「それ以上彼女に触れないでいただきたい」
高明の中にある彼女の姿は必ずと言っていいほど清潔感のある白を纏っている。仕事着である白衣もそうだが、白い花が良く似合っていたのが印象的だったのだ。
初めて食事を共にしたレストランでそれぞれのテーブルには花が活けられ一輪挿しの花瓶がさりげなく場を飾っていた。高明たちの席に飾られていたのは白いガーベラ。ただそれだけ。
単なる偶然ではあるのだが、まるで彼女のために用意されていたかのように自然と馴染んでいた。
短い時間の中で知れたのは彼女のごく一部。
高明よりも三歳下であること、転職で長野に来たのだという事を打ち明けてくれた。あの雨の日は引越し直前で業者との兼ね合いもあってホテルに一泊する予定だったらしい。
異性慣れしていないのか、時折彼女の肩に力が入ることもあったが徐々にそれも落ち着いていった。
そして、他愛もない内容にまで会話が広がる。和食と洋食ならどちらかと言えば和食派。漫画は読むが小説はあまり進んで読むことは少ない。話の節々から弟が居ることを知って妙に親近感が沸く。
尋ねた分と同じだけ高明も自身の事について開示していく。それはもちろん問い返された場合に限ったが。
談笑を交えながらの食事を終え、その別れ際にちゃっかり個人の連絡先も入手したというのは言うまでもないだろう。
食事を共にしたことで距離は縮まったように思えたが、連絡の頻度はそう高くない。互いに社会人なのだ。忙しいことは分かっている。その為どちらも気を遣い、控えめになるのは自然なことだった。
とはいえメールの文量はそれなりに多い。一言一言大事に言葉を選び、熟考を重ねて綴られたそれは、まるで一通の手紙のようだった。一度の返信に時間がかかる理由の一つでもある。
じっくりと穏やかに緩やかに、しかし着実に仲は深まっていく。高明も向野もそれぞれ連絡が入っていれば顔を綻ばせるのだから、互いに良い感情が育まれているのは一目瞭然。
なお、ふと画面を覗き込みやり取りを盗み見てしまった同僚に「業務連絡か?」などと言われる出来事は双方共に何度か経験済みである。
閑話休題。
そうして高明はふとした瞬間に向野のことを思い出すようになっていた。
この辺りの地理に疎いという彼女に一体何を伝えることが出来るだろう。そう考えたことは一度や二度ではない。お勧めの飲食店を聞かれていたこともあって、脳内で店を幾つかピックアップすることも密かに楽しみになっていた。──あの店ならば彼女も満足してくれるだろうか、気に入るだろうか。メニューや雰囲気が好みと合致しそうだ。
いつしか、高明の日常に彼女の姿が当たり前のように紛れるようになっていた。知り合ってから数カ月と経っていないというのに、まるで昔からの知り合いであるかのような不思議な感覚。傍に居て落ち着くのだ。気の遣い所や思考が似ている。そう気づくのに時間はかからなかった。
深く息をつけるような、自然と肩の力を抜けるような、それを許されるような空気感。向野と過ごす時間が増えれば増えるほど高明が抱くのはその感覚ばかり。彼女からの話ならば、そこに深い意味など無くともどんな話でも聞きたいと思う。そして同時に高明も意味など持たないことでも話せてしまう。本当にずっと、何でもないようなことでも話していられるのだ。
長くなりそうな話を受け入れ微笑みながら目を輝かせて続きを促してくれるのがきっと一因だろう。高明は向野とメッセージや会話を重ねるのが一等好きな時間になりつつあった。
そんな二人の距離が急速に縮まったのは、皮肉にも高明が警察官としての職務に当たっている時のこと。彼女を被害者として保護した事がきっかけだった。
■
その頃の長野県警を悩ませていた事件を簡潔に記すならば、薬。この一文字に尽きた。
主にアルコールの場で薬を混入された被害者が病院に搬送される事件が複数件確認されていたのだ。警察側が確認できている件数だけでも既に片手では収まり切れていない。搬送に至らなかった軽症のケースもあると考えると実際の被害は恐らく想像よりもはるかに多いはず。そう見立てたのは何も高明だけではない。
稀に検出されるのは質の悪い睡眠薬や弛緩剤。身体に残りにくいのか成分がほとんど検出されないケースが相次ぎ、捜査が思うように進まずにいた。
どんなルートで出回っているのかは調査中。確認されている被害者の年齢、性別、職種、交友関係、全てに共通点が見出せない、無差別にも思える被害状況に苦い顔をチラつかせたのは一人や二人ではなかった。若い女性の比率が高い傾向があるが、それも決定打に欠け、特定には至らずに終わる。
まだ死者が出ているわけではない。しかし一時的に昏睡状態に陥るケースが少なからず発生している。このままでは犠牲者が出るのも時間の問題のようにも思えた。
よって、傷害、性犯罪、そして殺人未遂事件として取り扱われることとなった、という訳である。
薬が深く関与しているということで高明の脳裏には向野の姿が思い浮かんだ。薬剤師とあらば薬を取り扱う専門家。
薬局によって門前のクリニックや病院に合わせて取り扱う医薬品に差があることは既に聞き及んでいる。彼女が今まで取り扱ってきた医薬品とは全く傾向が異なるかもしれない。だが、人体に及ぼす影響などについて一度意見を聞いてみたいと思ったのだ。薬については一通りしっかりと学び国家資格まで取っているのだから。
高明が時間を作り、彼女に合わせる形で良い。どうにか近いうちに会う機会を得られないか。そう考えてからの行動は早かった。すらりとした高明の指先が携帯端末の文字盤を迷いなく押していく。
(可能ならば直接お会いしたい所ではあるが……それは恐らく難しいでしょう。今週中にタイムラグなしにメールが出来る時間を貰えたら僥倖といったところだろうか)
向野の予定を尋ねると同時に伝えたのは、薬学の知識を借りたいという旨。注意喚起も兼ねて確認されている事件の概要も軽く文末に添えた。とはいえ、守秘義務もあって詳細には話せたわけでは無いが。
そう時間を置かずして返ってきたのは快諾。そして更に得られたのは、急を要するのならば電話でも構わない、という言葉だった。
今すぐに彼女の助言を必要しているという訳では無い。その手の専門家は県警本部にも当然ながら所属しているのだから。
しかし、彼女からの申し出に高明の心は一瞬ぐらついた。向野と直接顔を合わせたのは昼食を共にした日を除けばたったの二度。交流はメールが殆どである。会って話をするどころかすれ違うことすらしていない。そんな彼女の声を久々に聞けるのかと思い到った途端、特別に緊急ではなくとも許される気がしてしまったのだ。
──交際をしているわけでもない相手に何を思っているのか。
小さく頭を振って高明は携帯端末を折り畳んだ。深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
確かに効率を考えるならばメールよりも通話だ。文面を打つよりも会話する方が早い。
深く息を吐き出した後、高明の指は通話ボタンを押していた。効率の方を取ることにしたのだ。何もこれは私利私欲の為ではない。
「もしもし向野さん、諸伏です。お疲れ様です。お時間を頂戴出来てありがたい限り。時間も時間ですし、なるべく手短に済ませますので……よろしくお願いいたします」
「お疲れ様です、諸伏さん。お声がけくださって光栄です。むしろ薬剤師としてはまだまだ未熟な身ですので、逆に申し訳ないと言いますか……。僅かばかりではありますがお力添えできればと思います。こちらの方こそよろしくお願いいたします」
分かる範囲での答えになる、という前置きの元で高明の疑問に向野が答えていく。
ある程度まで高明の知識欲が満たされれば次第に話の質が変わり始めた。最終的にそれぞれの直近にあった出来事の話題にまで発展し、通話時間が伸びてしまったというのは言うまでもないだろう。
体感としては十数分程度だというのに画面に表示されたのは随分と長い時間の通話記録。ツー、ツー、と無機質な音が微かに聞こえる自身の端末を手に、二人がそれぞれ画面を見つめてしばらく動かずにいたというのは全くの余談である。
忙しいながらも有意義な時間を得られた。双方が胸にあたたかなものを抱きながら、通話したことで得られた充足感に浸る。それを糧に日々の職務に励んでいけそうな心地。疲労感がどこか抜けて心なしか方が軽くなった気すらした。
──事態が動いたのはそんな矢先の事。ちょうど高明が同僚たちと共に、巡回と情報収集も兼ねて夜の街にその足で向かった時のことである。
情報収集のため、高明を含めた三人は仕事帰りの体を装って一度被害者が出ている店に足を運んだ。今回共に行動しているのは大和、同僚の刑事が一人。
余談ではあるが高明たちとは別に一グループが私服で街中を巡り聞き込みを行っている。
確認されている被害状況からある程度まで範囲の絞り込みを終えている。目星をつけている人物も居ないわけでは無い。通常ならば体内から検出されるはずがないものが確認され、被害者当人も全く心当たりがない。……と来ればどう足掻いても他に薬を混入させた犯人がいると言うことになる。
高明たちが目をつけたのは被害者の周辺の人物、そして、被害が出てしまった店そのものだった。
──厄介な薬を水面下で流している者と何らかの繋がりがあるのか。そう疑っているのだ。
(そういえば、確か今日は……)
店内に足を踏み入れる直前になって、高明はふと向野との通話を思い出した。
あたたかな心地で終えた筈だったのだが、しばらく気に掛かっていることが一点だけある。直近の出来事についての話題が上がった時、声色がどこか憂いを帯びたのだ。携帯端末という機械越しにもかかわらず察せるほどに。
まあ、これはただ高明が相手の機微を見逃すまいと耳をそばだてていた事も一因だろうが。
携帯端末越しに聞く、機械を通したどこかざらついた音。そこにどことなく浮かない色が混じっていることに気付いてしまったのだ。
気がそぞろという訳ではないのだが、気分が沈んでいるように感じて問いかけた。返ってきたのは、歓迎会も兼ねた食事の場が数日後に設けられているということ。歓迎会とは名ばかりの飲み会であるということ。それが少々憂鬱だということ。
彼女の話から推測するに入社後から既に三ヶ月近くが経過している。何故そんな中途半端な時期に。高明は疑問に思うも答えはあっさりと返ってきた。
第一は上司の都合。第二は転職直後では落ち着かないだろうから、と少し時期をずらされたのだという。さっさと店舗のやり方に慣れて戦力になれ。そんな意図もあるだろう、と向野はゲンナリしていたが。
そうして話している間も、何か懸念している事でもあるのか向野の声色は一向に晴れなかった。それが高明の頭の片隅に残り続けている。
『……諸伏さんはこのお店を知っていますか?』
若干の躊躇いの後、向野は高明に小さく問いを投げかけた。事前に知らされている歓迎会を行う店名と所在地。どこか不安そうでか細い声をどうしてか聞いていられず、高明は自分の知る限りの情報を伝えた記憶がある。
比較的質の良い居酒屋。価格は少しお高め。非常に清潔感が徹底されていることもあって女性も入りやすいのだ、と別部署の婦警が話していたのを聞いたことがある。
一般的に見ればそう評価されている店だった。
ただ、それでも高明は手放しで良い店だと言えない事情があった。それは一警察官の目から見て、と言う意味で。
──高明たちが今から足を踏み入れようとしているのは、まさにその店だったのだ。つまりはそう言う事である。既に薬による被害者が出てしまっている店の一つ。
決して意図していたわけではないが日時も場所も彼女から聞いていたものと合致する。予定の変更がなければ向野もこの店にいる筈だった。若干の気まずさを覚えて高明の口端が僅かに下がった。しかしある意味では好都合だと思い直す。
通話から数日後、既に被害が出てしまった店を見回りの対象とすると決定された時、高明の頭の隅に彼女の姿が浮かんだ。なんと言うタイミングで彼女の職場はその店を選出してしまったのだ。
一瞬、もう一度それとなく注意喚起のメールを送ろうかと考えたくらいだ。だが、現時点ではただの調査対象となっているだけ。何より一般人に伝えても差し支えない情報は限られるため中途半端になってしまう。不安をいたずらに煽るのは好ましく無い。
そして、職場の食事会兼飲み会というイベントに、ただの知り合いと言うだけのある高明が口を挟めるわけがない。故に可能な限り気にかけるだけに留めておくことにしたのだ。
──その懸念がまさか現実のものとなろうとは、思いたくもなかった。
店内に足を踏み入れ、大和が店員に人数を告げる合間に高明ともう一人はさりげなく店内に目を走らせた。
不審な動きをしている者や身体の不調を見せている者が居ないか。特に気絶するように意識を落としそうな者はいないか。意識を周囲に向け、そして──
「あれ、寝ちゃった〜?」
「やだもう、そんなに飲んでるようには見えなかったけど……お酒弱かったの?」
ふと、高明の耳に飛び込んできた声。どうにもそれが妙に気になって仕方がない。
状況が状況なせいか過敏になっているのだろうとも思いつつ、声が聞こえた方向を探りながら視線を巡らせる。こんな短期間で再び被害者が出ていなければ良いのだが。
内心で呟きながら、心を落ち着かせようと一度深く息を吐く。
今の一瞬、何故か背筋に悪寒が走ったのだ。アルコールを取り扱う飲食店、特に居酒屋などでは珍しくもない内容だというのに。聞き流してはいけないと感じたのだ。
理由は全くわからない。ただ、何かしらの理由をつけるとするならば、一刑事としての勘と言うものが働いたのかもしれない。この時の高明はそう思った。
「ちょっと向野さぁん? だいじょーぶですかぁ?」
だから、耳に滑り込んできた誰かに対する呼びかけに顔を強張らせ、耳を疑う。男性の間延びした口調によって妙に煽られる不快感。
呼びかけられている人物の名が高明の知るものであると把握した瞬間、ハッと目を見開いた。意識は完全にそちらに向けられる。
──向野、とは、彼女のことではないのか。
人違いなら良い。同じ苗字であるだけと言う可能性だってある。だが、もしも、高明の知る彼女であるならば。
忙しなく視線を動かし店内を見渡す。声が聞こえてきた方向を見るも、良くある居酒屋の光景が広がっているだけ。客層もあって目を背けるほど品の無い行動をしている者は居ないが、誰もがアルコールが入っている事もあり声も動作も大きい。
そんな中、入り口近くに立ったままの高明の目から座敷の光景が見えたのは幸運と言う他なかった。
高明からは後ろ姿しか見えないが、机に突っ伏している女性の髪留め、髪の長さ、肩幅、などの特徴が向野と一致する。
久々に見る彼女の姿がそこにあった。高明が全く望まない形で。
まさか向野がアルコールの過剰摂取で酔い潰れているなどとは欠片も思っていない。彼女の性格からして自制心も己の限界も把握していないわけがない。……つまり、何か良からぬことが起きていると考えた方が自然だった。
高明は隣に立つ同僚の刑事と大和に声をかけようと口を開く。彼女の体調も気がかりだが、今は三人一組でこの場にいるのだ。一言だけでも掛けて行かなければ。そう思ったのだ。
焦心にジリジリと胸の内を焼かれながら視線は座敷から──いや彼女から離さない。
座敷に居るのはくったりとテーブルに突っ伏す向野を含めて六人。内訳は女性が四人、男性が二人。女性たちは心配そうに、または呆れたように向野に声をかけている。対して男性たちは何がおかしいのか面白そうな、楽しそうな表情さえ浮かべていた。嫌な笑みだ。
「寝ちゃいそうなら帰らないと! 俺送っていくよ〜」
そんな軽薄なノリで向野に掛けられる言葉。純粋な気遣いなど何処にもない、下心に塗れている事など誰の目にも明らかだった。
無粋にも彼女へ向けて伸ばされる手。その動作の一つ一つが乱雑だ。アルコールが入って気が大きくなっているのだろうか。
「……ゃ、め……」
店内の騒めきに溶けてしまいそうな程にか細い拒絶の声。向野の肩に手を伸ばす男の声や他の客の話し声にかき消されながらも、不思議とそれは高明の耳に確かに届く。
背がゾワリと粟立った。胃のあたりがカッと熱くなる。
まるで美しいものを、汚されたような錯覚。
(彼女に触れるな)
彼女は、その美しい人は、物を扱うように乱雑に触れていい存在では無い。
咄嗟に思ったことはそれに尽きた。自分はこんなにも激しい感情を抱けるものなのか、と驚いたくらいだ。
一度は向野の抵抗により伸ばした手を引っ込めた男だったが、無駄に諦めが悪い。彼女の肩から流れ落ちた柔らかな黒髪へと再び無遠慮に手が伸ばされる。
もう、我慢ならなかった。
「敢助くん、すみませんが先に行きます」
「は? おいコウメイ! 先に行くってどこに……」
言葉を最後まで言い切らずして高明は既に足を踏み出していた。
そんな幼馴染の背に大和が荒く声を掛けるも制止には至らない。隠し切れていない焦燥を感じ取った大和は、その向う先にテーブルに頭と上体を預けている女性の姿を見止めて眉間に深くしわを寄せた。
(……ありゃ確か、最近コウメイが……)
大和は二度ほど向野の姿を見たことがあった。一度目はコンビニで高明を呼びに行った時に、二度目は美術館の近くで。どらも彼女の隣には高明の姿があった。非常に和やかな様子だったものだからうっかり関係を邪推してしまったものだ。
詳しいことまでは知らないが、最近の高明が穏やかに連絡を取り合っている人物がいることも知っている。それが、その女性だろうな、とは何となく察するというもの。
親しくしている者が、調査対象となっている店の中でぐったりとしている。そんな様子を見かけたならば誰だって焦るだろう。
目の前で被害者が出たかもしれない状況と、それが一方的に知っている人物であることへの苛立ちから大和は盛大に顔を歪めた。お世辞にも人相が良いとは言えない。真正面からそれを見た店員がビクリと肩を揺らしたのも仕方がないことと言えよう。
おもむろに警察手帳を見せて簡潔に捜査への協力を要請した大和は、一度振り向くと眼光を鋭く座敷を射抜いたのだった。
「──それ以上彼女に触れないでいただきたい」
「は、はぁ? 突然何だアンタ」
鋭利な声色が空間を割いて男に突き刺さる。有無を言わせぬ迫力に男は一瞬怯みそうになるが、簡単には引き下がらなかった。そのことに若干煩わしさを感じながらも、高明は努めて冷静に男の逃げ道を阻む。
「彼女は私の知り合いなのですが、貴方は一体どういったご関係でしょう。本日は職場の歓迎会に出席するとは聞き及んでいましたが……同じ職場の方という事で間違いありませんか」
何も知らなければ向野と高明が深い仲なのかと考えてしまうような言葉選び。これもまたワザとである。
淡々と言葉を紡ぐ様は冷静なように見えて、その実隠しきれない感情が見え隠れしていた。元々切れ長である双眸が細められていてあまりにも鋭利なのだ。底冷えするような恐ろしさすら感じる。
大和と一言二言話してから高明の後を追った同僚の刑事は頰が引き攣るのを自覚する。普通に怖い。割と本気で苛立ちや怒りといった感情を抱いていると察したのだ。
そんな同僚に気づくことなく、高明は自身の内ポケットへと手を伸ばした。
「それから……また別件で、特に彼女が口にした飲み物の件について、少々お話を聞かせていただいてもよろしいでしょうか」
手帳を片手に再度そう告げれば男の方が焦ったように体を揺らした。この時点で嫌な予感がしていた。彼女はやり良からぬ事態に巻き込まれてしまっている。
近くに来て向野の様子を横目で確認出来たことで更に高明の焦りは深まっていく。明らかに可笑しい。酩酊しているようには見えない。飲酒によって意識混濁している状態というよりも、どちらかと言うと命の危険を感じさせる顔色に思えた。上手く力が入らないでいるのか、細い片腕がテーブルから滑り落ち、畳の上に力なく投げ出されている。
(これは、いけない)
そう判断するや否や高明は靴を脱いで座敷に上がった。
「すみません、彼女の容体を見たいので後は任せます」
「了解した」
高明の後ろにいた同僚の刑事は短く答えると首肯する。それを背中で受けながら、高明は素早く向野の側にしゃがみ込み片膝をついた。
ほぼ同時に彼女の頭がテーブルからずり落ち、その拍子に重さにつられて上半身も傾ぐ。
高明が向野の身体と畳の間に腕を滑り込ませられたのはもはや反射だった。腕全体を使ってその細い体躯を抱き止める。
嫌な意味で高明の心臓が跳ねた。力を込めた拍子に折ってしまいそうだと、半ば本気で思ったのだ。
「クソッ」
「あッコラ待て!」
高明たちの意識が完全に向野へと向けられている隙に、向野にベタベタと触れようとしていた方の男が逃走を図る。そんな行動をとるということは疚しい事があると公言しているようなもの。高明の後ろに控えていた同僚の刑事と、いつの間にか側に来ていた大和達が目を光らせていた事もあって男はすぐに取り押さえられた。
同席していた女性たちは怯えたように後退り壁に背を付けている。もう一人の男性は目を白黒させて顔を強張らせている。
当人たちとしてはアルコールを楽しんでいただけだった筈が、突然異常事態に巻き込まれたような感覚なのかもしれない。実際どうなのかは定かではないが。
「向野さん、向野さんッ? しっかりしてください!」
高明の呼びかけに明確な応えがない。力の入らない腕で向野は懸命に抵抗の意を見せている。
そこで、とある可能性に思い至って高明はゾッとした。背筋に冷たいものが流れ落ちたような錯覚に襲われる。
──もしや、もう既に周囲をハッキリと認識できていないのではないか。
「向野さん、」
「……さ、……ぁ、ぃ……で……っ」
恐らく言おうとしたのは、触らないで。
表情は悲痛に歪められている。長いまつ毛が震える様を高明はもどかしい思いで見守ることしかできない。
彼女の瞳は高明の方を向いていると言うのに、視線は一向に交わらない。揺らいで、揺らいで、一所に定まらないのだ。開いては閉じかける瞼の動きに合わせて長いまつ毛が震える。ともすれば完全に落ちてしまいそうな意識を繋ぎ止め、瞼を無理矢理こじ開けていたのだ。
向野の意識は、自分の尊厳を侵そうとしてくる者に向けられている。
それは今し方大和たちの手によってこの場から遠ざけられたばかりであるが。そんなことを彼女が知る由もない。
押し返そうとしているであろう手には全く力が入っていない。最早手を添えているだけにも等しい。
向野の身体を支えるため包み込むように肩へ回していたその手を緩めて、高明は顔を歪めたまま深く息を吐いた。僅かに視線が落ちたと同時に前髪がサラリと鼻先に落ちる。早鐘を打つ心臓が鳴り止まない。
今、高明から不用意に触れることは罷りならない。向野の心を深く傷付ける行為に匹敵するだろうことは容易に想像できた。
──ならば、高明に出来ることは何か。
「向野さん、……私です、諸伏です」
先程の男へ向けた厳しい声色とは打って変わって、柔らかく包み込むような声掛け。
意識が朦朧とし、身体の自由が利かず、逃げるどころか声を上げることさえままならない。それでも良からぬ事を企む輩に囲まれている事は、痛いほど認識している。
そんな向野がどんな思いでいるか。想像に難くない。
身体の自由が利かないと言うこともあり表立って見えていないだけで、その胸中では半狂乱に陥っているかもしれない。いや、状況を考えるとパニックに陥っていると考える方が自然だ。
現に今も、向野は薄らと目を開けているのに、高明の事を高明であると認識していない。直前まで隣に良からぬことを考える輩が座っていたのだ。無理もない。
向野に良からぬ行為を働こうと企んだ輩は男。そして高明も男だ。
この場には向野の同僚である女性も数名いるのだから、本当は任せた方が良いのかもしれない。頭では分かっていた。
しかしそれでも、先ほど男性たちに混じり呆れたような表情を浮かべていた様子が目に焼き付いていたのだ。最悪の場合は共謀していたのかもしれない。そんな可能性がある相手に向野を預けたくはなかった。
「向野さん」
だから高明は、これ以上不用意に彼女へ触れずして声をかけ続ける。既に脅威を退けたのだと伝える為に。少しでも彼女の恐れが取り除かれるように、と。その声には心の底から身を案じていることが分かるくらいに心配が滲んでいる。
高明の後ろで救急車の手配を終えた同僚が意外そうに目を瞬かせた。こんなにも優しい声が出せるのかこの人は。そんな言葉が顔に書いてあるようだった。
日頃から聞いているのは職務中の淡々とした声や感情の機微を感じさせない冷静な声、そして厳しい声ばかりなのだ。そう思うのも仕方あるまい。
「……、……も……ぃ、さ……ぁ?」
そしてようやく、彼女に高明の声が届いた。
微かに発せられた声は分かりづらいが確かに高明の名を呼んだ。緩慢な瞬きの合間に視線が交わる。
──やっと、だ。
やっと彼女の意識が高明に向いた。未だ緊迫した状況下ではあるが、向野が高明の存在を認識したことに高明は詰めていた息をゆるく吐き出す。
呼びかけている間はずっと嫌に大きく脈打つ心臓が静まらなかった。それも少しだけ緩和される。
自分を抱き止めている腕。近くにある人のぬくもり。ほんのり鼻を掠める金木犀の香り。
そこにあるのが知った顔だと安堵したのか、向野の肩から力が徐々に抜けていく。とはいえ元々力はほとんど入っていなかったが。次いで、スンと鼻を鳴らし、動かそうとしていた小さな頭がこてりと高明の胸に預けられた。小さく細い息が吐き出され彼女の全身から力が抜ける。
とっくに限界のところをギリギリで保たせていたのか、ゆっくりと閉じられていく瞼。薄らと浮かんでいた涙がついに耐えきれなくなり流れ落ちる。それを確かに見止めて、高明は小さく息を呑んだ。
「……そこの方」
「え、あ、何だよ」
「貴方には、洗いざらい、全てを吐いていただきますから。そのつもりで居るように」
「はあ!?」
低く低く感情を押し殺した声と、刺すような視線が大和に拘束されたままの男に向けられる。射抜かんばかりの鋭い目を真正面から受けた男は思わず肩を揺らした。
それに対し空気を読んで黙ったままだった高明の同僚が待ったをかける。
「いや、そんなこと言ってるけど被害者の身内とか恋人とかは捜査に関われないだろ」
「……私と彼女は友人です」
「は?」
「友人です。それに、元々私が誰とも交際届を出していないことは知っているでしょう」
「はあ?」
嘘だろ。冗談だろ。大和以外の面々の心中が一致した瞬間である。
それから程なくして向野は病院に搬送された。事情聴取の必要性も加味した結果、付き添いとして高明が同行して。
■
病院に搬送された向野だったが、しばらくして意識を取り戻した。薬が強く作用していたのは本当にあの一時だけのようだった。特に目立った後遺症も見られず経過も良好。
その事に向野よりもむしろ高明の方が胸を撫で下ろしていたと言うのは、当人以外誰も知らぬ事である。
後の調査で分かったことだが、向野に薬を盛った男は薬剤師だった。店も他の同僚たちも全くの無関係であり、あの男が単独で起こした犯行。なお薬の入手ルートに関してはまだ特定に至っていない。
上の立場の役員かと思ったがそうではなかったようだ。所属する店舗は違うものの同じ会社の同僚で、薬の取り扱いには十分に知識のある者。そんな男が何故一服盛るなどという行為に及んだのか。
……なんでも向野に一目惚れをしたとかでアプローチをしたものの丁重に断られ、それを馬鹿にされたと感じて今回の犯行に及んだらしい。全く身勝手な話である。
事の真相を知った向野はと言うと、だいぶ気が滅入っているようだった。薬剤師ならばアルコールと薬に関しての作用を知らないはずがない。
だというのに、薬を入手したのも混入させたのも彼女と同じ薬剤師。そうと分かった時は愕然としただろう。知識を正しく使う者ばかりではない。それを、身をもって知る事になったのだから。
きっと世間はこう言うのだろう。職場の飲み会とは言え安易に誘いに乗るべきではなかった、アルコールが入る席なのだから警戒心を解くべきではなかった、と。一度ならず何度か好意を仄めかされていたのだから警戒すべきだった、と。
しかし高明としては被害者を責める言葉は適切ではないと考えている。絶対的に加害者が悪い。
それも今回は職場の歓迎会も兼ねた飲み会だ。向野の立場で断れるわけがない。
『……薬剤師なのに、どうして』
救急車の中で意識を浮上させた向野は、朦朧としながら、そしてぼう然としながら、小さく呟いていた。既に数日経過しているがその姿を高明は鮮明に思い出せる。
それは果たして誰に向けての言葉だったのか。べたべたと向野に触れていた男に対しての言葉だとばかり思っていた。しかし冷静になってからふと思ったのだ。向野の性格から考えて、自分自身に向けた可能性だってある。
高明が知識と見解を求めて向野と通話をした時、薬が混入される事件についてサラッと伝えている。注意喚起のためだ。全貌を詳細に知っているわけではなくとも向野は薬が混入される事件が起きていたことを知っていた。
──それがかえって、自己防衛が足りなかったという自責の念を抱く可能性に繋がりえると高明は思ったのだ。
あの日、あの場所に、高明や大和たちがいたのはただの偶然で、本当に幸運だっただけに過ぎない。何かがおかしいと感じた時に向野自身が咄嗟に対処しなければならなかった、と。
そんなわけないと言うのに。
鈍痛を訴えるこめかみに手をやって高明は深く息を吐いた。ぐりぐりと揉みほぐせど痛みは和らがない。
アフターケアの必要性が様々な意味で十二分にある。
恐らく高明だけでは限界が出てきてしまう細かな部分があるはずだ。再度嘆息した後、助力を仰ごうと上原に声をかけるため足を運ぶのだった。
分割しようと思ったくらい、予定より長くなってしまった。反省。