォーク側の話はしてないなって思って。どっちについても平等に知っていた方が良いでしょ」
そう事も無げに告げた結加理に対し、降谷が思ったことはただ一つ。
(気を遣われた、か……)
ここに来てからずっとそうだ。気遣われ続けている。そんな自分自身にどうしようもなく情けなさを感じながら、それでも彼女の言葉に甘える他ない現状。
話の節々から彼女がケーキと自覚してからの期間は随分と長いらしいとは察せられる。見聞きしてきた事は期間と比例するように多いはずだ。近い将来では実際に現場に立つのだから、と当事者でしか知り得ないことも含めて話してくれている。
フォークである降谷がいることも今この提案に至った一因だろう。それを察せない程鈍くない。
だからこそ降谷たちはその厚意を無下に出来るわけがないのだ。
「お願いしても、良いですか」
ただ静かに返答を待っている彼女の瞳を見据え返して、降谷は僅かな躊躇を抑え込んで口を開いた。
「了解」
心得た、と頷いて結加理は手に持ったままマグカップをテーブルに置く。
自然と諸伏と伊達の背筋が再び伸びた。
「ケーキの為の保護兼助成制度があるように、フォークの為の救済措置もある。……とはいっても、コレはあまり知られていないみたいだけど」
フォークに関する救済措置。この言葉に降谷が若干訝し気に眉を寄せた。また言葉が足らなかったか、と内心で焦りつつ結加理は慌てて両手を横に振る。
「あ、申告とか登録とかの義務は無いからね。ってかケーキの方もフォークの方も任意任意!」
そもそもケーキもフォークも事件での発覚以外は自己申告でしか他者がその事実を知る術はない。実際、自ら進んでフォークだと明かす者はほぼ皆無。悲しい事に事件が発生してから周知されるのが主。
つまり、申告や情報登録を義務化しようとしても無理がある。
自身のリサーチ不足ではないことに安堵したのか、降谷の肩から少しばかり力が抜けた。それを確認して結加理は再度口を開く。
二人が妙にワタワタしている間に萩原は中身が減ってきたそれぞれグラスに麦茶を注いでいた。割と自由である。
「ご飯前に話した『自覚なしのフォーク』も居るからね。ってか、医学的にも単なる味覚障害なのか、フォークなのか、はっきり判別できないこともあるみたいだし」
身に覚えのありすぎる内容に降谷は思わず視線が遠くなる。
すぐ横でその様子に気付いた諸伏は何があったのかを何となく察した。
(確かに言われてみればそうだ。ケーキ、フォーク、どちらでもないのか、なんて検査をされたこと無い)
この世界に『フォーク』と『ケーキ』という分類が生じてからどれほどの年月が経とうと、解明されていないことがあまりにも多すぎる。
ケーキの研究が進まないのと同様にフォークの研究も進んでいない。
この人はケーキだ、フォークだ、と断定する明確な判断基準が制定されていない。なにしろケーキは先天的だと言われているのに対し、フォークの発症条件も原因も判明していないのだ。
そんな中、可能性が消えないとはいえ犯罪行為を働いていない一般人が犯罪者予備軍という扱いを受けるのはあまりにも酷だ。それ故の配慮である。
ケーキとフォークそれぞれの人権についての活動の末、今の形に落ち着いたのだ。
とはいえ、自分がフォークの疑いがある、と自己申告で役所に届け出を出す者が居ないわけでは無い。医療機関でフォークの疑いがあると告げられてから、自身がいつ人を害す存在になるのかと恐れて。
「フォーク疑いがある、っていう申告をすると……えーと、これこれ」
「あ、ありがとうございます」
結加理は自身の携帯端末でとあるホームページを開き、目当ての項目に辿り着くとそれを降谷に手渡す。受け取った彼は食い入るように小さな画面へと目を走らせた。気になるのか諸伏も横から覗き込んでいる。
フォークとして情報を登録する側にも多少なりともメリットはある。
何も監視ばかりが目的ではないのだ。カウンセリングが主ではあるのだが、限界前に駆け込む場所の提供、居住区近くの見回りの強化、有事の際に刑が
若干軽くなるような計らいも組み込まれている。
食人衝動に駆られてしまった時に引き起こされるであろう惨状の回避が目的の一つ。
最悪の事態に至る前に止めてくれる存在がある、ということは精神的にも少なからず影響があるのだ。僅かとは言え余裕が生じる。
そして実は、負荷の軽いフォークの研究についてはここから協力を得ている。
……負荷の大きい研究対象は、主に服役中のフォークではあるのだが。この制度とは何ら関係ない部分であるため割愛しよう。
「そんで、そのフォークの人に体の一部の提供とか協力しますよ、っていうケーキの登録も出来たりする。これはほとんど例が無いね。ケーキ側が協力的な事って滅多にないし。っていうか、基準も提出書類も審査もかなり厳しんだけど」
「そんなに厳しいんですか?」
「うん。厳しい。だって、勝手に登録しようとするフォークが居るからね。降谷くんみたいな常識的というか理性的な人間ばかりじゃないんだよ世の中」
結加理の顔からストンと表情が抜け落ちた。
この手の問題においても既に実害を被っている側なのだから当然の反応である。
勝手に協力者登録しようとしたフォークについては警察の介入もあって解決している。まあ、今は、という言葉がつくが。
「登録時に色々書類の提出を求められるからね。まあそこで不正登録しようとしたのが大体発覚するっぽい。それこそ違法に個人情報とか書類を入手しない限り、一方的に知ってるケーキを提供協力者として無断で登録しようとしても出来ないんだよね、今は」
ちなみに結加理は『
個人でのフォークへの協力は行わない』と書類上の登録を済ませている。更に、弁護士と警察と連携を取り、フォークが提供協力者のケーキとして結加理を無断で登録しようとした場合は然るべき場所へ
お知らせが行くような体制を整えてあるのだ。
なおこれは、過去に一度役所でやらかされた結果導入された措置である。
血走らせた目を爛々とぎらつかせ、無断で登録した書類を片手に「お前は俺のケーキなんだからとっとと食わせろ!」と待ち伏せされていた時には本気で死を覚悟した。萩原と松田が近くに居なかったら、などと考えたくもない。
萩原も松田も同じことを思い出しているのか、苦々しく今にも全力で悪態を吐きそうなほど顔が歪んでいる。
フォークと一言に言っても、その人間性はそのフォークそれぞれだ。
降谷のような常識的な者も居れば、自ら犯罪組織に身を投じる者も居れば、特殊な思考をもってケーキを狙う者も居る。
いや、ケーキやフォークという考えは、その人間を図る上では要素の一つでしかない。
例えばこんな問いをしたとしよう。
──フォークに対する印象は?
最も多く返ってくる言葉は「犯罪者予備軍」や「食人鬼」である。
いつ、空腹に耐えかねて人を襲うのか。グループや組織を作り、もしくは既存のそれに入り計画的にケーキを攫うようになるのか。全く予想がつかないのだ。
全てのフォークがそのような者ばかりではないのだが、この印象がどうしても強い。あまりにもショッキングな事件に発展する割合も件数も多い所為なのだろう。
ケーキの中には、いやケーキではなくとも、相手がフォークだと分かった瞬間に物理面でも精神面でも距離を取る者は少なくない。酷いトラウマを抱えている者の中にはパニックを起こし半狂乱に陥った例だってある。
そこにいるフォークが、自分を律しながら真っ当に生きてきた者だったとしても。
割を食うのはいつだってまともに真面目に生きている者たちばかりだ。
「フォークとかケーキとかに関わらず、悪いヤツは居るよね。……フォークは理性の箍が外れやすくなってるから、その分事件数も高くなるんだと思う。特に限界フォークとか理性ログアウトしてるし」
まぁた独特の言い回しをしてる、とでも言いたげな松田の視線を軽く受け流して結加理が肩を竦めた。
「限界フォーク、ですか」
「そ。様々な面での限界を突破しちゃって頭で考えるよりも先に体が動いちゃってる、まあ本能のままに動くフォーク、ってとこかな」
伊達の言葉に返ってきた説明も、分かるような分からないようなざっくりしたもの。しかし間違ってはいないのだから良いのだ。
度々「限界フォーク」と言ってはいるが、実際は「理性を失った極限状態の人間」である。理性を失った、もしくは崩壊寸前の人間がどのような行動を取るのか。
まず倫理観や常識的思考などが欠落する。予想、予測不能。心身ともに正常であれば絶対に取らない行動に及ぶ可能性が跳ね上がる。──そこに元来の性格や人格は関係なくなるのだ。
「でもまあ言い得て妙ってやつかねぇ。限界フォーク、ってのも」
萩原が軽く息を吐きながら肩を竦める。つい先ほどの結加理と似た仕草。
「そうかぁ?」
「分かりやすいじゃん」
何とも言えない表情の松田へ緩い笑みを返して萩原は姿勢を崩す。次いで、口をへの字に曲げて中身の少なくなったグラスを揺らした。
過去に何度か、そういったフォークと結加理の間に入ることがあっただけに思うことが多々あるのだろう。
その横で、ふと結加理は肌寒さを覚えて腕を擦った。
実は揚げ物をする過程でエアコンの温度設定を下げていたのだ。食事も終わり落ち着いている今、正直なことを言うと涼しさよりも肌寒さが勝る。室内温度の調整をしようとリモコンを探すが、置いているのは少し離れた棚の上。数秒それを見つめた結加理は小さく息を吐いた。
(まぁ、我慢できない程じゃないし、わざわざ取に席を立つまでもないか)
内心でそう呟いて、ぬるくなったマグカップを両手で包み込む。
キュッと身体を縮こませたその様子に気付いた萩原は、正確に彼女の状況を把握した。困ったように小さく肩を落として口元を歪める。そして、気づかれないよう静かにため息を吐いた。
(……まったく。気ぃ張ってるってか緊張してんのは分かるけど、我慢しがちなのはいただけねーよな、ホント)
自宅だというのに妙な気を回してしまっている。変に遠慮など不要だというのに。
無言で立ち上がり、萩原は別室へと向かった。その途中でエアコンのリモコンを手に取り室内温度を調節していく。一分と経たずに戻ってきた彼の手には薄手のパーカーが一枚。それを彼女の肩にかけて萩原は元の場所に座り直した。
「羽織ってて。俺等は別に寒くはないけど、先輩は冷えちゃってるでしょ」
そう肩を竦めて言えば、結加理は気付かれていたのかと若干目を泳がせた。しかし冷えていたのも、肩に掛けられたパーカーが嬉しいのも事実。
「……ごめん。ありがたく借りる」
「んーん、俺が忘れていってたヤツで悪いけど」
「いや、そんなことないからね?」
慌てて首を横に振りながらも素直に受け入れ、若干迷った後に結加理は腕を袖に通した。
袖がダボッと大幅に余っているのを一度折って捲る。だが、それでも手の半分は隠れる。身長差もそうだが体格差も結構あるのだ。普段は特に意識していない二人ではあるが、偶にふと、こうしてまざまざと差を感じる時がある。
まあ、だからと言って何かが変わるわけでも無いのだけれど。
そんなやり取りを見守っていた伊達は、よく気付いたな、と内心で感心していた。
萩原と松田、彼等幼馴染のような長年の付き合いとまでは言えない、数年の付き合いである。そうあらかじめ聞いていた。しかしそれにしては随分と互いの事を理解していると感じたのだ。
恋人と言うには物理的に距離がある。色めいたくすぐったさも無い。しかし、ただの友人と言うには近すぎる。
伊達は、自身とナタリーと似ているようでそうとも言えない関係性に思えて僅かに首を傾げた。
互いに大切に思いあっているのは肌で感じる程。物理的な距離がどうという事ではなく、ただ何となく精神的な面で近いんだな、と思ったのだ。ここに来てから幾度となく感じていたこと。
家族など身内に向ける情と言うにも、どこか違和が残る。寄せる信頼は確かなものではあるが一概にこうであると分類が出来ない。
大きなパーカーにすっぽりと覆われている結加理。そのパーカーの持ち主である萩原。二人を交互に見やった伊達は僅かに目を細めて内心で呟いた。
(独特な信頼関係ってやつなんだろうな……)
彼女も萩原も、二人に対し特に気にした様子のない松田も、普段からこの調子なのだろう。
伊達から冷静に分析されているとは露にも思わず、結加理は手の半分を覆っている折り畳んだ部分を軽くにぎにぎと握りしめる。つい先ほどまで何を話していたっけ? と少し前に記憶を巡らせていた。
そんな彼女の様子を萩原は柔らかく目を細めて見つめている。
「えーっと、こんなことを言うと、『自分の事を正当化しやがって』って言われることもあるんだけど……人付き合いとかで相手を選ぶことってあると思う」
彼女が何事もなかったかのように至って普通に話し始めるものだから、一瞬ついていけずにきょとりと目を瞬かせたのは降谷や諸伏たちの方だった。
「まあそりゃあ、ある程度はそうだよね」
「俺だって選ぶぞ」
「陣平ちゃんは選びすぎじゃね?」
「っるせ」
彼女の右横でコソコソ茶化しあっている二人をそのままに、話を続けられるくらいにはいつもの事なのだろう。一瞥すらせずに結加理は言葉を続ける。
「フォークを避けるってなると、ケーキだから保護されてるだけのくせに、とか、人を選びやがって、とかキレられることが、あるんだよね」
そう。これは実際にぶつけられた言葉たちだ。何なら口汚い罵倒付きで受けたこともある。……人を選んでいる、助ける対象を選んでいる、何様のつもりだ、と。
まあ間髪入れずに警察に突き出したが。
「……それは……」
「まあ結構、多少なりとも、フォークには恨まれてるから」
「篠原さんが、ですか?」
なぜ被害者が恨まれるのか、と眉を寄せた諸伏は首を傾げる。
降谷と伊達の表情が再び険しくなった。
「私がフォークに襲われて逃げきれない! ってなった時の対処法の殆どが、手作りのお菓子を口に突っ込む、怯んだすきに逃げる……って感じだからかな?」
何と無しに手元へ視線を落として自嘲した。
結加理に付きまとうフォークは増え続けている。良かれと思って行動した結果、結局は自分の首を絞めていた。
身代わり状態と化している菓子を用いて一時的に退けたフォーク。その大方がストーカー化している。一人暮らしを始めたばかりの頃……大学一年〜二年時の被害が一番多い。
この弊害には割と早い段階に気付いていた。他に手立てがない場合にしか手作りの菓子をフォークに投げつけることはしていない。それでも避けようのない事態は起こるというのが常である。
特に、東都である以上は。
実は過去に襲い掛かってきたフォークが厳重注意で済まされてしまったことが数件あった。
一思いに捕まってくれればよかったものを、警察が到着したその瞬間だけ理性を取り戻しているフォークは自身の不利にならないよう必死で頭と口を回す。
監視カメラも未来ほど流通していない時代。被害者の証言のみ、目立った被害が見受けられない、加えて目撃者も無く証拠不十分なこと。それらが相まって逮捕まで至らなかったのだ。
結果、野放しになったフォークがストーカー化。誘拐未遂を起こす者も居れば、脅しと共に味のする食べ物──この場合は結加理の手作りの菓子や料理を──求めてくる者も居た。
これら全て、今まで結加理が受けてきた被害の一部である。いや、現在進行形であるため「受けている」が正しい。
だから、警察との連携が自然と密になったのだ。
理性を失った、もしくは失いかけている人間の行動は、通常の状態から逸脱していることが殆ど。
死に直結する襲撃を一時的に退けたとしても根本的な解決には至らない。当然だ。問題を先延ばしにしているだけなのだから。
──そのツケが後々に響き、今、来ている。
結加理だって人間だ。関わりたくない部類の人間だっている。慈善的な行いを万人に向けられるほど聖人ではない。
そもそも、身の危険を感じる相手と関わりたくない、などと思うのは自然なことだ。
誰だって命は惜しい。誰だって己の身が可愛い。
襲ってくる=理性が失われている状態なわけである。──まともな思考を失ったフォークに理屈や主張が通じるかと言えば、答えは否。例え話が通じても、納得させられるかというのもまた別の話。
フォークのための救済措置や制度もあるのだから、それを活用すればいい。そう促しても聞き入れられることはまず無い。
申告し登録するとなれば、自身がフォークだという事実は各方面に把握されることとなる。それは、耐え切れずにケーキへ襲い掛かったフォークにとっては避ける以外の選択肢が無い。
何故ならば既にケーキに対する食人欲求に耐えきれていないのだから。得られるのは支援ではなく手錠になるだろう、と考えるのだ。
そこで矛先はやはりケーキである結加理へ向かう。……だって目の前に居るのだ。都合の良い
存在が。どこの誰にも把握されず、自身への協力を
あおげそうな存在が。
「……ってな感じで、これにお断りを入れると、罵倒が返ってくる事もあるってワケ」
努めて表情を変えずに告げる彼女へと、降谷たちはかける言葉が無かった。
心を落ち着かせるかのように捲った袖をにぎにぎと握るその仕草。どこか頼りなさを感じて降谷は無意識のうちに両手を握り締めていた。
話しぶりから察するに恐らくフォークからそんな言葉を投げつけられたのは一度や二度ではないのだろう。
身体や命を方々から狙われ、時に理不尽に罵倒を受け、──それでよく、フォークだと分かった後も降谷に対して態度が変わらないものだ。
一概にフォークと言うだけで倦厭しても十分おかしくない長年の被害状況。そんな中、降谷をフォークとしてではなく一個人として認識し接せられたのは単純に彼女の精神力が為せたことなのか。
再び疑問と違和感が湧き上がってくる。先程は萩原へ向ける信頼を理由に上げられ納得したが、どうにも腑に落ちない。
そしてふと思い至ってしまった。
(まさか、厳密には違うだろうがストックホルム症候群の状態になりかけているんじゃ……)
──心的外傷後ストレス障害。
(慢性的に特殊な状況に曝され続けた時の合理的判断として、加害者に共感を示し、好意的に接し、生き残るために隙と道を見出す……ありえない事態じゃない)
彼女の抱える記憶と実状を知らぬが故にはじき出された結論だった。むしろこれが他のケーキだった場合、降谷の推測は大正解だっただろう。
しかし大前提として、結加理は前世の記憶や知識などという普通であれば考えもつかないようなモノを抱えている。流石に頭脳明晰な彼であろうと要因に辿り着けるわけもなかった。余程ぶっ飛んだ思考回路にでもならなければ到達できないだろう。
まあ、つまり、この誤認は起こるべくして起きたとも言える。
ぼんやりとした前世の知識で降谷を安心安全な味方認識をしている結加理は、そんな心配をされていることには全く気付けずにいた。
そして残念なことにその微妙な認識の違いに気付く者も居なければ指摘できる者も居るはずが無く、数年後もこの認識が根付いたままになるわけである。
……まあ唯一訂正できる結加理がそれに気付いていないのだから仕方あるまい。
降谷が結加理に向ける視線に、若干気遣わし気な色が混じったことを萩原は察知したが黙認する。当の本人は視線を手元に落としたまま思考に沈んでいた。
(飢えないようにすれば万事解決じゃんね? ……なぁんて最初考えてたけど、この世界のこと全然分かってなかったんだよなぁ。そんな簡単に出来るなら既に確立されてただろうし)
手作りの菓子を持ち歩くようになった当初から比べて結加理の考えも意識も変化してきている。
主に抱く思いは当然「生き延びるため」である事は変わらない。
ただ、最初はもしかするとフォークに対する憐れみの気持ちが一欠けらでも混ざっていたのかもしれない。同情する気持ちを含めて手を差し伸べようとしていたのかもしれない。彼女本人も無自覚のところで。
ハッキリと言えるのは、そんな甘い気持ちを少しでも持つべきではなかった、ということだ。
「まあ、私も完璧な対応が出来ているわけじゃないから、こっちに非が無い、って断言出来ないんだけどね」
だから、こんな言葉が出てきてしまう訳で。この手の話では絶対に意見を譲らない萩原の表情から柔和さを奪うことになる。
「……俺が知ってる限り、先輩が下手な対応取った事は無かったぜ。ってか、自分の都合で襲い掛かってきて、思い通りに従わない相手を罵るなんて……まずそれ自体がおかしいんだからさ。あんま変に真に受けることないって」
「ハハ、そう言って貰えるだけでちょっと楽になるよ、ありがと」
普段の調子を引っ込ませた真剣な表情。とつとつと言い聞かせるように紡がれる言葉。どれも結加理を思うが故だと知っている。
思わず出てしまったカラ笑いは決して馬鹿にしているわけでも煩わしく思っているわけでも無い。──ああ、不快にさせてしまったな、言うべきでは無かったな、という思いが滲み出てしまったのである。
この話になるといつも彼は優し気な表情をどこかへ落っことす。そうした面差しの変化を見るたびに、結加理は萩原に対して些か申し訳なさを感じるのだ。
(俺から言わせりゃ、逆恨み以外の何もんでもないっての)
これまで黙って話を聞き続けていた萩原は内心で悪態を吐いた。主にそんな主張をしているフォークへ向けての。
それでも結加理は自身にも少しばかり非があるのかもしれない、と言うのだ。被害者だというのに。
理不尽に悪意を向けられた被害者が自分に非を見つけようとすることは少なくない。もしかしたら、ああすれば良かったのでは、自分の考えや行動のどこかが良くなかったのではないか、と。
──加害者から一方的に知られている被害者に非がある事例など皆無に等しいだろう。余程特殊な事情が背景にあるならばともかくとして。
若干眉が寄った状態から表情が戻らない萩原に、結加理は軽く腕を組んで苦く笑った。
「アレが筋違いの滅茶苦茶な主張だ、ってのは分かってるよ。大丈夫」
「……いーや、大丈夫って言ってるけど、今のソレは信用できないね」
「ええ?」
「あー、悪ぃ結加理サン。俺も萩に同意だ。今の大丈夫はなぁんか信用出来ねぇ」
「えええ……」
二人共に勘が良すぎるのも考えものだ。嘘は全く言っていないというのに薄っすらと滲む感情に気付くのだから。
ジトッと二対の双眸に見据えられて結加理は頬を引き攣らせる。
「何が気になってんの? いや、引っかかってる、の方か? 最近事件とは別に何かあったんでしょ」
「早いとこゲロった方が楽になるぜ」
「陣平ちゃーん言い方らんぼー」
「この人がそんなん気にするタマかよ」
一瞬彼等の視線が逸れたのをいいことに結加理は立ち上がろうとするが、それも予測済みだったのだろう。腰を浮かせる前にジトリと据わったままの瞳に再度見つめられた。
「「……んで?」」
蛇に睨まれた蛙のように硬直した結加理から目を逸らすことなく、それぞれ頬杖をついて返答を待っている。これは大人しく話すまで引いてくれなさそうだ。
「……、……、……もーやだ萩ちゃんも松田くんも何で気付くかな……ここまでくると怖いんだけど……」
エスパーか、などと頭の隅で呟いて降参の意を示す。頬に続いて口元も引き攣るのを自覚しながら、結加理は苦虫を噛みつぶしたような顔で嘆息した。
引っかかっていることがあるのは事実。しかし、素直に話せずにいる理由もあるのだ。
(これを萩ちゃん達に言うのも、何か、慰めとか否定をもらいたいみたいで嫌なんだけどな……。あと単純に、多分二人とも嫌いそうな内容だろうから、あんまり話したくない……)
躱せない。誤魔化せそうにない。逃げられない。そう思った時点で彼女の負けである。
ううん、と苦渋に満ちた呻き声をあげて暫く。非常に言いたくなさそうな声色を全面に出しながら結加理は口を開いた。
過去に関わったことのあるフォークの放った言葉が、頭からずっと消えないでいる。それが最近になって度々聞こえてくるようになった。
──ケーキは、まるで、依存性の高いクスリのようだ。
この場合のクスリとは一般的に薬理効果のあるもののことではなく、薬物──特に麻薬などの依存性を持つもののことを意味している。人を薬物扱いとは全く失礼極まりない。
頻繁に聞こえてくるわけではないのだが、時折耳に入り込んでくる言葉。そんな言葉がいつまでたっても消えずに囁かれていることもあって、「フォークを狂わせているのはケーキだ」などと言う層が少数とはいえ存在しているのだ。
フォークの中にも、フォークでもケーキでもない人間の中にも。
「……何それ。言った奴、どこのどいつ?」
「気に入らねぇな、責任転嫁した上にヤクだぁ?」
話の大方を聞き終えた萩原と松田は、と言うと。案の定というかなんというか。
結加理の予想通り……いや予想以上に不快感を露わにし、憤慨している。だから言いたくなかったんだよな、と若干遠い目をしてしまうのは見逃してもらいたいものである。
気心知れた三人のやり取りを見守っていた伊達たちもどこか表情が厳しい。
「単純に考えられるのは思い込み。あと、食事中に分泌される幸せホルモンとかで上向きな気分に、ってくらいなんだけど……」
「……本気で言いがかりもいいとこじゃねーかよ」
「ケーキ自体が人体とかホルモンとかに直接関係する何かがあるなんて確認されては無いんだろ?」
「そうだね。でもまあ、長年研究されていても多くが解明されてないから……何とも言えないかな……」
本当に依存性があるのか、ケーキの味を知ったフォークは通常に戻れないのか。そして、ケーキではない人間をフォークに変化させているのか。何もかもが分からないまま。
「今の時点で言えるのは、そんな人たちの主張に対してほとんどが「プラセボ効果」って返答されている。ってことくらいだね」
プラセボ効果、またはプラシーボ効果。
偽薬効果とでも言えば分かりやすいのだろうか。それに近しい現象が起きているのではないかと考えられている。
加えて、セロトニン、オキシトシン、ドーパミン──幸せホルモンと呼ばれ知られている三つ。不安やストレスをやわらげ、感情のコントロールや神経の安定に深く関わっている物質。
普段フォークの中で分泌量が減少、停滞してしまっている可能性は大いにある。味を感じることのできるものを口にした時、それらが分泌されることによって余計に強く感じるということではないか。
これはどこの研究機関でも共通して認識している通説の一つだ。
ちなみに、過剰分泌されると攻撃的になる、というのも一部には知られている事象である。
「ホォー。プラセボ……なるほど」
「ん? 聞いたことはあるんだが……」
「何だっけ?」
納得したように降谷が小さく呟き頷く。
単語は聞いたことがあるのだが、意味までは憶えていなかったらしい伊達が右手を顎に当てた。萩原も松田も何だったかな、と首を傾げている。
「薬や治療の効果の一つだよ。薬の成分を全く含まないものを摂取した時、暗示、思い込みで効果が出る現象だ。良く効いたり、逆に副作用がでたり、ってところかな」
さらっと簡潔に、分かりやすく説明できるのは流石降谷と言ったところか。
「聞いたこと無いか? 粉砂糖を『良く効く薬だ』と言って渡したら何故か症状が改善した、とかいう実験の話」
「ああそれか!」
「本当によく知ってる、というか何でも知ってるね降谷くん」
薬剤や医学興味関心が無ければ詳しくは知らないであろう事柄。研究者の端くれである結加理よりも先に間違うことなくすらすらと説明して見せた。その知識量と簡潔に説明できる言語力に感服せざるを得ない。
「一度気になると、調べないと気が済まなくて」
「あー、それはすごく分かる。……ちょっとお茶淹れてくるね」
若干気恥ずかし気に視線を逸らした降谷に対し全力で同意して、結加理は紅茶を飲み干しマグカップを空にした。キッチンへと一時退避するためである。
話すつもりの無かったことまで話してしまったため少々気持ちが落ち着かなかった。いや、この場合は口を割らされたとも言えるが。
あ、逃げたな。
立ち上がった彼女に対し残された五人がそれぞれの胸中で呟いたのは余談である。
「……、」
マグカップにお湯とティーパックを入れたままぼうっとしている結加理の姿を降谷はただ見つめていた。
襲い来るフォークを退けるため、手作りのお菓子を身代わりにして隙を作るという手段を取ってきた彼女。
今しがた聞いた依存性を主張するフォークの話。
そして松田が言った、危ない橋を渡っている、避けようのない事態をどうにかしようとした結果、という言葉。
それらを拾い上げて組み合わせていくとおのずと見えてくるものがある。
(なるほどな)
野生の動物にエサを与えるな、とはよく聞く言葉だろう。味を覚えれば
再びを求めて近くに出没するようになるのだ。それとよく似ている。
生き延びるためとはいえ、飢えた獣にエサをやっているのとほとんど変わらないのだから。しかも飢えが満たされることがほぼ無い状態の相手。
──だから先程の松田は「いつ行方不明になっても、死体で上がっても可笑しくないと思っている」と言ったのだろう。
降谷は頭の隅で納得した。
■
お湯に落としたティーパックからじわりじわりと滲み出てくる茶色。その様子をぼうっと見ながら、彼女はゆっくりと肺が空になるまで息を吐き出した。瞬き一つの動作すらも緩慢になる。
(……ちょっと、つかれたな……)
話す過程で嫌でも思い出し、脳裏によみがえってくる光景が存在していた。
吊り上がった目、開ききった瞳孔、一目見て異常だと分かる様相。
襲いかかってくるフォークは、いや人間は、結加理から見れば全て同じにしか見えない。そんな異常な様をはじめに見せられて、その後にこやかに接せられたからとしても普通の対応が出来るものか。
結加理の降谷に対しての態度が諸伏たちなど他の面々へのものと変わらない理由は、ここにある。
第一印象と言うのは往々にして重要なものだ。初っ端にケーキが作った味を感じられる料理を否定したフォーク。この事実が降谷を信用するにあたると判断させた。
もし、降谷がフォークとしての欲求に傾いた反応を見せていた場合、結加理は彼に対し身構えずに接することが出来ていたか、自信が全くない。例え前世の記憶を通してぼんやりと一方的に知っていたとしても。
それほど、彼女にとっては大きなことだったのだ。
2023/7/23/
やっと文章書く感覚が戻ってきたような気がする。スロースターターか……?
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