名前を呼んで、声を聞かせて

とある休日、快晴ではあるが特に外出することなく高明は掃除にいそしんでいた。急な呼び出しも多いこともあって、まともに掃除できる時間を中々取れずにいたのだ。
ただ生活しているだけでも埃は生じる。デスクや本棚の埃を払い掃除機をかけている最中、ふと眩しさを感じて一瞬動作を止めた。
僅かに視線を動かせば目に留まるのは写真立て。差し込む陽の光がフレームに反射したのだと察する。高明と紗弥が微笑み合っている写真。そして、その隣。色褪せてしまっている写真におさめられているのは幼き頃の高明と弟の姿。
きっとシャッターが切られた瞬間はカメラを構えた両親のどちらかに笑いかけていたのだろう。高明は僅かに目を細めて小さく息を吐いた。吸い込まれるように歩を進めると手を伸ばす。指先がゆるりと優しく写真の中の弟をなぞった。
高明にとって他者の声というのは一つの情報である。
しかし自身の懐に入れた相手に関しては、情報とはまた別に特別な意味を併せ持っていた。

──高明兄ちゃん!

目を閉じれば耳の奥に蘇る幼い声。高明にとって一等大事な弟が一時的に声を失った過去。そのことが深く影響していることを自覚している。


■


何の前触れもなく、理不尽に、突如として人の悪意が牙を剥いた。
高明の知らぬところで家族が害されたのは高明がまだ中学生の頃。無情にも両親は帰らぬ人となり、弟の景光はショックのあまり軽い記憶喪失になった上、失声症に。多感な時期の凄惨な事件。冷静沈着すぎて子供らしくない、そう言われることが多かった高明だったが、この一件から輪をかけてその傾向が強まった。
心無い部外者が冷徹だ、などと言っているのを耳にしたことはある。だが高明が揺らぐことはなかった。いや正確には、揺らぐことを己に許さなかった、と言うべきか。
一等大切な弟が部分的な記憶と声を失った。一体どれほど強いショックを受け、精神的負荷を負ったのか。想像して有り余る。
ただ高明に出来ることといえば、自身が平静を保ち景光に要らぬ不安を与えないこと。高明が揺らげば敏感に察して、ただでさえ不安定な状態から更に悪化する可能性もあったのだから。

高明と景光、それぞれの受け入れ先については様々な面を考慮する必要があったわけだが、結果から言えば高明は長野、景光は東京の親戚の元へ身を寄せる形に落ち着いた。
大抵の場合、慣れ親しんだ地元を離れるということは幼い身にとって精神的負荷が大きい。しかし今回に限って言えば記憶と声を失う程の事態を思い出す方が酷であると判断されたのだ。
景光を東京へと送り出した日からしばらく、一時期にではあるが、高明は考えている事が反射的に口からこぼれ落ちる感覚が間々あった。いつもならば頭の中で考えを整理し、必要な言葉だけを発する事が常だったと言うのに。
あの時期だけは考えている最中の思考までもがダダ漏れになっていた。口にしなくてもいい事までポロポロこぼれ落ちてしまっていたのだ。
景光と会話が出来ない分、高明の口数が増えていた影響がしばらく残っていたのか。そう思えど違和感が残った。
……本当に大丈夫なのかよ。そう大和に胡乱げな目を向けられたくらいだったのだから、やはりどこか動揺や焦心を取り繕えてはいなかったのだろう。
言いようのない焦燥だけが日々胸の内に積もっていく。──色褪せた現実に、もう一度(ひとたび)色が差し込まれたのは失われていたはずの弟の声を聞いた瞬間だった。
固定電話の受話器越しだったが、高明にはすぐに分かった。弟の声だ。長らく発声していなかったせいか若干喋り方がたどたどしく思えるも、そんなことは些事であった。
その声を久方ぶりに聞けた瞬間、高明の目の奥から熱いものが込み上げてきた感覚を昨日のことのように思い出せる。左手で受話器を持ちながら、右手で両目を覆う。その手の下では瞑目したまま瞼を開けなかった。開けばきっと涙が溢れてしまうと分かっていたから。
ともすれば声が震えそうなるのを抑え込んで景光の話に耳を傾け相槌を打った。まあ、最終的に受話器を置くまでは景光に悟らせること無く意地でも耐え切ったわけだが。

「景光くん、声出るようになったんだってね、良かったねぇ!」
「……はい、本当に、良かったです」

我が事のように喜ぶ親戚に対し、そう返すのがやっと。
ふらふらと宛がわれている自室に戻った高明は深く息を吐き出すと力なく椅子を引いて腰を下ろした。らしくもなくガタリと音が鳴ったのは崩れるように座り込んだからに他ならない。
ぼたぼたと堪えきれなくなった涙が頬を流れ落ちては机や制服を濡らしていく。

(──良かった。景光。本当に。全てが解決したわけでは無いが、それでも本当に、良かった)

事件以降、常に強張っていた肩の力が抜けた。なぜか誰にともなく許されたような気がしたのだ。
明らかに高明のせいなどではない。そもそも両親が殺害された現場に自分が居たとして何が出来たわけでもないだろう。頭では分かっていても、やはり己を責めてしまう。
たら、れば、もし、そんな仮定が頭に浮かんでは消えない。後悔で押しつぶされそうになる。
ずっとそうだった。
ずっと、心のどこかで自分を責めていた。
泣く資格すら自分にはないと思っていた。
それを、もういいのだと、言われたように思ってしまったのだ。弟の声を聞けた瞬間に。勝手に溢れ出てくる涙を、当時の高明はしばらく止めることができなかった。


■


時が経ち、高明はこうして振り返っては思うのだ。自身は平静を保っていたつもりではあったが、やはり通常通りでは居られなかったのだ、と。
そう立ち振る舞う必要があったとはいえ、平然となどしていられるものか。当たり前だ。
故に、諸伏高明は知っている。相手の声を聞けるのは当たり前では無い、という事を。一時的に、永久に、失われることがあるのだと。
最後に弟の声を聞いたのは果たしていつだったか。僅かに唇を引き結ぶ。
とある時期からパッタリと連絡が取れなくなって久しい。一抹の寂しさを覚えるが、便りが無いのは元気な証拠とも言う。例えどこで何をしていようとも息災であればそれでいい。

深く息を吐き出した高明は携帯端末を片手に静かに瞑目する。
時折ふと無性に親しい者の声が聴きたくなる。だが心の底から求める声が職場を共にする者ではない場合も当然ながらあるのだ。
ただただ無性に、弟と紗弥の声が聞きたくなった。


■2024/5/26/(メイン活動サイト更新)
■2024/6/24/(ココ更新)
高明さんにとって、声は基本的に情報の一つだけど、親しい人や大切な人の声はただの情報ではない。……っていう話。特別にもなるだろうなぁ、と。


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