「可能な限り貴女の力になりたい」
目的地にて停車させた高明は僅かに眉を顰めた。
この辺りの街灯はそう多く無い。これでは夜間に帰路に着くのは不安が込み上げよう。夏場ならばともかく、冬場など日が沈みきってしまえば暗闇に包まれるだろうことは容易に想像がついた。
車のエンジンを切るがすぐには降りず、向野へと到着した旨のメールを入れる。許可を得たとは言え突然押しかけている身なのだから当然だ。
また、今の彼女の状態を考えると配慮を重ねねばなるまい。夜中にインターホンが鳴るという事自体が精神に負荷をかけてしまう可能性。それが真っ先に高明の脳裏をよぎったのだ。
善意を押し付けるわけでは無い。ただ単純に高明が彼女に対して感じる必要のない事で気を揉ませたくはなかった。煩わせたくなかったのだ。
再度ヴヴッと携帯端末が震える。
即座に返ってきたメールにサッと目を通し、施錠したまま待つように伝えて高明はようやく車から降りた。
「夜分に申し訳ありません、諸伏です。お待たせ致しました」
インターホンを押してから時間を置かずして玄関が開く。
勢いがあるわけでは無かったが、それにしても随分と早かった。わざわざ玄関先で待っていたのだろうか。ちゃんと外に立つのが高明であると確かめてから開けたのだろうか。
一瞬そんな懸念が浮かぶくらいには。
「……こんばんは、諸伏さん。すみませんわざわざ来ていただいて」
「いえ、私から申し上げた事です。むしろこちらの意向を汲んでくださりありがとうございます」
彼女は至って冷静に見えた。いや、一見そう感じるだけなのだろう。表情は高明が最近よく見ていたものと相違ない。
薄らと落ちる影。滲む憂い。
不安に揺れる瞳を見つめて高明は僅かに目を細める。脳内では、現状の把握、彼女の状態、主にこの二つの面で分析が行われていた。
「散らかっていますが、よければ中へ」
「それは……承諾しかねます。いくら私の職業が警察官とはいえ、夜ですよ。それも一人で訪れた異性に敷居を跨がせるのは……」
「諸伏さんだからですよ。それに、玄関先で話し続けるというのも……」
向野の視線が高明の肩を通り越し、遠くに彷徨う。言葉を濁してはいるが人の目を気にしているようだった。
高明は未だ扉の外に立ったまま。誰に見られるとも分からない状況が続くのは避けたいのだろう。立ち入りを躊躇う高明に向野は声を潜めてこう告げた。
「それと……実は、手紙だけでは無くて」
「……承知いたしました、お邪魔いたします」
僅かに下がった視線におおよそを察した高明は、ほんの一瞬逡巡したものの承諾し、彼女の部屋へと足を踏み入れた。
──そして純粋に驚いた。同時に彼女の精神状態について危惧の念を抱く。
今までの関わりの中で向野に対しては真面目かつ几帳面であると感じていた。職業も踏まえて整理整頓された部屋であると勝手なイメージを抱いていたのだ。しかし、高明が足を踏み入れた室内は想像よりもはるかに物が散乱していた。
先程の、散らかっているが、という言葉は謙遜ではなかったらしい。
「あの、本当にごちゃごちゃしたままでお恥ずかしいんですけど……あ、お茶用意しますので座っててください」
「いえ。先ほども申し上げましたが、私が押しかけたようなものですから。どうかお構いなく」
「そういうわけには……」
困ったように眉を下げた向野はどこかソワソワと落ち着きがない。部屋主であると言うのに居心地が悪そうだった。
ほんの一瞬、唇を引き結んだ彼女はどこか緩慢な動きでローテーブルへと案内する。よくある炬燵一体型。冬場には大いに活躍するであろうそれは、微妙に天板がずれていた。
低反発のクッションに座るよう勧められ、高明は断る理由もなく素直に腰を下ろした。
「……では先に、えっと……」
「まず、問題の手紙をこの場にお持ちいただければと思うのですが」
どこから話せば良いのか。そんな口ぶりの彼女に、高明は己が主導した方が良いと判断する。
一つ頷き彼女は促されるまま手紙を取りに向かった。高明はその背を何と無しに目で追って、そしてハッとする。
見間違いかもしれないが、手紙の端を摘むように持っているようにも見えたのだ。彼女からすれば得体の知れない物であることは違いない。まあ心情的に触れたくないと思うのは致し方ない事である。
ワンクッション置くべきだったか。内心でそう呟く。
そんな思いなど知る由もなく、向野は至って変わらぬ表情で問題の手紙を差し出した。
「こちらです」
「拝見しましょう」
素手の向野に対して高明は手袋をはめている。念の為だ。
いつの間に手袋を。一瞬ぱちりと目を瞬かせた向野は、しかし特に何を言うでもなく高明が封筒から中身を取り出すのをただ見守った。
カサリ、室内に落ちるのは紙が擦れる音ばかり。それすらも無くなってしまえば互いの呼吸音が聞こえる程。絶え間なく鳴き続けている虫の音は、室内に落ちた静寂を緩和させる環境音となっていた。
綴られている内容や紙、封筒。高明がそれらへと隈なく目を通している間、向野はスッと音もなく立ち上がる。
間も無くして高明の前に置かれたのはグラスに注がれた烏龍茶。コトリと小さな音が鳴る。じっと待つのも気持ちが落ち着かなかったのだろう。手紙から目は離さずに高明は頭の隅でそう思った。
ありがとうございます、そう言おうとした口は、しかして発する筈だった音を無くす。
今の一瞬、感情と思考の幅が狭まった自覚があった。告げようとした筈の礼の言葉はついぞ発せられる事なく、代わりに飛び出したのは問い。己の声色が幾ばくか強張りを帯びたことを高明は自覚する。
「──……、他に、何か不審に思う物など届いたりしていませんか?」
封筒に本来ならばある筈のものが、無い。
その事に気付いた高明は表情を強張らせた。そして視線が鋭いものに変わる。
彼女が気付いているのかいないのか。それは最早些事である。
「え? は、はい。特には……、あ」
きょとりと目を瞬かせて向野は答え、次いで何かを思い出したように静止した。
高明の片眉が僅かに跳ねる。
「何か気になる物がありましたか」
「気になると言いますか、なんか変だな〜程度の事なんですが……」
「構いません。お聞かせください」
「色んなお店のクーポン券? が郵便受けに入ってることが妙に多くて……」
果たして関係性があるのか。向野自身もそう考えているようで、表情は何とも曖昧な物だ。
ふむ、と高明は顎に手を当てた。数拍の瞑目の後、鋭い瞳はひたりと彼女に向けられる。そこには、何一つとして見逃すまいと強い意志の宿っているかのようだった。
「そちらも拝見しても?」
「承知しました、持ってきます」
数分と経たずに差し出されたのは透明なビニール袋に入った紙の数々。決して少なくない量のクーポン券と思しきもの。不審に思い始めた頃から証拠として残しておこうとでも思っていたのだろうか。そう疑問に思い向野へ訊ねれば、まとめて捨てようとしていたのだ、との返答だった。単なる偶然である。
それもそうだ、彼女は高明とは違い一般人であるのだから。何事も物的証拠と考え保存する事は余程のことでもない限りは無くて当然だ。
以降、両者の間から再び会話が消えた。
高明は思考に耽り、向野は邪魔をしてはいけないと思ったのか口を閉じたまま。所在なさげにテーブル越し高明の真正面へと腰を下ろした。沈黙が落ちる。
(ある筈のものが無い封筒、郵便受箱への無数のクーポンチケット……手紙に記された過剰なまでの労りの言葉、好意……)
高明の視線はテーブルに置かれた紙類に落とされる。それ等が意味することを正確に察して、高明は向野に気付かれないよう静かに深く息を吐いた。電話を受けた時に立てた仮説よりも事態はより切迫している。
郵便局を通った郵便物に本来ならばある筈のもの。いや、無ければいけないもの。──消印。それが今目の前にある手紙には無かったのだ。
単純に郵便局で捺印もれが生じた可能性も無くはない。しかしそんなミスはそう生じない。
即ち、送り主はこの封筒を郵便受けに直接入れた可能性が高い、ということになる。
わざわざ切手が貼付されているのも住所が書き記してあるというのも、おそらくカモフラージュのため。もしくは直前まで本当に郵便で出そうとしていたか。似たようなものでも印が押されていないのは、それらしい判子が見つからなかった為だろうか。
そして手紙の内容を鑑みるにクーポン類を投函していたのも送り主だろう。八割方の確率で。そう考えた所で高明は一度自身の思考を止め、向野の顔色を確認した。
(疲労の色が見え隠れしている今、伝えるのも確認するのも酷だろうが……)
高明のスラリとした、しかし男らしい指先がトットッと自身の膝の上で拍を刻んだ。
この場に来てから薄らと感じていた違和。言葉として明確な形にすることを、いつまでも避けてはいられない。
今求められるのは、いや、高明が為さなければならないことは何か。
──それは最善の一手を考えること。問題が繰り返されないよう根本的な改善を目指すこと。
ただただ今回の原因を解き明かし、解消へと導けたとして、根本的な解決には至らないだろう。それは向野のためにはならない。もっと根深い箇所に、何かが眠っている。そう半ば確信めいたことを内心で呟いて、高明は口火を切った。
「──向野さん、貴女の事情に踏み入る質問になりますが、幾つかお尋ねしても構いませんか」
「……お答えできる範囲でしたら、なるべく答えさせていただきます」
高明の問いに向野は身を固くする。肌で感じるくらいには空気が張り詰めた。
だが、それでも高明は次に発する言葉を喉の奥に飲み込むことは出来ない。今ではなくとも、いつかは問わなければならなかったのだから。
「今回私に相談すると決めたのは、自分ではどうにも手に負えない段階に入ったと判断したからですね」
「……、……」
その声色に疑問符など含まれてはいない。向野の瞳が揺らぐ。僅かに口を開閉させて、それでも言葉は出てこない。小さく息を呑んだ音が確かに高明の耳に届いた。
「本当は、この手紙が届く前から既に気付いていたのでは無いですか? 姿の見えない付き纏いに」
ダメ押しのように問われ、向野は目を瞑ると深く息を吐いた。肩から力が抜けていく。その様は身体が萎んでいくように見えてどうにも頼りない。顔が下に向けられた事で一瞬表情が見えなくなるも、すぐさま元の位置に戻る。
そこにあるのは眉が下がり切った困り顔。最近顔を合わせるときによく見た表情。高明があまり見たいとは思わない類のものだ。
「……お見通しでしたか」
「多少は。貴女が生半可なことでは他者を頼らないであろうことは既に承知しています。此度のこと、それを裏返せば自ずと答えは出ますよ」
情報を整えれば分かる者には分かる。
そう言外に告げて、高明は思い出したように烏龍茶で喉を潤した。出されたまま手付かずだったのだ。
「どの段階で可笑しいと思い始めたのか、自分では手に負えないと断じるまで何があったのか。また、初めから警察を頼らなかったその理由。……もし可能なら、貴女の負担にならない部分だけでも聞かせてはもらえないでしょうか」
無理強いをするつもりはない。だが出来る限りの事を知っておきたい。そんな想いからの申し入れだった。まさか指摘されるとは考えていなかったのか、向野は一瞬言葉に詰まる。そして緩く視線を落とした。
大凡の検討はついている。だが向野へと何かしら確認が取れたわけではない。結局は高明の憶測でしかないのだ。何事においても確固たる証拠と裏付けは重要。詳細が不明瞭のまま話を進めるつもりはなかった。
「自分語りのように、なってしまうと思います」
「構いません。むしろ存分に話して頂きたいくらいです」
「……、」
話を促す高明へとやんわり浮かべられた微笑みは、どこか困った色を含んだまま。妙なデジャヴを覚える。ふと、脳裏に先日彼女から言われた言葉が蘇った。
『真面目な方ですものね、諸伏さん』
些細な事でも連絡を待っている。そう告げた時に気遣いと取られた瞬間の表情と酷似していた。
その時も気になったのだ。職務の延長で、義務感で、彼女を気にかけているのだと思われているのだろうか、と。
若干の複雑な思いを抱きながらも僅かに眉を寄せるに留める。やはり、高明が警察官であるという事実がフィルターとなって伝わっていないのだ。
あまりにも先日の事件に関する印象、そして警察官としての印象が強すぎる。それは些か不本意だ。
「向野さん、どうやら貴女は私の行動について少々思い違いをしてらっしゃるようです」
一呼吸置いて、高明は再度口を開く。
「今この場に私が居るのは警察官だからというわけではありません。一人の知人として、友人として、心配しているからこそ。例え私が警察ではなかったとしても、きっと貴女の元を訪れましたよ」
ともすれば射抜くようだと言われそうなほど真っ直ぐ。ひたりと向けられた高明の視線を受け止めて、向野はどこか諦めたように瞑目する。
そして数拍後、静かに口を開いた。
「……実は、昔から周囲に変な人が湧くことが度々ありまして」
変な人が湧く。その表現に高明は内心で密かな驚きを覚えた。普段の言葉選びよりも随分と棘が含まれている。
言葉遣いや言葉選びにはその人の性格や品性が現れるものだ。
向野とは対面、文面、どちらでも言葉を交わしてきたこともあって、少なからず傾向は把握していたつもりである。鋭利ではない柔らかな言葉を選べるというのは、彼女の人柄が現れているようだと思っていた。そんな彼女が棘を含ませた。それだけで余程の事があったのだと察するというもの。
続けて語られた過去の事象は、高明の端正な顔を渋面に変えるには十分すぎた。
──過去に向野が警察へと相談したのは二度。
一度目は学生の頃。そして二度目は数年前、新卒で働き始めて間もない頃の事だった。
高校時代の通学路、特に最寄駅と学校の間の道には変質者が出没した。その度に学校側から、そして警察によるエリアメールでの注意喚起はあったのだから被害者による通報は少なくなかったのだろう。それでも出没情報が消えることはなかった。
変質者が余程狡猾だったのか、時間が経過してからの通報が多いことから絞り込みが難しく野放しになったのか、第二第三の変質者が出没したか。はたまたその地域の警察が精力的に動かなかったのか。
どうあるにせよ、不幸なことに向野はその変質者に遭遇してしまったのだ。物理的接触はなかったものの、非常に不快で身の危険を感じる、口に出すことを憚られるような内容の言葉を吐かれながら付き纏われたのだという。
警察への相談なら勿論した。逃げ切った後に交番へと駆け込んだのだ。
──これが一度目の相談。
しかし、そこで告げられた言葉は向野の予想に反したものだった。
相談記録は残せる。だが実害という実害が出ていなければ被害届は出せない。
物理的接触でもあればまた話は違っただろうに。
現行犯でも無ければ変質者の特定と逮捕といった対応は難しい。付き纏われた範囲のパトロールを強化するくらいしか出来ない。
そう素気無く返されたのだ。
身の危険すら感じたそれが実害では無いというなら、警察が言う実害とは何なのだ。
咄嗟の表情に滲んだ疑念や失意、憤りを感じたのだろう。対応にあたった警察官からは簡潔に複数のパターンを挙げて説明を受け、理解はした。納得は出来なかったが。
そういう決まりなのだ、と言われれば頷く他ない。
最後に取られた確認は、彼女が受けた短時間の付き纏い行為はエリアメールでの注意喚起で周知させても良いか、というもの。それに対し、向野は断るという選択肢を持ち合わせていなかった。
ここで黙れば自分が受けた行為はなかったことにされる。回りまわって変質者をのさばらせることに繋がる。きっと他に被害が及ぶ。ならば微々たるものであっても自分が出来得る限りのことはしなければ。そんな妙な正義感すら抱いていたのだ。
──後になって振り返り、そう考えて自分を奮い立たせなければ立っていられなかったのかもしれない、と自嘲気味に向野は言う。
ただでさえ滅多に対面する機会など無い警察官を前に委縮していたのろう。当然だ。黙したまま話の腰を折ることはせず、高明は心中で呟いた。
そして、後日高校では朝のHRで変質者の出没情報が伝達され、エリアメールでも情報が各所に回った。しかしその文面を見て向野は表情を強張らせた。記載されていたのは何とも当たり障りのない内容。
実のところ、様々な面での配慮から被害をぼかし柔らかな表現で文面は作成され送信されている。直接的な表現を避けているのだ。
そんな事など知らない当時の彼女は、警察に相談してもそんなものなのか、と愕然としたようだ。
「……だから、警察の人を信じていない、とかでは無いんです。……ただ、相談するのはちょっと躊躇ってしまって」
「そうでしたか」
「言われたこと、されたこと、思い出すのも口にするのも凄く頑張ったんですけど、目に見えるような結果へ繋がらなかったのがどうにも……」
被害を訴えるとなった時に彼女がどれ程の苦痛を感じたのか。高明は想像力を働かせる他ない。
交番勤務の警察官が婦警であった可能性は低いだろう。特性上、警察官には男性の比率が高いのだから。
そこにうら若い女性が助けを求めて単身で駆け込んだ結果がこれだ。事細かにあれやこれやと聞かれ、それに答えねばならない、その苦辛たるや。想像に難くない。
加えて気力を振り絞ったというのに進展はなし、ときた。
これで変質者の特定に至った、など一定の結果があればまた彼女の心象も多少は変わっていたのかもしれない。そんな考えを高明はすぐさま打ち消す。過去の可能性に思いを馳せても現状は変わらない。
「今年、転職して
転職をした経緯。向野と出会うきっかけでもあるその詳細を聞いて、高明は柳眉を顰める。
事の始まりは一人の男性患者の投薬にあたり、体調を気遣う言葉をかけた。ただそれだけ。業務にあたる上では特に珍しくもなんともない、当たり障りのない言葉。それが患者の中でどうねじ曲がったのか、向野が男に対し好意を抱いていると認識されたらしい。気づいた時には頻繁に出現するようになった。
気付いたきっかっけはその患者が薬局に来るたび、向野の一挙一動をニヤニヤと笑いながら観察していたことからだという。
嫌という程に感じる視線。その目つきが怖い、と向野だけではなく当時の同僚からも声が上がる程。
次第に、来局のたび薬を受け取った後も長時間居座るようになり、遂には処方箋を持たず来局するようになった。
薬局で取り扱っているのは処方箋用薬だけではない。市販薬や、少量ではあるが食品も取り扱っていることもあって、その購入のために来局しているのだと言われては追い返すことが出来なかったのだ。結局は軽く注意するだけに留まってしまう。
柔らかな言葉での注意など、この手の輩にはただのそよ風でしかない。そもそも注意されたとすら思っていないだろう。
何故はっきりとさせなかったのか。
──それは強く出て逆上される可能性が否めなかった為である。もともと素行に問題が見られる患者だったのだ。
薬局側の対策としては、その男が来局した時には向野を患者の目に触れさせる場へ行かせない、つまり投薬を避けさせることしかできなかった。薬のピッキング。一包化、計量、混合などの調剤。監査。そういった直接患者と接することが無い調剤室内での作業ばかり。
しかしどう頑張っても限界は出て来る。
限られた人員で回しているのだ。患者数が増えれば当然投薬に当たらなければならない。どれだけ待合室が混雑しようとも、問題の男は居座って立ち退こうとはしなかった。非常に迷惑この上ない。
そして次第に、仕事に偏りが出ることについて同僚たちの中でも不満が出始める。投薬という行為には当然ながら責任が発生する。それを負わずに同じ給料をもらうのか、と思う者が現れるのは仕方がない事であった。
例えそれが、向野個人の問題ではないとしても。
男の行動は徐々にエスカレートし、見境が無くなっていった。
閉局後に声をかけられた時は恐怖で声が出なかったという。当然だろう。
特に会話はせず挨拶のみで足早に立ち去ろうとするも、ずっと後ろをついてくる。下手に刺激してしまう可能性を消しきれず、すぐさま交番に駆け込むなど出来はしなかった。最寄りのコンビニに寄ったり、人通りの多い駅の構内をわざと歩き回ったり、そんな工夫の末に駅の改札口までの道の間に撒けはした。
その間ずっと早鐘を打つ心臓。震える両脚。浅くなる呼吸。ジトリと背に滲む汗が気持ち悪かった。端的に言うならば血の気が引いていたのだ。
──これもまた、一定の距離を保って跡をつけられる
そこで向野は過去の経験から警察への相談を躊躇ってしまった。それが悪手だった。
再び問題の男は閉局後の出没したのだ。次第に付き纏いの度合いは悪化。薄らと身の危険を感じるまでになっていた。
生活圏内の全てにおいて気を張る生活が続く。当然、精神的にも肉体的にも疲労が蓄積していく。そんな状態でまともに生活など出来るものか。
そうして追い詰められて漸く二度目の相談に至った。
この二度目の相談の結果もまた、一度目と似たようなもの。違うことと言えば、担当の警察官は男性であったものの親身に話を聞き、警察が動くに動けない理由についてきちんと説明がなされたこと。これが第一に挙げられる。その上で現時点ではパトロール回数を増やすこと、付き纏い行為を受ける場所の近辺を重点的に巡回を行う旨を告げられた。
また、逃げ切ってから交番へ駆け込むのではなく身の危険を感じた時には直に一一〇番通報するように、と教わったらしい。通報歴が残るからだ。
そのアドバイスは正しい。高明は頷きを返して続きを促した。
こうして向野と警察は対応を重ねはしたものの、虚しくも最終的に彼女は引越しの決断を余儀なくされた。
更に言えば職場は既に知られているため、新たな住居へと移動しても意味はない。また同じことが起きる。いつかは特定されかねない。
会社が守ってくれれば良かったのだろうが、彼女が求めていた事の半分も動いてくれはなかった。
店舗責任者とエリアを統括している上司に相談するも解決には至らず。それ所か進展すらしなかったのだ。
別の店舗に異動願いを出せども他店舗の人員が足りている事、そして今いる店舗の人員をこれ以上減らせない事、様々な条件が重なって実現せず。
薬剤師の数が足りないなどと言っている割には社員を守らない会社なのだな、と彼女が感じたのは無理からぬことだろう。だから転職するに至ったというわけだ。己の身を守るために。
たかだか後ろをつけられただけ、会社の上の人間からそんな言葉があったとも聞く。随分と心無い言葉だ。
「……これが以前起きたことの大凡です。簡単にまとめようと思ったんですが……すみません、長々と」
「いえ。教えてくださりありがとうございます。十分、簡潔に纏まっていましたよ」
視線を落とした彼女へと高明はそう声を掛けた。
気を遣ったわけではない本心からの言葉である。
(この内容を、私へ話すことに躊躇いが無かったわけがない……)
事情を聞いた高明は、複雑な感情を抱かずにはいられなかった。
被害者である彼女の言いたい事も非常に理解できる。ただ、一警察官としての立場からすると、些細なことでも相談する気持ちを忘れないでもらいたかった気持ちもある。
どんな事がきっかけで事件に繋がるかも分からない。相談した、という事実を残すだけでも後々が変わってくる。
しかしながら、警察官の中にも性犯罪などに対し重く捉えず対応する者が居るのもまた事実。
じわりと鈍い頭痛を覚えて、高明は数秒の間静かに目を瞑った。僅かに眉間に険が刻まれる。
何があっても動じない、表情の変化が見られない、冷静過ぎて逆に怖い、などという言葉。それは特に親しくもない、高明のことを良く知らない相手から言われる事が多い。大和や上原、他同僚からしてみれば存外分かりやすいらしいのだが。
そんな高明を見て、彼女がこれまた困ったように小さく苦い笑みを浮かべる。一見動じないと他評価されているが、それ程までに分かりやすく顔に感情が出てしまっているのだろう。今の己が渋面を浮かべていることを高明は自覚していた。
何かしらの事情があるのだろうとは推察していた。だが、警察官の存在が彼女の行動を妨げる要因の一つになっていたという事実。それが高明の両肩に重く圧し掛かるような錯覚を引き起こした。
よりにもよって、という言葉が高明の頭をよぎる。
瞑目した高明をどう思ったか定かではないが、向野は静かに口を開いた。
「諸伏さんや上原さんのような警察の方が居るというのは分かっているんですけど、……いえ、これでは言い訳のようになってしまいますね」
そう言うと、どこか陰が滲む笑みを小さく浮かべる。無理に取り繕ったような、彼女の表情の中でも高明があまり見たいと思わない類の笑みだ。
未だ向野は視線をテーブルに落としたまま。
「私の顔? というか、雰囲気とか喋り方のせいか、異性から変に絡まれることが多かったんです。多分、気が弱いだろうとか逆らわないだろうとか、そんな印象からだろうな、とは思うんですけど」
心の中では戦闘民族のつもりなんですけどね。そんな小さな呟きも高明の耳は拾う。一瞬聞き間違えかとは思ったが、特に触れることなくサラリと流した。賢明な判断である。
(優しさが故に侮られる。下に見られる。……それは自覚していたという事ですか)
──触れなば落ちん。
容姿、表情、立ち振る舞い、纏う空気感。彼女からは寄り添うような優しさが滲み出ている。
拒まれはしないだろう。強く出られないだろう。受け入れてくれるだろう。流されやすそうだ。彼女が持つ優しさも相まって、そう勘違いする者も少なくはない筈。
脆く繊細で、少しでも触れれば己が手の内に転がり落ちて来そうな錯覚を抱くほど。実際の彼女が自分の考えをしっかりと持った人間である事など、考えもせずに。
高明もまた、一目見ただけでは向野の持つ芯の強さには気付かなかった。初対面が雨の中で困り果てている様子だったことも一因だろう。だが、一度関わりを持ち言葉を交わせば分かる。彼女の持つ確固たる意志の強さ。それは高明が惹かれた一面でもある。
高明の胸中に広がる苦々しさ。そして同時に、脳裏を過ぎったのは初めて彼女に出会った時のこと。
柔和で優しい彼女がああまで初対面の人間を警戒していたその一因が視えた気がした。テーブルに視線を落とし伏し目がちの姿を見据えて高明は軽く拳を握る。
そこあるのはやはり、やや憔悴の色が滲んだ顔。ずっと根底にその忌まわしい出来事が居座り続けていたのだろう。土地を離れ、職場を変えたとしても。ずっと残っているのだ。そこに、まるでダメ押しのように起きた例の事件である。新しい職場で知り合った男性社員から受けた仕打ちは、またもや彼女の心の弱い部分を抉った。
全てが地続きなのだ。
以前受けた被害から始まり、高明が初めて彼女と出会ったあの時と、今の今まで。
多方面において信を置けなくなっている、そんな彼女が高明を頼った。
その事実にこれ以上ない重大な意味があると感じて自然と背筋が伸びるというもの。心を向けている相手の機微に気付かないわけがない。
様々な面において思うところがあるのは事実。しかし何においても優先すべきは不穏の滲む現状の解消である。
高明が出来ることなど限られている。何でも出来るわけではない。
それでも、彼女が必要に応じて周囲に助けを求めることがあるならば、それに応じるのは可能な限り自分でありたい。そう思うのだ。
必要とあらば、何十、何百という手だって考えよう。あれこれと思考を巡らせ計略を立てるのは苦ではないのだから。伊達に長野の孔明と言われているわけではない。
──彼女が抱く不安。それが現実のものにならないように、そのために高明は今ここに居るのだ。
「この一件、私に預けてくださいませんか。一刑事としても当然のことですが、個人としても可能な限り貴女の力になりたい」
そう進言した瞬間の向野の表情を、果たして何と例えるべきか。
みるみるうちに見開かれた眼が高明を見据え返す。その一拍後、彼女の眦からほろりと涙がこぼれ落ちた。
高明は音もなく瞠目した。無意識の内に肩が強張る。視線が釘付けになる。それしか目に入らない程、流れたひとしずくが大きなものに思えた。そして同時に、彼女が一服盛られた日の光景が頭を過ぎる。
はた、と動きを止めた高明を余所に、はいささか乱暴に手の甲で頬を拭う。
「向野さん、」
「……泣いて、いません。大丈夫です」
「…………」
「気のせいです」
いや、その主張は流石に無理がある。
高明は内心で思わず呟いた。賢明にも口は閉ざしたままであるが。
向野もそれは重々承知しているのか逸らされる視線。声色からは己の涙など取るに足らない事のように扱っているようにも感じてならない。
意地っ張りと言えば良いのか、見栄っ張りと言えば良いのか。頑なに弱さを見せようとしない。いや、弱みを見せたく無いのだろう。
例え彼女が気付かれずにいたかったのだとしても確かにその光景を目にしてしまった。そしてそれは、高明にとって決してどうでも良い事なわけがないのだ。
「……もっと早く、貴方のような人に出会えればよかった……」
震えた唇から小さく零れ落ちた言葉は若干かすれていた。
聞き取りづらくはあったが、高明の耳は辛うじてそれを拾う。だが真意を掴みかねて咄嗟に言葉を返すことが出来なかった。あまりにも背景にある出来事が多すぎたのだ。しかし、どうあるにせよ重要なものに思えてならない。
──カン、カン
ふと遠くから消防車の警鐘音が近づいてくることに気付く。つい、と視線だけを窓の外へ投げ高明は耳をすました。比較的近くの道を通ったのだろう、シンとした室内に鐘の音がやけに響く。鳴らされる数からして恐らくは巡回。近づいてきた時と同じ速度で遠ざかっていくのが音の響きで良く分かる。
職業柄、聞き逃してはいけないものが多い故に意識が逸れた。
そのおかげか、回りすぎて絡まりかけた高明の思考に余白が生じる。今回に限って言えば逆に良かったのかもしれない。
たゆんで聞こえる甲高い音へと向けていた意識。それを目の前の彼女へと戻す。
高明が視線を外した隙に、眦に光る雫は完全にぬぐわれていた。
(……やはり、涙というものはあまり見たいものではありませんね)
伏し目がちに憂う面差し。微かに震える睫毛。何かを堪えるように引き結ばれた唇が痛々しい。
──ずっと、この表情だ。高明は内心で臍を噛む。
久しくこの憂慮を帯びた顔しか見ていない気がするのだ。
高明は彼女が心から浮かべた笑顔というものを両手に収まりきる程度にしか見た事がない。元々顔を合わせられる機会自体が少なかったのも一因だ。だが、それ以上に大きな要因は、彼女が困窮している場面に立ち会う事が多かった為だろう。
だからこそ余計に、表情がパッと華やいだ瞬間が瞼の裏に焼き付いている。もう随分と見ることが叶わないでいる表情。
ぱあっと見開かれた双眸が輝いていた。
目は口ほどに物を言う。とはよく言ったもので、どんな言葉よりも彼女の感情を雄弁に語っていた。その瞬間、星の欠片が飛んで来たような気すらしたのだ。
星の欠片はスーツに触れ、ほろりと床に落ちたに違いない。そんな、らしくないことを考えるくらいには印象深く残っている。
高明はきっとその時に、真の意味で向野紗弥という人間に惹かれたのだろう。
しかし今の向野が浮かべる表情とはあまりにもかけ離れている。高明が見たいと思うのはあの星がはじけるような──。そこまで考えて、はたりと静止した。次いで嗚呼と嘆息する。なぜ己がこうも彼女を気にかけてしまうのか。その理由に辿り着いてしまったからだ。
認めよう。
いや、認めざるを得ない、という方が正しいのかもしれない。
頭のどこかで気づいてはいた。ただ、認めようとしなかっただけで。気付かぬふりを続けようとしていただけで。
──高明は、向野紗弥という人物に対し特別な感情を抱き始めている。それは友人としてではなく、異性として。
無意識のうちに目を逸らそうとしてきたことが胸の内に軽くはない重量をもっての圧し掛かってくるようだった。ジワリとした仄かな痛みをも受け入れつつ、高明は奇妙な脱力感に襲われる。
誰かを異性として意識し好意を抱くなど久方ぶりのことだった。……意外だと思う者も多いのかもしれないが、高明は自身の深くに根ざす人間を作ることに殊の外慎重だった。
社交性に欠けるという話ではなく、親しい者であってもという一定の距離感を保ち続けるという意味で。他者を踏み入れさせない一線という物を明確に持っている。
それは過去の出来事が深く関係してくるのだが今は割愛しよう。
もっと早くに出会いたかった。つい今しがたそう小さく言葉をこぼした向野を前に、高明は未だに欠ける言葉を探しあぐねいている。
どんな言葉をかけても彼女の心の柔い部分を薄らと傷つけてしまう気がしたのだ。類まれなる頭脳と持て囃されているというのに、肝心なところで気の利いた言葉などちっとも浮かんで来やしない。
「そう思っていただけ光栄です」
自覚した途端にこれか。
そう己の不甲斐なさに内心で若干辟易しつつ、導き出せたのは当たり障りない言葉。絶対的に言葉が不足している。
硬い声色になりかけたのを無理やり修正して、高明は閉じかけた唇を再度開いた。
「向野さん、貴女が今こうして長野の地を踏み、私とこうして言葉を交わしてくださっている事。それ自体がとても得難い事なのだと感じます。ただの偶然だと言われようと、あの雨の日に貴女の力になることが出来た事が、ただ嬉しい」
喋るうちに口内が渇くのを自覚する。緊張しているのだ。
そこにあるのは何も取り繕われることのない、率直な紛れもない心からの言葉だった。最後の方など微妙に敬語が崩れている。
「す、みません諸伏さん、取り乱してしまって」
「いえ。状況を鑑みれば当然の事です。気になさらないでください」
「……あの、お言葉に甘えさせていただいて、ご助力をお願いしたいと思います。よろしくお願いいたします」
ハッとした向野が言葉に詰まりながらも軽く頭を下げる。
この言葉を口にするため、どれ程の気持ちを振り絞ったのか。想像に難くない。
真正面からそれを受けて、高明は深く頷くのだった。
今回更新分で大きな区切り。大分長くなってしまいました。