「貴女さえ良ければ、なのですが」
事の収束は瞬く間に訪れた。
いや、そうなるよう仕向けた、という表現の方が正しいだろう。
向野の行動はなるべく制限せず、高明と上原がその周りを好き勝手に動き回った。話がひと段落した後、向野は即座に上原へ相談の連絡を入れていたようで、特に何を説明を求める事なく非常に積極的に動いていた事を明記しておこう。同性だからこそ話しやすいこと、同性でなければ話せなかったことは確かに存在する。
上原も巻き込んでのそれは、もちろん警察官の職務とは別枠である。一人の友人としての行動だ。
一度でも領分という線引きを誤ってしまうと、のちの全てに影響を及ぼす。境界が曖昧になってしまうという事態は非常に危ういのだ。警察官の一人として行使できる権限を、己の力だと誤認してはならない。
故に公私混同など高明も上原も己に許すはずがないのだ。多方面において示しがつかない。ひいては警察組織の秩序を乱すことに繋がるというもの。
残念ながら、時に混同しがちな者を見かけることも少なくは無いが。
紆余曲折あり、付き纏い行為をしていた男は姿を消した。
一つ言えることは高明の神経を逆撫でするような主張をかざす、非常に自分勝手極まりない物言いの人物だったということ。
なお、何度か直接対峙した上原の反応はというと。
「非っ常に気持ちが悪い上に不快でしかないわ」
とのことだった。見事にばっさり切り捨てている。
こと、このような件に関しては女性の方がかなりシビアな視点で物事を捉えるというもの。時折思い出しては表情を歪めていた。
完全に目が据わっていたせいで、すれ違った別部署の職員に二度見されていたのは余談である。
上原が居ない時にも向野の周囲を彷徨く男は当然のように現れた。
面と向かって対峙した時のことを、込み上げてきた感情を、高明は何と表したら良いものか分からなかった。その事をまだ覚えている。
呆れや苛立ち、怒りだけでは収まりきらないのだ。適切な言葉が見つからない。どうしようもない焦燥感に駆られ、危惧を抱いた。
彼女に気安く触れるな。不必要に近づこうとするな。そんな思いを抱いたのは、何もこれが初めてではない。先の薬剤混入事件の際にも感じていた。
ああ、全く、忌々しい。
優しさにつけ込んで己が欲望を満たす為だけに近づき、あまつさえ好き勝手に触れようとする。彼女のことなど一片たりとも考えていない。そんな無遠慮で不躾、下卑た視線や思考をもって向野へ手を伸ばそうとする輩の存在がひどく許し難かった。
薬剤混入事件、ストーカー、過去の事象、彼女に害を及ぼす手がこんなにも際限なく湧いてくる。その事実が高明の心を逆撫でしたのだ。
高明と上原の機転あって向野は付き纏い行為をしていた男と直接顔を合わせてはいない。
念のための確認として向野に顔写真を見てもらったが、全く認識していない人物だったのだ。果たしてどこで向野のことを知るに至ったのか。その部分に関しては明確にならないまま。不安は消えず薄らと残る。
事態の完全なる収束を目前に、念には念をと向野は引っ越しを決断した。
部屋すらも相手に割れてしまっている以上アパートは安全性に欠けるのだから当然と言えば当然だ。付き纏い行為をしていた男が配送会社に勤めている者である可能性も考え、荷物の搬送などは高明と上原の車で行った。既にある程度荷物の整理を済ませていたため、流れるように事は進んだ。
ほんの一時、力仕事要員として大和も駆り出したのは余談である。
こうして向野自身、高明や上原、そして更に周囲の力あって日常とも呼べる日々を取り戻すことができた。
向野の引っ越し先が自身の住まいとさほど離れていない距離であることに気付き、高明が何とも言えない感情を抱いたというのは胸の内に秘匿したままだ。
もし彼女から助けを求められた時、手を差し伸べられる距離に在れる可能性が上がったことに安心すれば良かったのだろうか。
何事もないのが一番ではあるのだが、有事の際に取るべき身の振り方を考えてしまうのは致し方あるまい。湧き上がった感情を多少持て余そうとも、果たすべき義務も負うべき責務も変わることはない。そう一瞬で割り切った思考に転じられたのは高明の気質によるものなのだろう。
しかして、向野が再び憂いを見せることなく高明と談笑出来るようになるまで多少なりとも時間がかかった。立て続けに事が起きたのだ、こればかりは仕様のない事である。
それでも高明の予想よりもはるかに早い。
自分のために心を砕き動き回ってくれた高明だったからこそ。というのは後の彼女から直接聞いた言だ。何とも面映ゆさを感じて落ち着かなかったことを悟られなかったことを祈るばかりである。
──差し込む陽光の眩しさが和らぎ、色なき風が肌を撫ぜる。雨の気配もなく比較的過ごしやすい。穏やかさに満ちた、そんな日のこと。
珍しくも希望通りに全休が取れた高明は、とある場所へと車を走らせていた。同行者は向向野だ。
可能ならば、という言葉は付いたが事前に誘いをかけていたのである。快諾を得られたため、高明の車でちょっとした遠出と相成ったわけだ。誰もが知る観光名所というわけではないが、見せたい景色があった。
勿論、事前に二人での遠出になることは伝達済みであり、これにも快諾を得ている。
運転中ともなると自然と普段より口数は少なくなるもので、車内にはラジオの音ばかりが流れていた。交通情報が時折掠れる。
向野はというと、通ったことのない道だったのか外の様子を眺めているようだった。
街並みと山ばかりで面白味も無いだろうに。チラリと横目で様子を見やって高明は小さく口端を上げる。次いで、静かに口を開いた。
「時に、向野さん」
「はい、何でしょうか諸伏さん」
「貴女さえ良ければですが……」
そう前置きをして、いつぞや断られた提案を口にする。
「夕食を、この後どこかでご一緒しませんか?」
共に遠出をしておいて何を今更。そう思われようとも、問わずにはいられなかった。
彼女の顔が少しでも曇るようならば無理に同じ席で昼食を取るつもりはない。
──この問いは付き纏い行為を受けている頃に断られてから二度目だ。
実は既に一度、断られている。時期早々だったか、とその時はすぐさま引き下がったが後の話によると単純に用事があっただけだったのだと言う。
何はともあれ。向野がどのような表情で、空気で、言葉を返すのか。高明はそれが見たかった。向野の心に根深く残るものが見え隠れはしまいか、と。ある種の指標のようなものになっていたのだ。
そんな心境を知ってか知らずか、向野はぱしぱしと目を瞬かせると一呼吸の後に破顔した。
「──喜んで」
細められた双眸。僅かに下がる目尻。上がる口角。ほんのりと色づく頬。
負の感情など欠片も見当たらない。
憂慮を帯びた彼女を見守る間、ずっと高明が見たいと思っていた満面の笑み。星の欠片が零れるような眩しさを感じて穏やかに目を細めるのだった。
□
長野県庁本館棟十階、食堂。
その一角にて、高明は珍しくも然程交流のなかった相手と昼食を共にしていた。その相手というのは、しばらく前に高明の遠回しな惚気をもろに食らった男だった。それぞれが食堂に向かおうとしていた途中にちょうどバッタリと鉢合わせたのである。
食事中それとなく話題に上がったのは高明と妻の馴れ初め。話す上で切っても切れない事象の数々。簡潔かつ要点を絞ってではあるが、高明は久々に妻と出会った当初のことを他者に話した。
「──これが私と妻の馴れ初めですね。詳細は省きましたが満足いただけましたか、谷々さん」
「はわ……」
間の抜けた声を上げた男──谷々を前に高明は小鉢に残った漬物の一欠片を口に入れた。
「余談になりますが、その後折を見て交際を申し込みました」
「ほあ……」
彼女としては青天の霹靂とでも言うべき出来事だったのでしょうけれど。
そう続けて、お椀に残っていた味噌汁を飲み干す。食事を始めてから思ったより時間を経っていたようで随分とぬるくなってしまっている。
そして、谷々は再び間の抜けた声を上げざるを得なかった。何ともサラッと言いよる。
物静かな印象が強い高明とその妻。きっと穏やかでゆったりとした関係をゆっくりと育んだのだろうとばかり思っていたものだから、純粋に驚いたのだ。
こうまでも刺激的な過程があったとは思わなかった。
事件性、様々な思惑、一筋縄ではいかない人間の心情。今し方サクッと語られはしたが、きっと谷々の想像する以上に複雑で、本部内や水面下での動きもあったのだろう。
「あのぉ、ちなみにその薬剤混入事件の流通ルートとかって、すぐ解決したんですか?」
「……実は、すぐには解決しませんでした。というか出来なかったんです」
「そうなんですか?」
「ええ。流通ルートを辿っても県外へ出てしまいましてね。それも複数」
「うわ、頭が痛くなるヤツですね、それ」
「全くです。確か当時は実際に頭を抱えている者も居ましたよ」
しみじみと呟いた高明を前に、谷々はうっかり頬を引き攣らせた。当時の関係者たちの苦労を察して内心で合掌する。
流通ルート、売りさばく者、所持する者、それらは多岐にわたる。その所為もあって大本の特定は非常に困難。まったくもって、薬物に関する事件というものは根絶が難しい。
「被害範囲は広範囲に及びまして、北は北海道、南は九州まで。おかげで最終的に警視庁が統括することになりました。それでも数年は大本が分からずじまいで……」
「ほぼ全国規模だったんですか!? え、ってか奥さんとんでもないヤツに引っかかってしまった、って事ですか……」
「誠に遺憾ながらそうなります。約四年前にとある国際的犯罪組織が検挙されたことを覚えていますか?」
「あ、はい! 諸外国からも人員がどんどん投入されてめっちゃくちゃ大変だった大捕り物……えっと、まさか」
「お察しの通り、大本はその国際的犯罪組織でした」
「うぉあ……」
またもや奇声を発した谷々はなんとも形容しがたい表情で口端を下げる。最早言葉が出てこない。マジかよ、と顔に書いてあるようだった。
そんな反応など特に気にも留めず、高明は箸を置く。次いで手に取ったのは湯呑。これもまた微妙に冷めてしまっていた。
「ところで、確かあなたの部署は生活安全課でしたね」
「は、はい」
奇しくも谷々の所属は生活安全課。
──今し方、高明の話に挙げられた事象と深く関わりのある部署だった。
「言わずとも察するとは思いますが、一応。……恐らく、妻のように警察官から事態を軽視されたことのある人は少なくないはず。本当に助けを必要としている人の声を、取りこぼさないように気を付けたいものですね」
「それは、」
咄嗟の返答に窮して谷々は一度は開いた口を閉じた。
非常に残念なことではあるが、過去に谷々もまた似たような場面に出くわしたことがある。時には一部の杜撰な警察官の対応がSNSなどで発信されていることだって一度や二度ではない。そのことが脳裏を過ぎったのだ。
そして、過去の己が請け負ってきた案件、その対応についても改めて鑑みると身につまされるような気持ちだった。全く他人事ではない。
決して冷たくあしらったことなど無い。軽視したつもりもない。だが、いつだってその「つもり」でしかないのだ。果たして客観的にはどう思われていたのだろうか、と。
「あなたも、多少なりとも思い当たる節はあるんですね」
「……はい。全てにおいて相談者や通報者へ親身になって対応出来たわけではないので。最優先の他を少し雑に扱ってしまったかな、と。……あ、いや、蔑ろにしたわけでは無いんですが!」
「職務にあたる中でも緊急性が高い方を優先させることは少なくないですから、その点については致し方がないことです。それに、稀に事件性のない相談もありますからね。所轄ならば県警よりも地域との距離は近い。尚のことそうでしょう」
「はいぃ……」
若干狼狽した様子を見せた谷々へと小さく頷いて、高明は落ち着くよう促す。
なにも皆がそうと言っているわけでは無いのだ。
どうあっても優先順位というものは確かに存在する上、それを間違えることは許されない。警察官という職務柄、一刻を争う場合もあるのだから。そのことでやむを得ず後回しにしなければならないことも当然のように出てきてしまう。
その上で留意しなければならない点があるのもまた事実。
「……何事も、伝え方一つで印象は変わりますから。助けを必要としている人の声を、取りこぼさないように気を付けたいものですね」
「そう、ですね。気を引き締めます……」
言うべきこと、言わざるべきこと。その見極めは常に求められる。だが、それを優先しすぎて相手の不安をそのままにするのはあまり好ましくない。
何度か顔を合わせただけで関わりは多くないが、谷々が悪印象を抱かれるようには思えない。それでも本人からすれば改める必要性を感じた部分があるのだろう。
高明は頭の隅でそう考えながら静かに湯呑を置いた。谷々が難しい顔で視線を落としている間に完食である。
「ご馳走さまでした。では、私は先に失礼します。あなたはごゆっくり」
「あ、はい。お疲れ様です」
そう告げて高明は席を立つ。いつもながら姿勢よく伸ばされた背がその長身を際立たせているようだ。
すでに思考は切り替わっているのか眼差しは前へと向けられている。視線が再び谷々へと向くことはなかった。
「……こっちの方こそ、なんつーか、ごちそうさまでした……」
高明がその場を去って数拍後。半ば呆然と呟いた男の姿があったことを知るのは、隣のテーブルで食事をとっていた職員だけだった。
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