「必要以上の無理を強いたくないんです」
雪こそ降らないものの、寒さは深まりゆくばかり。いくら雪国育ちと言っても空気の冷たさは身に染みる。
そんな日々の中、生活安全部所属である巡査部長──谷々の頭の隅からぼんやりと離れずにいることがあった。
高明は言っていた。折を見て交際を申し込んだ、と。それもそれで気になる話でもあった。
何と表現したら良いだろうか、どこか浮ついた気持ちだった。まるでドラマの一部分を聞いたような感覚。
……要は、続きが気になる、といった気持ちを持て余していた。当時の話を知る誰かが居れば聞いてみたいなぁ、なんて事をひっそり考えるのも仕方のない事であった。
まあそんな事を考えていたとしても、日々、何かしらの相談や事件が発生する。業務に追われて正直それどころではない。
再び高明と顔を合わせたのは、谷々が質の悪い案件をようやく解決へと導ける算段がついた頃のことだった。
久々に面と向かって顔を合わせた高明の姿も、普段よりはどこか張りがない。スーツもくたびれているように思えた。どことなく張り詰めた空気を肌で感じて居心地が悪い。
若干身じろぎをして、谷々は躊躇いつつも口を開いた。
「あのぅ諸伏警部」
「どうされましたか」
「もし可能なら、奥さんとのエピソードとか何か聞かせていただいても構いませんか?」
「おや、随分と唐突ですね」
「あー、えーと、先日の話の続きが気になって。あと今、猛烈に癒し? を求めてます」
「左様ですか」
視線を若干彷徨わせながらも、谷々は「カロリーがバカ高い甘いものを摂取したい気分」という言葉を無理矢理オブラートに包んでそう告げた。
目の前の相手がそんなことを考えているなど流石の高明も考えはしない。小さく肩を竦めるだけに留め、記憶を辿る。
果たして癒しに値する話はどれだろうか。あまりにも該当する出来事が多すぎて一瞬では絞り切れない。
ふむ。高明が右手を顎に沿わせたと同時に、二方向からバタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。
「諸伏警部、至急お戻りください」
「谷々ァ! すぐ戻れ!」
「はい!」
一瞬で空気が張り詰める。真逆の方向からそれぞれの呼び出し。あまり良い予感はしなかった。
小さく頭を下げてバタバタと去っていく谷々を目端に見送って、高明は呼びに来た相手と共に歩き出す。
「何か動きでもありましたか」
「いえ。ただ……今追っているヤマとは直接関係ないと思うのですが、該当の地域でコロシです」
「承知しました。直ぐに向かいましょう」
唐突な事件の発生など珍しいことでは無い。大なり小なり生じるものだ。
谷々の問いかけによって呼び起こされた記憶を無理やり己の中に仕舞い込み、歩みを早めるのだった。
□ ■ ■
付き纏いの一件後、向野の周辺が落ち着いてからしばらくした頃の事。
全く事件が起こらないという訳ではないが、長野県警は一時期全体的にだいぶ落ち着いていた。日々の職務は当然ながらあるとして、急を要する案件や突発的な事件などが無いというだけでも余裕が生じるというもの。
結果として生じた比較的自由に使える時間。珍しくも降って湧いたそれを、高明は若干持て余していた。
(……声が聞きたいと、会いたいと思ってしまいました。これは重症ですね……)
自分のふとした折に湧き上がってくる欲求を把握して、高明は軽く自嘲した。
時折どうしようもなく無性に顔が見たくなる。声を聴きたくなる。その感覚を彼女も抱いてくれているのだろうか。そんなことを考える。
互いに仕事があるのだ。時間が合わないことも間々ある。意識して連絡を取り合おうと思わない限り、穏やかな繋がりが希薄になりゆくのは自然なことだった。
手持ち無沙汰に携帯端末の画面を灯しては消してを繰り返す。
あの事件の後、すぐさま高明と彼女との関係が劇的に進展したわけでもなかった。
確かに向野からの信頼を勝ち得はしたが、良き友人という枠を出ない範囲での関係がゆったりと続いていた。高明が己の胸の内に芽生え始めていた感情を自覚したからといって、すぐにでも関係性を変えたいと思ってはいなかった為である。大切にしたいと思う気持ちが強固だった故の着地点。
それが瓦解した一因は例の付き纏い行為をしていた男の言葉や所業が影響してのこと、というのも中々に皮肉が効いている。
その言葉や所業について詳しくは語らないが、解決後もしばらく高明の頭の隅に残り続けていた。
……結果として正々堂々口説くと宣言し、同時に交際を申し込んだわけである。そう時間を置かずして合意を得られたのは僥倖と言ったところか。
保ち続けようとしていた距離を詰めようと決断をしたきっかけは果たして何だったか。
──今と同じく声を聞きたいと思ったのだ。
夜中にふと、近況を知りたくなった。何か困ってはいまいか。何を思って過ごしているのだろうか。可能ならばあの柔らかで包み込むような声が聞きたい、と。
それを許されるのは、家族、恋人、そういった近しい者だけである。
気兼ねなく声を聞くことを許される関係でありたいと強く思った。
きっと向野は、一人でも生きていける人だ。高明は少なからずそう感じている。
それでも高明は彼女の隣に立ちたかった。何でもないような中身のない話でも聞いていたいと思った。共に歩みたいと思った。
だから行動に移した。それだけだ。
関係性を一歩進め、恋人になれたからといって高明が浮き足立つという事は無かった。地に足のついた思考は健在。至って変わらない。
いや、良い意味での変化はあった。精神面での余裕が生じることが多くなったのだ。より安定性が増した、というべきか。
互いに胸の高鳴りやときめきが無いわけではない。そして、多少なりとも嫉妬や不安は着いて回る。好いた相手なのだから当然のことだ。
ただそれを上回る程、心穏やかに落ち着けるような空気感を築ける二人だった。
それは、高明も向野も相手の不安や落ち込みかけた感情に気付けば、互いに言葉を重ねることを選択する人間だったからこそ作り上げられた空気感なのかもしれない。本当の意味で頭が良い相手との会話にはどこか優しさのような柔らかさを覚えるのだ。攻撃的な言動などは基本的に見られない。包容力、品の良さ、教養、そういったものをほんのり感じ取れる。
向野からもそんな感覚を同様に抱かれているなど、高明は知りもせずに居る。
ついつい考え込んでしまったせいか微動だにしない手。手慰みに触れていた携帯端末の画面はいつの間にか真っ暗になっていた。
(多少は慣れてくれましたが、道は長い……)
ふとした折にどうしても感じる距離。彼女は例え恋人という関係にあっても、女性として見られることをどうにも得意としていないようだった。忌避しているのではないか、と感じるくらいにはそういった接触を好まない。
いつも笑みを絶やさない彼女が内心でどんな気持ちを抱え、どんな苦しみに耐えているか、他者は知らないだろう。きっと気付こうともしないのだ。
高明もその理由を完全に把握しているとは言えないが、察せるものはある。
過去の経験上、向野が異性に対し薄らと常に警戒心を抱いている事を忘れるわけもない。それは最早潜在的に染み付いてしまったものだ。そう簡単に消えるものではない。
高明は様々な面を鑑みて、逆にそれでいいとすら思う。
高明は己が彼女から好印象を抱かれていることを察してはいる。だが、警察官であるなしに関わらず、高明という存在が彼女を傷つけるものでは無いと心の底から納得してもらわなければならないとも感じていた。
それは例え、高明が薬剤混入事件や付き纏い行為の件に関わり、一人間、一友人、そして恋人としての信頼を得ていたとしても変わらない。
これまで、そしてこれからの積み重ねを経て、諸伏高明という存在に彼女が安心出来るのならば。語り合い、共に居ることが出来るならば。もうそれで十分幸福なことなのだ。
高明の心の奥底にある思いはそれに尽きる。
……正直なところ、高明は自身が誰かと交際をすること、所帯を持つことをあまり深く考えてはこなかった。
無意識の内に思考から外していたというのが近いのかもしれない。己にとっての大切なものを、あまり増やしたくないという自己防衛だったのだろうか。
高明が己の中に深く根差す者を多く作ろうとしない理由については、事情がより複雑だ。だが単純明快。──過去の諸伏家を襲った事件。それが起因している。
己の知らぬところで大切に思う存在が傷つけられること、損なわれること。それが何よりも耐えがたい。再び似たような事象が起きらないとも限らない。予期せぬ出来事など、本当に何の前触れもなく訪れるものなのだから。
そんな思いが心の奥底に突き刺さったままなのだ。おそらくは高明本人も意識しない深い部分で。
ふう、と一つ深く息を吐いた高明は携帯端末の画面へと視線を落とす。
近い内に会う機会を得られるだろうか。そんな考えが頭をよぎる。
さっさとメッセージを送るなりすればいいというのに、変なところで踏ん切りがつかない。結局、帰宅後に至るまで高明が向野へとメッセージを送ることはなく。十分に時間を取れる環境を整えてから通話するに至った。
まあ、ある意味での最適解を選んだとも言う。さもありなん。
■
──大分気温も下がり肌寒くなってきた頃の事。
山々も色づき鮮やかな景観を作り出していた。風に運ばれアスファルトの上を転がっていく落ち葉がカサリと音を立てる。その微かな音が耳に届く程に、高明と向野の間には無視できない緊張感が漂っていた。
嗚呼。ゆっくりと深く息を吐きながら高明は自身の浅慮を呪った。珍しくも読み誤ったことを痛いほど身に染みて感じていたからだ。
交際を始めて何度目かの逢瀬。その終わりに差し掛かったふとした瞬間の出来事だった。
「……申し訳ありません。声も掛けずに」
「……い、え……」
二人の間に何があったのか。
──高明が意図的に彼女に触れようとした。正確には彼女の肩を抱こうと左腕を上げたのだ。
そして、伸ばされた高明の手に向野は身を竦ませた。
拒絶という程の反応では無かったが、一瞬にして強張った顔と身体が何よりも畏怖の感情を伝えてくる。周囲の目があまり無い場所であるため奇異の目を向けられることは無いことが、唯一の幸いと言ったところか。
「あの、諸伏さん」
「はい」
「すみません。貴方に触れられるのが、嫌だという訳では、無くて」
慌てて高明を見上げた向野は、自身の無意識ともいえる反応に眉を下げている。紡がれる言葉のぎこちなさに動揺が現れていた。
そんな彼女を前にして、内心焦りを感じていた高明の方が逆に冷静になるというもの。
「ええ、分かっていますよ。……驚かせてしまい申し訳ありません。私の落ち度です」
「そんなことは……!」
「いえ、そうなのですよ、向野さん。……一先ず車に戻りましょうか」
「……はい」
提案しようと思っていたことを告げて、高明は特に気にした様子を見せずに歩を進めた。一拍遅れて向野も足を踏み出す。
これまでの関わりの中で分かっていたのだ。隣に立つのは大丈夫。手の触れ合いも問題ない。だが、それ以上となると途端に萎縮する。
それを分かっていながら、事前に断りなく触れようとしたのは高明の方。恋人だからといって何をしていいわけでは無いのだ。何を許容できるか、できないか、それは人それぞれ違う。
男女間の身体能力の差は大きい。だが男性側は普段から特別に意識していない部分ではある。彼女と共に過ごす中で、ふとした折に感じることはあれど高明もまた同様である。
しかし女性側の視点から見れば、常日頃から感じざるを得ないものだ。その力の矛先を向けられる恐怖も、ずっと付いて回る。彼女に降りかかった害意など最たるもの。
ふとした瞬間に現れるトラウマによる反応。それを目にしたのは一度や二度ではない。
高明が関わった事件、そして過去の経験からトラウマがあるのは重々承知。たった一度でも深く刻まれた負の記憶というものは、いつまで経っても薄らと纏わりつき彼女を苛み続けている。
だからこそ思うのだ。今までぞんざいに扱われた出来事の分まで優しくありたい。目一杯、これ以上ないというくらいに。そして、それを許される存在でありたい、と。
普段から関わりの中で配慮を重ねられてばかりだ、と向野が多少なりとも負い目を感じていることも高明は察していた。だがこればかりは高明としても譲れない部分でもあるのだ。大切にしたい、大事にしたい、そう感じる相手だからこそ自然と慮る行動に繋がっているのだから。
高明の愛車まで戻る二人の足取りは穏やかだが、会話はない。両者共に当たり障りない会話の糸口を見つけられず、どことなく気まずさを感じている所為だろう。
目的地を確認して車を発進させてからも会話は控えめなまま。初めの信号で停車したタイミングで高明はチラリと向野を横目見る。
視線が若干下に落ちている。無意識かつ反射的とはいえ、拒絶の色を見せてしまったことに落ち込んでいるのだろう。あるいは負い目を感じている可能性もある。
(こちらも事情を把握しているのだから、気に病む必要など無いのに……)
高明は内心でそう独りごちた。ハンドルを握る手に若干力が入る。
車内には和やかとは程遠い空気に満たされている。ぽつりぽつりと言葉を交わすものの長くは続かない。無理をしているようにも感じる。
互いに少し気持ちを落ち着かせた方が良いのかもしれない。そんな考えが高明の思考の隅をかすめた。
どこか重さを感じる空気を払拭できないまま、いつの間にか目的地である向野のアパートへと到着する。ここで彼女を送り届けて解散。──となる予定だった。
それが、引き止められ部屋へ上がり込むこととなったのは、彼女の表情がどこか悲壮な色を帯びていたからに他ならない。そんな顔をされては無下に断ることも出来なかったのだ。
「お茶、用意してきますね」
玄関で靴を脱ぐなり、彼女はそう告げてキッチンへと向かう。
その背をじっと見つめて高明は追いかけるべきか否か一瞬迷った。しかしスペースを考えると、二人では手狭になると思い至りおとなしく待つことにした。
程なくして向野はマグカップを両手に戻ってくる。表情は未だ曇ったまま。小さな唇はきゅっと結ばれていた。差し出されたマグカップの片方を高明は礼を告げて受け取る。そしてどちらともなく座卓を挟んで腰を下ろした。
高明がこうして向野の部屋に足を踏み入れたのは、交際前の事件関連を除いて片手に収まる程度。その時に出された飲み物は確か烏龍茶だったな、と頭の隅で記憶を辿る。
一つ深く息を吐き出すと高明は口を開いた。
「先程の件について、気にされているようですが……あれは私の配慮が足りませんでした。本当に、貴女が負い目を感じる必要など無いんですよ」
「……でも」
「恋人という関係性であろうと、それは相手の感情を無視しても良いという免罪符などにはなりません」
眉を下げて見上げる向野の言葉を高明は遮る。基本的に他者の話を一度聞く姿勢を取る高明にしては珍しい事だった。そこに負の感情はない。けれども、穏やかに細められた双眸には強い色が宿っていた。
高明の中でどうしても譲れない考えだったのだ。
「私が出来ること、貴女に対して行ってしまえることなど幾らでもあります。ですが、その行為が可能だからとしても、何をしてもいいという訳ではないんですよ」
それは、今まで貴女を苦しめてきた相手にも言えること。そう言葉を続けて高明は静かな面差しで向野を見据えた。
好意を抱いている以上、そこに様々な欲は付随する。異性としての欲を意識することも当然ながら少なくはない。しかし直感的に早い段階からその欲を見せるわけにはいかないのだと感じていた。
「貴女に、必要以上の無理を強いたくないんです」
「諸伏さん……」
何を言おうとしたのだろうか。向野は一度口を開いたものの言葉を選べず閉口する。そんな彼女を見下ろして、高明はゆっくりと深く息を吐いた。
己を律することは得意なのだ。伊達に堅物だの言われてはいない。
もしもこの先、一線を越えることなく時間が過ぎるばかりだとして、それでも良いと思っている。身体的な繋がりばかりが全てと思ってなどいない。絶対視しているわけでも重要視しているわけでもない。
そもそも、無理強いをするつもりなど毛頭ないのだ。自分の考えや望みばかりを押し付けても精神的な面において進展どころか後退することなど目に見えている。向野の考えや感情を押し潰すのであれば、それは先の身勝手な輩と同じでしかない。
だからこそ、少しでも嫌だと感じた場合はその時点で拒んでほしいくらいだった。
「
──もはやこれは懇願に近かった。
推測では不十分なことがある。他者の感情など最たるもの。いかな優れた観察眼を持つ高明とて今回のように微妙な一線を見誤る。気を付けていようとも無意識の行動は制限できない。どうあるにせよ、向野が不安や恐れを抱くというならば、それが全てなのだ。
僅かに腰を浮かせると高明は身を乗り出した。一人暮らし用の座卓の幅は存外狭いもので、無理せずとも簡単に手が届く。
マグカップを持つ向野の両手。その上から軽く包み込むように手を添える。高明の手よりも小さく華奢な両手はそれだけで殆どが見えなくなった。
陶器越しに伝わる熱がじわじわと彼女の手を挟んでいても高明の掌を刺激する。その事に一瞬眉を寄せつつもマグカップから手を離させ、その小さな両手をそっと救い上げた。
「貴女が思ったこと、感じたことを話してほしい。何となくでも、些細な事でも。深い意味なんて無くても良いんです。──私はちゃんと、そんな話を貴女としたい」
静かに目を伏せて高明は告げた。まるで乞うかのような動作に向野は反応が遅れる。
そんなに丁重に扱われる謂れなどない筈なのに。そんな言葉が聞こえてきそうな程、視線は揺らいでいた。
僅かにきゅっと唇と引き結んだ彼女の顔は高明の視界に入らない。何せその視線は己の両手に収まった小さな手へと向けられていたのだ。そんな高明を見つめ、彼女はゆるりと慎重に言葉を選びながら口を開く。
「その、さっきも言ったように、諸伏さんと触れ合うのが嫌という訳では無いんです」
「はい」
そもそも嫌なら交際の申し込みも断っている。そう告げ、向野は更に続ける。
「今までだってずっと、優しくて。すごく、すごく嬉しかったんです。大事にしようとしてくれてるんだな、って伝わって、苦しいくらいで」
普段よりも言葉にまとまりがない。湧き上がる感情が飽和しつつあるのだろう。それでもどうにか言葉にしようとしている。
高明が若干伏せ気味だった顔を上げれば己を見上げる向野と視線が交わった。それも、考えていたよりも近距離で。彼女がテーブルに、いや高明へと身を寄せてきていたのだ。
ハッと瞠目した高明をどう思ったのか、向野の瞳が僅かに揺らいだ。
それを境に二人の間に沈黙が落ちる。互いに視線を逸らせない。しかし気まずさや居心地の悪さがあるわけでもない。
秒針が拍を刻むこと六度。その後に口火を切ったのは向野だった。
「──抱きしめて、もらえませんか」
唐突な要求に高明は虚を突かれた。
咄嗟の返答に窮して彼女の顔を見返し、そして息を呑む。
緊張で強張った表情。覚悟の入りようが見て取れる引き結ばれた唇。落ち着きなく彷徨う視線。身体には力が入りすぎてガチガチだ。
はたしてその言葉を口にするため、どれ程の強い意志が必要だったのだろうか。
その気持ちだけで十分だと思った。柔らかくフッと吐息をこぼして、僅かに眉を下げた高明は微笑んだ。柔らかな声で彼女へと呼び掛ける。
「向野さん」
「は、い」
「今日はやめておきましょう」
「……大丈夫です」
「無理はしないでください。気持ちが伴わないのであれば、それは自傷行為に等しい。流石に見過ごせません」
大事にさせてほしいのだ、と。再度そう告げる。
けれども彼女は首を横に振った。腹をくくったのだろう。その眼差しには先程のような揺らぎなどどこにも見当たらない。
「克服する良い機会だと思うんです。……このまま、ずっと触れ合えないままなんて、正直嫌なので」
「ですが」
尚も高明は難色を示す。その理由を正確に察して向野は眉を寄せた。
自身の態度が原因である。分からないわけがない。真摯に感情を向けられて気付かぬほど向野は鈍感ではないのだ。だからこそ、変に誤解を招く前に、と恥を忍んで胸の内を明かすことを選択した。
「先程のは別として、今のはその、…………ちょっと恥ずかしかっただけです、ので」
「……そう、ですか」
「はい」
うろ、と気恥ずかしそうに視線を彷徨わせた向野を前に、高明は反射的に力を込めかけた己の両手を制するのに必死だった。今すぐにでも抱きしめてしまいと思った。ギュッと締め付けられたかのように胸が苦しい。
二人の間に再度沈黙が落ちたのは含羞の色が滲んだ為だ。仕方あるまい。
先程の沈黙とはまた違った温度が二人の間にはあった。もしもこの場面を誰かに見られていたのならば突っ込みを入れられただろう。付き合いたての学生か、いや学生でもここまでモダモダしないだろう、と。
しかし高明も向野も最後の距離を詰められない。双方共に頭で考えすぎて結局は着地点を見失ってしまったかのようだ。
それでも、ずっとこのままでは居られない。一度咳払いをして高明は彼女へと問いかけた。
「……本当に、よろしいのですね?」
「……ぅう。大丈夫なので、もう一思いにやっちゃってください……」
自身が抱擁をねだったことを再確認させられて向野の頬に朱が刺す。ふいっとその顔を背けて蚊の鳴くような声で答えた。
了承を得た高明は一呼吸を置き、立ち上がると座卓を回り込んで向野の隣へ少しだけ距離を開けて座った。その微妙な距離感を責めるようにジッと見上げられる。一瞬視線を逸らして息を吐き、残った僅かな距離を詰め、そしてそっと両腕を上げた。今度はそれに怯まれることも無ければ拒まれることもない。
緊張で力の入った彼女の身体はお世辞にも抱き心地が良いとは言えなかった。少しでも落ち着くようにとピンと伸びた背を撫ぜる。その対比で薬剤の影響によって体の自由がままならなかった彼女を抱き止めた時の記憶がまざまざと蘇る。
──あの時の弱弱しく精一杯もがき抵抗していた姿。間近に見て込み上げてきた焦心は未だ高明の中から消えずに薄らと残ったままだ。
それが、状況が違うというだけで、こんなにも何もかもが違う。
右手でリズムを取るように、とんとん、と軽く向野の背を叩けば徐々に身体の強ばりが取れていく。赤子をあやすように宥めないでほしい。そう言われてしまうかもしれないとも考えたが特に何かを言われることはなかった。
大分緊張がほぐれてきたのか、向野の肩から力がゆるりと抜けていく。ぎこちない動きで高明の背へと伸ばされる手はどこか遠慮がちだ。ごそごそと少し動いた後、動作が止まる。安定する位置を見つけたのだろう。高明の胸へと無防備に預けられた頭部は動かない。
「……なんというか、安心します」
ぼんやりとした覇気のない声色。緩慢に瞬きする向野の様子はどことなくふわふわとしている様にも感じた。
「そ、うですか」
「はい」
気の抜けた表情と言葉に、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
高明という存在に安心感を覚えてもらえるという事にこの上ない喜びを感じる。しかし、安心しきられるというのも、若干の複雑さを覚えずにはいられない。
そんな矛盾を感じながらも高明は両腕に込める力をほんの少しだけ強めた。
(……これだけでも十分だというのに、別の願望まで込み上げてくる)
これが大丈夫ならば次は──、などとあれこれ際限なく浮かんでくるのだ。己がこんなにも欲深な人間だったということを思い知る。共に過ごすことが出来るならば、それだけで良いと思っていたはずなのに。
──可能ならば、その心身に深く触れることを許して欲しい。
願望であり欲望。それは言葉にはならず喉の奥に押し込まれた。
しかし、もう少しだけ、欲張ってみても良いのだろうか。高明は逡巡する。向野を囲うように回した両腕に必要以上の力が入りそうになったのは悟られないことを祈るほかない。
考えること二呼吸分。ほんの僅か唇に力を込めて高明は言葉を発した。
「時に向野さん、こんな時だからこそのお願いがあるのですが」
「え、はい。何でしょうか?」
「そろそろ名前で呼んで貰えたらと思いまして」
「……名前」
「ええ」
向野は目をぱしぱしと瞬かせる。珍しい高明からの要望を頭の中で反芻させるも、理解するまで若干時間が掛かった。
まどろみの中に居るような心地よさから急に現実に引き戻されたように思考がクリアになっていく。そして自然に背筋が伸びた。
まだ気恥ずかしい。当たり障りなく躱せそうだろうか。そんなことを考えれども高明の腕の中である。逃げ場はない。いや、本当に受け入れられないのであれば、先に告げた言葉通り即座に引くだろう事は向野も分かってはいるのだ。
向野とて何も考えたことがないわけでは無い。羞恥が先だって呼べていないだけで、いつかは名前で呼び合いたいと考えてはいた。
……そう。言うなれば良い機会なのだ。先程彼女自身が高明に告げていたのと同じように。
一瞬反応が遅れたものの、感触としては悪くないと察した高明はもう一度問いかけた。
「駄目でしょうか」
「う……」
向野が受け入れられるギリギリを見極めて、ここぞと言わんばかりに畳みかけてくる。キュッと両目を瞑った彼女が小さな声で「だめじゃないです……」と呟いたのを高明の耳は確かに拾った。
雨降って地固まるとでも言うべきか。はたまた怪我の功名とでも言うべきか。
何はともあれ、この日を境に二人の距離は精神的、物理的な面において更に縮まったというのは、まあ言うまでもないことだろう。
諸伏高明という男は誠実だ。臨機応変に対応できる柔らかい頭脳を持っているはずだというのに、時に堅物、時に頑固。しかしどこかお茶目な面も持ち合わせている。
そんな一面を彼女が数日後に知る事となるのだが、それについては割愛するとしよう。
12月から更新再開するとか言っておいて、仕事に追われて更新できずにいました。すみません。少しずつweb用に編集作業進めていきます。