「気になる事、ですか」
長野県警本部捜査一課の一角、自身のデスクにて高明は書類を片手に息を吐いた。話し声にかき消されるかと思いきや、それは存外形を残したまま誰にも拾われることなく床に落ちる。
脳裏を過ぎるのは病院で向野と交わした会話。無意識の内に眉が寄るも恐らく周囲には悟られていない。まあ幼馴染である大和や付き合いの長い上原には見抜かれてしまうだろうが。
──身内相手ならばいざ知らず、一介の警察官が被害者とは言えただの友人に付き添って救急車に同行するなどあまりない話だろう。それも、被害者の同僚がその場に居るという中で。
少なくとも諸伏高明という人物は、現場で行うべき職務を放り出してまで慈善行動を取るような男ではない。
何故高明がそのような
そして、単純に現場の人手が足りていたのだ。これが最大の理由だ。
あの場には大和が、そして同僚がもう一人居た。更には鑑識が到着間近だった事、応援として近場に居た複数人が合流し終えていた事。それらが重なり高明は同行者、付き添いとして到着した救急車に押し込められたわけだ。文字通り背を強く押されて。
『こんだけ人手が足りてんだ。お前ひとり居ても居なくても変わらねぇよ。……それに、見知らぬオッサン共が事情聴きに来るより知り合いが居た方良いだろ、その嬢ちゃんも』
とは大和の言である。
半眼でそうのたまい、素直に現場を離れようとしない高明の尻をげしりと軽く蹴飛ばしたのもまたこの男。
高明が逡巡したのはほんの一瞬だった。
これだけ手が足りていて、更には大和が居るならば自分が現場を離れても事足りるだろう。そう思えるほどには大和の存在は大きい。それだけ認めている事に他ならない。
高明本人はきっと柳眉を顰めて認めようとはしないだろうが。
長らく足を組んだままの体制でいた所為か、血流の滞りを感じ上下を入れ替え組み直した。思考が纏まらないのか、トッ、トッ、と長い指が机の表面を軽く叩いている。
普段は物音を立てることすら滅多にないこともあって、これもまた珍しい光景であった。
睡眠薬および弛緩剤混入事件のあと、高明は向野との距離が少し開いたように感じていた。いや、実際にからの距離感が微妙に変化していた。物理的に。
あからさまに態度に出ていると言うわけではないが、ふとした瞬間にうっすらと壁を感じるのだ。深く踏み入れさせないような空気の強張り。
頻繁に顔を合わせることが出来るわけでは無いとはいえ流石に察するものがある。
(……無理もない)
救急車の中で意識を取り戻した向野は、数分と経たずして再び意識を落とした。
再び目を覚ましたのは病院のベッドの上。高明が彼女から事情を聞けたのは、ちょうど大和から現場の検証は粗方収束したと連絡が入った頃。
一度目の聴取は高明が行ったが、今後向野への聞き取りの必要がある場合、担当するのは上原である。元々の知り合い以外が担当するのならば可能な限り女性警察官であるべきという高明の進言あってのこと。
──高明が何故、わざわざ進言したのか。それは、搬送先の病院で目を覚ました彼女の様子を目の当たりにし、必要性を感じたからに他ならなかった。
遡ること数日前。
大方の処置を終えた向野が一般の病室に移されるまでの間、高明がしていたことと言えば各方面への連絡と報告。
大和からの電話に出つつ、本部には向野の家族へ連絡を入れるよう伝える。このまま入院となる可能性もあった為だ。本人の同意があれば代行者として手続きは可能だが、それにも当然ながら制約がある。
そもそも本人の意識が完全に戻らない以上、基本的に手続きが出来るのは近親者のみ。向野の場合は両親が健在であるため必然的に彼等の連絡を待つこととなった。
まあ、結局は遠方に居るため向野本人が目覚める方が早かったのだが。こればかりは致し方あるまい。
時間外かつ夜間ということもあって必要な場所以外の照明は限りなく落とされている病院内。少しでも歩けば照明が届かない場所に出る。
ともすれば飲み込まれてしまいそうな暗闇を隣に感じながら、高明は自身がその場で出来ることに注力していた。
搬送の際に同行した警察官だからと言って被害者に完全に付き添えるわけでも、医師から詳細な説明を受けられるわけでも無い。本来ならば戸籍上の繋がりがある者以外は個人情報保護の観点から同席すらできないのだから。まあ、情報開示を求めるのであればまた話は変わってくるが。
彼女の意識が戻った。看護師から知らせを受けるまでそう時間はかからなかった。同時に、彼女と会うかどうかという確認も取られる。
僅かな逡巡の後、高明は一つ頷いた。
『……ぅ、ん』
『気が付きましたか?』
『ッ! ……、……も、ろ伏、さん……?』
緩慢に瞬きをする向野はどこかぼんやりとしている。
しかし、高明が声を掛けた瞬間──いや、視界に高明の姿が入り込んだ瞬間に息を呑み、怯えたように身を竦めた。ある種、大和の言った通りだったというわけだ。
僅かに目を細めるだけに留めるも内心は穏やかでは無かった。この反応もある程度は予想の範疇とはいえ、それでも思うことが無いわけでは無い。
『……、はい。私です。何があったのか憶えていますか』
『意識が混濁するまでは、大体。……その後の事はおぼろげにしか……』
『そうですか』
『あ、でも、諸伏さんが間に入ってくれたことは、何となく憶えてます』
『それは』
『ありがとうございました』
力なく若干震えているようにも聞こえる御礼の言葉。ハッと高明が彼女の表情を窺えば、無理やり笑おうとして失敗した、痛々しさを感じる顔がそこにはあった。
あまりにも彼女には似合わない、そして見たくない表情だった。思わず高明の肩が微かに揺れる。
『……すみません、諸伏さん。せっかくご忠告してくださっていたのに』
目を見開いた高明を向野はどう思ったのか。きゅっと唇を引き結んで視線を床に落とした彼女の姿があまりにも頼りなく思えて、胃の当たりにヒヤリとしたものが落ちたように感じたことを昨日の事のように思い出せる。
おそらくは、向野が高明との距離をある程度保とうとしているのは、彼女自身が無意識下での反応について自覚しているからだ。
──視界に入った自身よりも大きな体躯に、肩が強張る。体が委縮する。明らかに異性に対しての恐怖心や警戒心が跳ね上がってしまっているようだった。
たとえ、今回の事件がきっかけで男性に対して恐怖心を抱くようになっていたとしても何ら不思議ではない。
良からぬことを企むような輩と高明を同一視していない事は言葉の端々から、そして非常に申し訳なさそうな態度から伝わってくる。
あの日、確かに助けに入ったのは高明だ。そんな相手に対して怯えを隠し切れない態度を取ってしまう。無意識の反応とはいえ向野としても不本意なのだろう。
頭では分かっていても、理解をしていても、体が勝手に警戒する。それに関しては致し方がないことだ。高明はそう思っている。職業柄、そのような状態に陥った人間を何度も見てきているのだからそれも当然だ。
むしろ向野が高明に対して負の感情を抱いてはいないという、その事実だけでも十分すぎた。申し訳なさを感じているようだが、状況を鑑みればそれすら僥倖のように思える。
故に静観の姿勢を取ることに決めた。待つことにした。
無理に今までの距離感を求めて苦しめるのは本意ではない。目には見えない柔い部分を傷つけられた向野を萎縮させたいわけでもないのだ。
来る者拒まず去る者追わず。程度にもよるが、他者に関する高明の姿勢はこれが基本である。
意見が合わない、価値観が相容れない、そんなことなど往々にして良くあること。何ならどうしようもなく気に入らないということも稀にある。
どれほど言葉を尽くそうと心を向けようと、去る者は去っていく。人の心と言うものは他者の介入など許さないのだからそれも当然である。高明もまた心の中で人知れず見切りをつけることも無くは無い。
しかし、向野に関してはせっかくの縁が途切れてしまうのは非常に惜しく感じていた。
それは彼女が既に高明にとって替えのきかない存在になっていた事に他ならない。
共に過ごした時間は確かに長くない。出会ってから半年も経っていないが、さほど重要ではなかった。それでも簡単に諦められる存在ではなくなっていたのだ。
再度深く息を吐いた高明は、ふと手を止めた。
つらつらと思考を巡らせながらも業務に支障はきたしていない。デスクの上に積み上げられた書類──薬剤混入事件に調査に関する参考資料は高明の手によって整頓されていた。重要性のある物を抜粋していたのだ。
周囲には集中して作業しているようにしか見えていなかっただろう。器用なものである。
やや緩慢な動きで携帯端末を取り出して画面を見るも、特に何の連絡も入ってはいなかった。
■
例の事件及びそれに関する最後の事情聴取から経過して早数日。
その間もメールでのやり取りは相も変わらず続いている。残念ながら向野が他者に対して少し開けるようになった距離感は縮まっていないが。
その文面から高明は向野の近況をそれとなく把握していた。
どうやら上原とは警察官としてではなく一個人として連絡先を交換し合ったようだった。事情聴取以降、余程のことが無い限り関わりは薄くなるだろうと思われたが、偶然にも駅の周辺で顔を合わせたのだという。その時に成り行きで個人的な繋がりを得たのだとか。
相性は悪くないらしい。若干歳は離れているものの良い友人としての関係を築いているようだ。それぞれ違う知識を有していることも、別の視点から物事を見られることも、それを助長させている一因だろう。
そんなことを思い起こしながら廊下を歩いていると、タッタッと軽やかな足音が近づいてくる。次いで知った声が背後から聞こえた。
「あっ、居た居た、やっと見つけましたよ!」
それが上原の声だと認識して高明は振り返る。少し息が弾んでいる様子から察するに随分と高明を探し回っていたようだ。
──余談ではあるが、この頃の上原はまだ職務中においては高明に対しなるべく敬語を使うように努めていた。誰かに何かを言われでもしたのだろう。まあ結局は中途半端な割合になってしまっているが。
「上原さん、どうかされましたか?」
「ええ、ちょっと思い出したことがあって。向野さんの事で確認したいことが……」
「構いませんよ」
「ありがとうございます。……彼女から先日の事件に関すること以外で何か聞いていたりしませんか? 例えば、付きまといだったり、嫌がらせを受けている、とか」
その言葉に高明は軽く目を見張った。
随分と穏やかではない内容だ。無意識の内に表情が強張る。
「何かあったんですか」
「い、いえ! 私が知る限りは何も」
声のトーンが一つ下がった高明からの問いに、上原は慌てて両手と首を横に振った。
「ただ、気になる事を呟いていたような気がしたことを思い出して。向野さんと親しいなら何か知っているかと……」
「気になる事、ですか」
「ええ。はっきり聞こえた訳じゃなかったし、もしかしたら本当に気の所為かもしれないんですけど」
そう前置きをして、上原は口を開く。その眉はハの字を形作っていた。
「最後の聴取の帰り際に、『目に見える被害なら、ちゃんと動いてくれるんだ』って。ちょっと疲れた感じで」
「……ほう」
右手を顎に添えて、高明は思案するようにその双眸を僅かに細めた。
無意識のうちにこぼれ落ちたって感じだったのよね。そう呟いた上原の表情はどこか晴れない。それもそうだろう。向野がこぼしたとされる言葉からは、警察に対してあまり良い印象を持てないで居るようにも伺える。
「きっと彼女が思い浮かべていたのは警察の事。そして言葉の裏を返せば『警察が動かなかった』ことがあった、ってことなのかなとも思ったんです」
「その可能性は否めませんね」
どこか悔しそうな表情の上原を前に、高明は短く首肯する。全くの同意見だった。
結果として上原が向野の言葉を拾い上げはしたが、彼女の性格から考えて誰かに聞かせるつもりは毛頭なかっただろう事は容易に想像がつく。
眼前に立つ上原に気付かれないよう浅く息を吐いて高明は軽く瞑目した。
──なぜだろうか。高明の脳裏には初対面のあの雨の日の光景が浮かんだ。途方に暮れて佇む、消え入りそうな彼女の姿。
(たしか以前、刑事は忙しいものではないのか、と問われたことが……。あの時は気を遣っているものとばかり思っていたが、まさか……)
様々な憶測が脳内を飛び交う。
確かに、如何な警察といえども動けない時がある。
例えば物理的証拠のない嫌がらせ。不審者との遭遇。暴言を吐かれた、後をつけられた、付きまとわれた、等では残念ながら動くにも動けない事の方が多い。どれほど被害者が心に傷を負っていようとも。
住居に立ち入られた、物理的接触があって危害を加えられた、そういった場合は不法侵入や傷害として動くことは出来るが。そうでも無ければ介入する権利がないのだ。
また、対応としても出来ることは限られる。パトロールの強化、被害者側へ防犯面での支援、相手が特定できている場合は警告、または厳重注意。警察が施行する力としては弱い部類。
ある程度の抑止力に成り得るかもしれないが、結局は相手の出方によって左右されてしまう。
警察の目が行き届いていると相手に知らしめることが出来たならば多少なりとも効果は期待できよう。
だがそもそも警告して大人しくするような輩ばかりではない。一時的に大人しく身を潜め、警察の目が無くなった途端に姿を現す輩も居るのだ。更にはバレなければ良いのだと陰湿になる可能性の方が高い。
そして、非常に残念かつ遺憾ではあるが、警察と一言で称せども一枚岩ではない。
高明や上原が知る限りでは県警本部内に被害を軽視するような者はいないように思える。ただそれも表面上を取り繕われている可能性も皆無ではないのだ。認識していないだけで、市民に対して軽くあしらうような態度をとる職員も在籍しているかもしれない。
ましてや、長野県警本部以外の警察署や駐在に関しての全てを把握しているわけでもない。当然だ。
思考を整理しつつ、ゆっくりと瞼を開きながら高明は上原にこう告げた。
「──ありがとうございます上原さん、私の方でもそれとなく伺ってみます」
「分かりました、お願いします。……年上の女性にこんなことを思うのは失礼かもしれないんですけど、向野さん、雰囲気が優しい人だからちょっと心配で」
「……ええ、同感です」
同性の上原から見ても
その人物の人柄が実際はどうであれ、柔和な印象を抱かせる容姿や立ち振る舞いの者に対しては妙に強気に出る輩は少なくない。残念なことに。
言葉を変えるならば、「ナメられる」と表現するのが一番近いだろう。
上原が言葉を濁して向野の身を案じたのも、高明が嘆息と共に同意を示したのも、彼女の醸し出す空気感をその身で感じたからに他ならない。
(面と向かって会うのは……彼女の精神面を考えるともう少し様子を見た方が良さそうですね)
高明は携帯端末を片手に、はたと動きを止める。そう思っているにもかかわらず浮かんできた考えを消すことが出来なかったのだ。
──可能ならば今一度、向野と会って話す機会を設けられはしまいか。もちろん彼女の無理のない範囲で、適切な距離を測りながら、ではあるが。
手段としては当然メールも考えた。しかし文面だけでは、きっと細かな機微を見逃してしまう。
対面であれば得られる情報は多い。余程のことが無い限り感情の機微を取りこぼすことは無いだろう。顔色、表情、息遣い、些細な動作すら高明にとっては非常に有益な情報に成り得るのだから。電話もまた同様。
対して、文面でのやり取りはそうもいかない。
これまでのやり取りから彼女が熟考を重ねて文面をしたためているのは伝わってきていた。書いては消し、が繰り返されているのは容易に想像がつく。彼女によって不要と断じられれば文面には乗らず、本心は隠されてしまうだろう。必要以上に気を遣わせまいと当たり障りのない言葉で誤魔化されてしまう可能性が高い。
書物を好み、文章や文字に触れることが多かった高明だ。自ずと察するものがある。
だから、顔を見たいと思ったのだ。
気を病んではいまいか。食事は、睡眠は、十分にとれているのか。意図的に伏せられては、如何な高明とはいえ読み取れはしない。
(ならば電話が妥当か)
取り出したあと折り畳まれたままの携帯端末をジッと見下ろす。逡巡すること数拍後、小さく嘆息した。
■
──顔を合わせての対話の機会は高明が考えていたよりも早く得られた。
高明が問う前に向野の方から提案があったのだ。報告したいことがあるため会う時間を貰えないか、と。
日時の指定も調整も滞りなく終え、気付けばその日を迎えていた。管轄内で特に大きな事件が発生しなかったのは幸いである。
内線で来客の連絡を受け、高明は玄関口まで足を運んだ。平日ともあって人影は多くない。
ぐるりと見渡せば所在なさげに体を縮こませている向野の姿が視界に飛び込んでくる。どこか憂を帯びた表情と床に落ちた視線。元々姿勢の良い高明の背筋がさらに伸びた。
「向野さん、お待たせ致しました」
ハッと顔を上げた向野の顔色をまず確認して、高明は内心で安堵の溜息を吐いた。化粧によって誤魔化されている可能性も否めないがパッと見た限り至って正常に見える。
「諸伏さん……」
力なく、吐息が落とされるように小さく紡がれた己の名。消え入りそうなそれを高明の耳は確かに拾う。一呼吸を置いて彼女が肩から僅かに力を抜いたように見えたのは目の錯覚では無いだろう。
「お疲れ様です。すみませんお時間を頂いてしまって」
「いえ、私も丁度お会いしたいと考えていた所でしたので、渡りに船でした。お気になさらずに頂きたい」
「ありがとうございます」
今日この場に向野が居るのは彼女の申し出あってのことだった。
高明としては出向いてもらうつもりは全く無かったのだが、押し切られてしまったのである。提案したのは自分だから、と。柔らかな雰囲気を醸し出していようが向野は存外意思が強いのだ。
彼女の職場からそう離れていない事から訪問のハードルはある程度低いのかもしれない。とはいえ、不要な徒労を掛けたような気がして高明の眉が僅かに下がる。
向野としても緊張しているのだろう。それとなく話題を振るも長くは続かない。高明が先導し移動する間も口数は少なかった。
彼女が高明に報告があると告げた時の声色から踏み込んだ内容であることは察している。故に、この日のため先んじて聴取の際に用いる小部屋の使用申請をしていた。彼女が先の被害者というともあって私用と言われることは無かったのは幸いと言えよう。
意図したことでは無かったが、先日も向野が聴取を受ける際に使用した部屋でもある。
「向野さん、申し訳ありません。以前にも私や上原が申し上げた記憶がありますが、防犯の面から扉は開けたままにさせていただきます」
「はい、大丈夫です」
「助かります」
始めの頃こそ向野に首を傾げられはしたものの、今ではそういうものかと何の疑問も抱かず受け入れられている。
この配慮は双方のためでもある。部屋の中が見えない状況、密室状態、これらはあまり好ましくないのだ。警察に相談に来た一般市民、聞き取りに協力する当事者や目撃者、例え誰が相手だろうともこれは変わらない。話しづらい内容だとしても同様である。
万が一どちらかが、暴言を吐かれた、暴力を振るわれた、そう主張した場合を考慮しての事。
結局は、言った、言わない、した、しない、という水掛け論になる。双方の主張を証明する手立てはないのだから。室内にカメラを設置していればまた話は変わってくるだろうが。
よって、相手が誰であろうとも二人きりという状況を作らないようにしているのだ。必ず誰かの目がある状態を保つ。
少なくとも、高明はこれを遵守している。
「飲食厳禁ではありませんので、ペットボトルなどを出していただいても構いませんよ」
「お気遣い、ありがとうございます」
向野が普段から飲み物を持ち歩いていると知っていての言葉だったが、やんわりと微笑まれて終わる。
腰を落ち着けて暫く、向野の視線が僅かに彷徨った。どう切り出そうか迷っているようにも見える。あえて何を言うでもなく高明は彼女の言葉が纏まるのをただ待つ。
やがて、そろりと様子を窺うように視線が向けられたことを察し、それを真正面から受けると高明は表情を和らげゆっくりと頷いた。
思っていたよりも緊張感を覚えていたのだろう。向野は、ほう、と僅かに詰めていた息を吐き出す。
「ご報告したいことがある、と言った件についてなのですけれど……」
そう前置きをして、彼女は神妙な顔で口を開いた。
向野に加害した男性薬剤師に関して、諭旨解雇が適応されたという事を彼女の口から聞く。
──諭旨解雇。
会社側が従業員に退職届や辞表を出すように勧告、一定期間中に提出がなければ懲戒解雇。という懲戒解雇の一歩手前の懲戒処分のことだ。懲戒処分の中では非常に重い部類。
なお、懲戒解雇とは公務員でいう懲戒免職である。
基本的に業務外、私生活上の犯罪行為は懲戒処分の対象にはならないとされている。だが、会社に重大な悪影響を与えるようなことがあれば処分の対象となることもある。まあ、要は会社の判断次第というわけだ。
──これを踏まえると、自然と答えは出るというもの。
今回のケースは会社にとっては非常に外聞が悪い。悪すぎる。
会社の名誉や信用を多大に損なうことに繋がる事件だった。何しろ、よりにもよって薬剤師が薬品を私利私欲のため犯罪行為に用いたのだから。例え業務時間外の出来事であろうとも処分に値すると判断された結果である。
そして、当の向野はというと。
数日は休んだものの、既に業務へと復帰しているのだという。
ただ、同じ店舗の職員は事件当時に同席していた者ばかり。否が応でも思い出してしまうということもあって、勤務店舗の移動願いを提出済み。
一時は退職も考えたようだったが、会社側から言葉を濁されつつ引き留められたようだ。
都心に比べ、地方の薬剤師は中々に人手が少ないらしい。ただでさえ今回の事件をきっかけとして男性薬剤師が一人減る。そこで向野にまで辞められてしまうと会社としては困るというわけだ。
加えて、まだ向野は転職して間もない。事が事なだけに考慮されると思うが、本人としてはあまり転職回数を増やしたくないのだろう。
話が一段落したことによって室内に静けさが舞い戻る。再び沈黙を破ったのは向野だった。
「……今回お会いできたらと言ったのは私ですが、この時間を作ることでご無理をされていませんか?」
「いえ。そのようなことは全くありませんが……何か気になる事でも?」
高明が間髪入れずに否定すれども表情は晴れない。
何かしら負い目を感じているのか、気を遣っているのか、それともまた別の理由があるのか。向野は困ったような笑みを浮かべたままだ。
もしや、ずっと思い悩んでいたのでは。そんな疑問が浮かぶ。
「その、以前諸伏さんは『警察が動くことが無いのが一番』とおっしゃっていましたけど、やっぱり刑事さんはお忙しいイメージが強いので……」
そう告げた向野の視線が僅かに下がる。長い睫毛が小刻みに揺れたのを確かに見止めて高明の眉間が寄った。どうにも引っ掛かりを覚えてならないのだ。
彼女が時折見せる表情。上原が耳にしたという言葉。浮かんだ懸念。先入観がそう思わせているのか、言葉の通りに受け取れない。
普段の高明ならば、広く大らかな視野を持ち柔軟に物事を捉える。意識せずともそれが出来ていたはずだというのに、今この瞬間の視野は若干狭まっていた。残念だがその自覚がある。
(本当に彼女が言う通り、ただのイメージなら徐々にそれを払拭すればいいだけの事。……だがもし、実体験に基づいた認識であるならば、それはあまりにも……)
思わず溜息を吐きそうになるも無理やり飲み込む。
この場で高明がどう考え推測しようとも、結局それはただの想像でしかないのだ。彼女の口から何かを聞いたわけでも無ければ裏付けがあるわけでも無いのだから。それが事実である確証は何もない。
「以前も申し上げましたが、事件などが起きない限りそう忙しくはないんです。本当に、貴女が気にされることはありませんよ」
今の言い方では突き放したように捉えられはしまいか。高明は内心ヒヤリとする。
さりげなく向野の表情を窺えど特に変化は見られない。胸を撫で下ろしつつ、その流れで腕時計に視線を落としハッとした。思っていたよりも時間が過ぎてしまっていたようだ。
「おや、もうこんな時間ですか」
「え? あ、本当。もうお昼になっちゃいますね」
同じように時計を確認した向野が小さく呟く。
思考を逡巡させ、高明は静かに席を立った。あまり急な動作では彼女を驚かせてしまうと思ったが故の配慮。自分の行動で委縮させたいわけでは無いのだから。
「向野さん、貴女さえ良ければ昼食をどこかで、いや、この建物の二階に一般の方にも解放されている喫茶があります。そちらで──」
問いかける途中で高明はその先の言葉を飲み込む。
些細な変化も逃すまいと向野に意識を向けていたからこそすぐに気付いたのだ。纏う空気が、表情が、微かな強張りを帯びたことに。
「──すみません、諸伏さん。ご遠慮させてください」
予想と違わず、向野の口から紡がれたのは辞退の言葉。高明の脳裏には様々な懸念が駆け巡る。
男性に対しての拒否感を高明に対しても拭えずにいるのか。それともまさか、あの事件がきっかけで拒食症などを起こしてしまっているのか。出会い頭、顔色を確認したことは彼女に悟られてはいないはずだ。あの瞬間は至って正常に見えて安堵したものだが、上手く誤魔化されてしまっていたのだろうか。
あのような、彼女にとっての常識を覆すようが起こったのだ。可能性としては十分にあり得た。
知らずの内に高明の眉間にシワが寄る。そんな些細な変化を感じ取ってか彼女の肩に僅かに力が入る。
怯えさせたか。
ハッと我に返った高明は真っ直ぐに向野を見据えると、表情をやわらげ口を開く。発する声は意識して穏やかに紡がれた。
「不躾な質問で申し訳ないのですが……食事はちゃんと取れていますか?」
「……食事、ですか?」
その問いに彼女は、きょとりと目を瞬かせた。
一拍置いて問いかけの意味を理解したのか、徐々に肩から力を抜けていく。高明の顔に浮かぶ色に心配の色が混ざっていると気付いたのだろう。心なしか表情にも明るさが戻ったようにも見えた。
断ったことに言及されるでもなく、心配されるとは思ってもいなかったのかもしれない。
「食事については、大丈夫です。元々ある程度自炊をしているので」
少し困ったように眉を下げた向野がそう言った。
その返答を受け、高明は視線を彼女の顔と指先に走らせる。次いで、ふむ、と小さく頷いた。
確かに嘘は言っていないようだ。顔色、唇、爪の色も悪くない。つまり彼女が今回の提案を断ったのは、食事自体に忌避感を抱いていることからでは無い、と推測できる。
ならば高明の提案を断る理由は。キュッと手を握り締めた向野を前に、高明の思考は留まることなく回り続ける。
高明は内心で歯噛みした。──どう考えても事を急ぎ過ぎた。
ここで踏み込むのは、どうにも危うい気がしてならない。下手をすれば彼女からの信頼も失ってしまう予感があった。
「先の事件の他に、何か困っていることや気になっていることはありませんか」
「……いえ、特には」
返答に至るまでの、ほんの僅かな間。それに気付かないわけがない。
彼女の中で、相談するまでもない、と断じられた何かが恐らく存在している。
「些細な事でも構いません、いつでもご連絡ください。私は──」
そう言葉を連ねるも、珍しく咄嗟の言葉が出てこなかった。何かを言おうと口を開けども結局は言葉にはならずに高明は閉口する。音になり損ねた空気の塊が喉の奥に飲み込まれた。
そんな高明の言葉を最後まで待たずして、やんわりと微笑んだ向野は小さく頭を下げる。
「お気遣い恐れ入ります。真面目な方ですものね、諸伏さん」
顔に浮かんだままの困ったような笑み。今日彼女と会ってからずっと気になっていた表情。常に薄らと影が落ちているような危うさを感じて高明は心の奥がざわついた。
そも、義務感から向野と連絡を取り合っているのだと思われているのだろうか。全く以て心外である。
「……向野さん。私は、貴女の不安を、取りこぼしたくなどないんです。一人の友人として」
高明の言葉に、じわりじわりと向野の双眸が見開かれていく。
友人として。そうわざわざ告げたのはある種の防衛線だ。
メールでのやり取りを続けて約三カ月余り。連絡先を交換してからはプライベートでの接触はメールのやり取りがほとんど。その間に直接会ったのは事件関係を含めなければたったの二度。
そんな相手から深く身を案じる言葉を向けられて、彼女はどう感じるのか。互いに人としての好意を抱いていたからと言って、向けられる深い感情を喜ぶ者ばかりではない。
高明が彼女へと向ける憂慮が負担にならなければ良いのだが。そんな危惧を抱きつつ、再度口を開く。
「いつでも、どんなことでも、私はご連絡をお待ちしています」
「ありがとう、ございます」
それでもやはり、彼女の表情に薄らと落ちる影が消えることは無かった。
サラッと触れて終わるつもりだったのに、長くなったので分割。
高明さんが一番思っていることは何だろうな、と考えながら書いた話。きっと「不安を取りこぼしたくない」が一番強いだろうな、と。