「是非、詳しく聞かせてください」
いつでも相談を。連絡を。
そう伝えはしたものの、向野から緊急性があると思われる連絡が入ることは無かった。高明と向野の間で交わされるメールの内容は他愛のないものばかり。
観察眼や一刑事としての直感、高明は己のそれが人並より優れている自負がある。
これは決して自惚れや自信過剰という訳ではない。客観視してなお覆されることのない純然たる事実。軽視しているわけでは無いのだが、それを差し引いても不穏が滲まない日々が続いていた。
高明が微かに感じ取った違和も、上原の懸念も、杞憂だったのだろうか。そんな考えが頭の隅に浮かびかける程には。
日々が過ぎていく中、たった一人に時間を割き続けることは不可能に近い。
何しろ犯罪者は待ってくれない。大なり小なりどこかで事件は発生する。稀に、勘違いによる誤報もあるが圧倒的に比率は低い。
必然的に連絡の頻度は薬剤混入事件が起こる前と変わらないまでに下がっていった。致し方が無い事であろう。向野の様子も特に変化は見受けられない。先日の気を張り詰めていた様子から比べれば、差し当って何かしらの問題を抱えているようには見えなかった。
──しかして、異変というものは唐突に前触れもなく訪れた。
気温と湿度が上昇し、蒸し暑さが襲い掛かってくる。そんなとある日の事である。
肌と衣類のべた付きに若干の不快感を覚えながら所用を済ませ、本部へと戻る道すがら。稜線が橙を帯び、夜の訪れが感じられ始めた頃。
ヴヴッと高明の内ポケットで僅かな振動が生じる。携帯端末が一瞬だけ震えたのだ。メールの受信を知らせるも、持ち主が気づく様子はない。それもそのはず。高明は車を運転している最中だったのだ。
通知のランプがチカチカと点滅しているがそれも懐の中とあっては見えるはずもない。昼から夜に転じる頃合いや夜間にかけての運転は、雨の日とはまた違った意味で非常に気を遣うのだ。
結局、高明が受信していたメールに気付いたのは、じわりじわりと夕焼けの残り火が消え始めた頃。県庁舎の駐車場に車を停めて一息吐いた後の事だった。
携帯端末の液晶画面に浮かぶ彼女の名前。メールの受信を知らせる項目を選択すれば全文が表示される。
ビジネスメールのような文頭をサラリと流し読みし、本題へと目を滑らせる。
どうしても今、読まなければいけない気がしたのだ。
【もし可能でしたら、少しで良いので、お時間を貰うことは出来ますか? 大したことでは無いと思うのですが、相談したいことがあるんです】
そこには普段ならば必ず添えてあるはずの言葉が見当たらなかった。向野から始まるメールでは決まって気遣いや労りの言葉が文末に綴られているのが常だったというのに。それが、無い。
ほんの少しの違和感。高明はそれを無視できず、すぐさま返信を打ちはじめる。が、その手もすぐに止まった。
(むしろこれはメールよりも電話を……いや、念には念を入れてどちらもしておくべきか)
そう判断するや否や、簡潔に文面をしたためメールを送信する。当然ながらそれに対し瞬時に返信があるわけではない。向野の都合もあるのだから。
しかしどうしたことか、妙に気持ちが落ち着かなかった。
駐車場から正面玄関へと向かう中、その移動時間すら惜しんで高明は携帯端末を操作する。逡巡したのはほんの一瞬。その親指は発信ボタンを押した。
電話に出ることが出来ないのであれば、それはそれで構わない。着信ないし留守番電話にメッセージを残しておけばいい。そんな思いで。
耳元でコール音が三回鳴る間にも、高明は足早に玄関を通り過ぎる。四回、五回と待ってみるも応答の気配はなさそうだ。留守番電話に切り替わる様子も無い。
そう判断し一度切ろうとした──その瞬間。ブツッ、と。どこか耳障りな音と共にコール音が途絶えた。思わずハタリと立ち止まる。
(……切られて、しまいましたか)
ツー、ツー、と無機質な音を立てる携帯端末を見つめて高明は沈黙した。
何故。そう考えたのは一瞬だ。ぐるぐると様々な推測が脳裏を駆け巡る。
仕事中により出られない、もしくは公共交通機関を利用している最中だと、普段ならばそう考えた。しかし、そう考えられないだけの要素があまりにも多すぎた。
何しろ直前に見たメールの内容が内容だ。感じた違和が胸をざわつかせる。彼女が緊迫した状況に陥っている可能性が否めない。
自然と表情が険しいものになる中、高明の携帯端末は一通のメールを受信する。──向野からだった。
【切ってしまって申し訳ありません、操作を間違えてしまいました】
同時に、ポーンとエレベーターが降りてきたことを知らせる音が鳴る。ハッと顔を上げて乗り込み、返信画面を開いた。
仮に、今しがたのメールに綴られている言葉通りだったとして。それがただのうっかりであるならば良いのだが、何かしらの原因が別に存在していないとも限らない。
悲観的で後ろ向きな考え。そう揶揄されることもあるが、高明の思考は常に事実に基づく分析を行う。基本的に楽観的な思考を好まない。希望的観測もまた同様。
可能性が消えない限りは小さな事象であろうと頭の隅に留め置いておくのだ。視野を狭めずに物事を捉えることを心がけている。
最悪の事態をも予測し、最善の一手を考えるために。
──取り返しのつかないことが起きてからでは、全てが遅いのだから。
【お忙しいところ申し訳ありません。今電話が難しいようでしたらまた改めます】
そう送信して、高明はエレベーターから降りた。
足早に部署へと戻るなり所用の報告を簡潔に済ませる。特筆すべき点が無かったことが幸いしてか、自分のデスクへと数分と経たずに戻れていた。
向野からの返信を待つ間、人差し指が携帯端末の側面をタッタッと軽く叩く。時間をそう置かずして携帯端末が再度ヴヴッと震えた。
【今でしたら大丈夫です。構いません】
その文字を確かめた瞬間、高明の指は通話のボタンを躊躇いなく押した。
「もしもし、向野さん。諸伏です。先程はメールを拝見してお電話させてもらいました。どうかなさいましたか?」
電話の向こうにそう問いかける高明の声が耳に入ったのか、上原がハッと顔を上げたのが視界の隅に映る。
『お疲れ様です、諸伏さん。……えっ、と』
「ゆっくりで、構いません」
電話越しで言いよどむ向野を急かすことなく、高明は言葉を待った。
向野が被害者として関わった事件──薬剤混入事件に関係する何かが起こっていなければ良いのだが。そんな思いを抱きながら。
実のところ、その後も薬剤による被害の発生が複数件確認されていたが、解決に向かうどころか混迷を極めていた。流通ルートと大本が絞り切れずにいるのだ。
『あの、お仕事中ではありませんでしたか?』
「ええ。お気になさらないでください」
県警本部に居るには居るが、実は既に終業の時刻は過ぎている。
高明がこの時刻まで外に出ていたのは必要に駆られていたからであって、本来ならば退勤していても良い時刻なのだ。
『……実は、気味が悪いなと、思ったことがありまして』
「気味が悪い事、ですか」
『はい。誰か、信頼できる方の意見が聞きたいと思って。……それで、頭に浮かんだのが貴方だったので、少し迷ったのですが連絡をさせてもらいました』
動揺が隠しきれていない喋り方だ。
所々の発音がたどたどしく、いつものような流暢さが欠片も無い。──抱いていた嫌な予感の度合いが増した。
彼女からのメールが届いた時から胸がざわついて仕方がなかったのだ。その直感が間違っていなかったのだと、数分前の己が下した選択を内心で密に自賛する。微かな違和感を見逃さずメールで留めずに良かった。
「貴女が一番に思い浮かべてくれたのが私であるとの事、恐縮です。信頼に足るという、その得難い評価に恥じぬよう尽力したく思います。……是非、詳しく聞かせてください」
これまでの積み重ねが形を成した。
高明の行動、言動によって向野からの信頼を勝ち得ることが出来たというのならば。いつでも連絡を待っている、そう伝えたことが活きているのならば。それが彼女に降りかかる火の粉を振り払うことに繋がるのならば。これ以上の誉は無い。
一警察官、そして一人の人間として。
信頼を得られるというのは、そう簡単なことでは無いのだから。
高明の耳元で、微かに息を呑む音が聞こえる。今しがたの言葉など予想だにしていなかったのだろう。次いで発せられた向野の声がどこか掠れているように聞こえたのは、恐らく気のせいではない。
『その、手紙が、届きまして』
「手紙ですか」
『……はい』
「差し支えなければ、どのような内容のものかを教えて頂いても構いませんか?」
たかが手紙。そう思われるやもしれないと向野は考えたに違いない。高明は頭の隅でそう呟いた。右手を顎に添え、眉を顰める。
『転職して間もない事と……応援している、という内容が。四枚ほど封筒に』
「四枚というのは、中々の枚数ですね。送り主に心当たりは」
『ありません』
それもそうだ。心当たりがあればそもそも高明に相談など持ち掛けることはなかったはず。
もう少し何かしらの情報が欲しい。それとなく促すことで更に内容を聞いた高明は、電話越しの向野に聴こえないよう注意を払って深く息を吐いた。
これは、気味悪がるのもやむなし。
そして同時に、薬剤混入事件との関係性は薄そうだと判断する。しかし完全に無関係だとは言い切れないため頭の片隅に留めておくことにした。
『今の住所を知ってるのは両親だけです。弟とはメールだけで荷物のやり取りなんてありません。……あ、会社にも申告してますが、それだけの筈です。だから、他に誰かから手紙が送られてくる何てこと、無いはずなんですけど……』
「なるほど」
トットッと高明の指先がデスクを叩く。
(これは、予想していたよりも事態は良くないかもしれませんね)
たとえ送り主が抱いている感情が悪意、好意、どちらであるにせよ、高明が抱く懸念は変わらない。
手紙が届いたと言う事は住所知られていると言うことだ。即ち、相手が来ようと思えば、いつでも向野のアパートに押し掛けることが出来るという事とほぼ同義。
幸か不幸か彼女はまだそのことに思いに至ってないようだ。警戒をしなければならないと言う面においては、今すぐにでも知らせたい。気づいてもらいたい。そんな思いはあれど、無闇矢鱈に不安を煽るような真似をしたくない、という気持ちがあるのもまた事実。
何せ先日の薬剤混入事件から期間はさほど経っていないのだ。必要以上に心労を与えたくは無かった。
「向野さんのお住まい付近で不審な人物を見かけたりはしてませんか?」
『はい。大丈夫だと思います』
「そうですか。ここ数日を過ごされていた間、何か気になることは?」
『今のところは、この手紙以外は何も無いかと……』
高明の思考は絶え間なく動いている。次いで口からこぼれ落ちたのは彼女の安否を気に掛ける言葉。
そして──
「……承知しました。既にされていると思いますが、戸締りをしっかりとされてください。それと、今から貴女の元を尋ねても構わないでしょうか」
という問いだった。
高明は己の発した声がどこか強張りを帯びていることを自覚する。その硬い声色に気付いたのだろう。若干の戸惑いを隠せないでいる彼女の声を端末越しに聴きながら、頭の隅で様々な可能性を上げては必要な策を練っていく。この時点で既に自由な方の手を動かしてデスクの上を片付け始めていた。
そう、ずっと、嫌な予感がしているのだ。メールを見た時からずっと。
ただの思い過ごしであれば良い。ただの考えすぎであれば良い。
しかし、時に想像もつかないようなことが起こる。想像するよりも遥かに凄惨で、絶望のどん底に突き落とされるような出来事が起きてしまうこともある。
それを高明は誰よりも知っていた。
『……諸伏さん?』
「貴女から許しを得られるのならば、今すぐに向かいます」
『え、あ、分、かりました』
向野からの承諾を半ば無理矢理もぎ取って、高明は足早にその場を後にする。彼女の方も只ならぬ様子を察したのだろうか。端末越しに聞こえる声がか細い。
何かあれば直ぐに電話するよう伝えて、高明は一度通話を終わらせた。
この場には報告の為だけに戻ってきたようなものだった。荷物は広げていない。故にすぐさま出立できる。僥倖だった。
チラチラと周囲から視線を感じはしたが、特に詳細を伝えることなく帰宅の旨だけを告げる。物言いたげな上原には若干の申し訳なさを覚えるも最優先は変わらない。向野の元へ行くとだけ簡潔に伝えて足早に県警を後にした。
高明は車を迷いなく最短ルートに走らせる。先の事件における関わりの中で、彼女が借りているアパートが何処にあるのかを知っていたのだ。
捜査資料に記載された情報から知ったわけではない。向野自身から直接教えられていたのだ。
(夜分に一人暮らしの女性の元を訪れるというのは、あまり褒められた行為ではない。……だが後顧の憂いは断つべきだ。間違いなく)
様子を見守るに留めてしまった。そのことが後悔として高明に圧し掛かる。
向野はよほどのことでは無い限り人を頼ろうとしないことを知っていたというのに。彼女ならば上手く見極められるだろう。判断を誤るとは思えない。そんな考えがあってのこととはいえ、あまりにも浅慮だったのだ。
結局は後手に回ってしまい今の事態につながっている。これは完全に高明の手落ちである。
(恐らくは、彼女が私に何らかを相談しようと考えたのはこれが初めてではない筈。……無視できない事が起きてしまったが故に今回の連絡に至った、といった所でしょうか。綿密に連絡を取り合っていなかったとはいえ自分が不甲斐ない)
彼女も馬鹿では無い。むしろあの事件の後は以前よりも警戒心は増している。
自身の考えすぎかもしれない、被害妄想が過ぎるのかもしれない。そんな考えが頭の隅のどこかにあったとしても、こうして相談するに至った。そのこと自体がある意味で異常事態に繋がるものだと高明は感じていたのだ。
車を走らせる最中、高明の脳裏にふとした疑問が鎌首をもたげた。
最近知り合ったばかりではあるが向野は同性の警察官である上原の連絡先を知っている。最近では、日々の防犯面において上原から助言を受けているらしいのだ。この件については向野と上原の両方から聞き及んでいる。
同性でなければ相談しにくいことも当然あるはずだ。そして同性の上原だから気付けることもまた、多いはず。性差による気付きというのは軽視できる物ではない。
いかな頭脳明晰かつ知識量が豊富である高明といえども、細かな面においては見逃してしまう可能性は否めない。几帳面で繊細に見えようと、存外高明は大雑把な面も持ち合わせている。
何事も適材適所。そんな考えがあるからこそ高明は向野が上原と友好的な関係を築いていると知った時、多少なりとも安堵したのだ。
だというのに、わざわざ高明へと相談を持ち掛けるメールを送ってきた意味。
単純に接する機会が多かった高明へと寄せる信頼が勝っているだけならば良い。だが、それだけではない場合。──そう考えて高明は無意識の内に詰めていた息を吐き出す。
例えば、例えば、例えば。仮定を挙げだせばきりがない。
ともすればアクセルを踏む足に余計な力を入れてしまうのを自制しながら、目的地まで車を走らせるのだった。
前回分で分割したのにまた分割することになるとは思わなかった。
今度こそ次で一区切りです。