「……私の話を聞いてはいただけませんか」

とある場所へと花を供えに赴いた後しばらく心をざわつかせていた頃も、幼馴染が行方不明となっている間に奔走していた時期も、警視庁へと赴き弟の遺品とも取れる穴の空いたスマートフォンを受け取ったその日も、高明の側には彼女がいた。
その事によって高明がどれだけ必要以上に心を波立たせずに済んだのか、彼女は知らないのだろう。高明もわざわざ言葉にせずいたのだから当然だ。

当時の事を、まるで昨日の事のように思い出せる。
いずれの時も向野の反応は大きく違わない。彼女の反応は、高明が思っていたよりも落ち着いたものだった。誤解なきよう明記するが、決して突き放すような冷たさを伴っているわけではない。悲壮な顔をするわけでもなく、同情を寄せるわけでもなく、ただ事実を受け止め深く頷いていた。
自身の心境や過去の出来事などについて、次から次へと言葉が湧いてくる。そうして他者に話したことで高明の中でも次第に感情の整理が出来てくる。
やがて高明が言葉に迷って口を噤めば、相槌と共に話を聞いていた向野も同様に沈黙した。静けさが訪れるが、それは決して冷たいものでは無かった。
無理に励まそうとするわけでもなく、下手に慰めを口にするわけでもなく、同調と労りを持って側に居てくれる。それが却ってありがたかった。


■


──作家であり、高明にとって特別とも言える存在である小橋葵。その死後二年が経過しようとした頃の事。
高明の記憶の中にずっと残り続けている会話が幾つか存在している。その内の一つが小橋葵の著書である『2年A組の孔明君!』についてのやり取りだった。
高明は死亡時の詳細は語らず、同級生が亡くなった場所へ花を供えてきたこと、同級生が小説家であることを向野に告げた。後に思い返すと、己の中で整理をつける面も強かったのかもしれない。
そうした会話の中で、向野は小橋の書いた本を読んでみたいと呟いた。高明がモデルとなった人物が登場することを知った向野はその本に興味津々だったのだ。
何気ない会話の中でこぼされた呟きを拾って高明は純粋に驚いた。元々あまり仕事以外では必要以上に本を読まない、という話を覚えていた為である。
自分の所持している物で良ければ、とグローブボックスに収納し大事に持ち歩いている一冊を数日貸し出す事を決めたのは、向野が高明にとって既に特別な位置にいたから。そして物を大切に扱う人だと知っていたからに他ならない。どうでも良い相手や物を粗雑に扱う者に貸し出せるほど、この本は軽いものではないのだ。

「私は、学生時代の高明さんを知らないので……代わりにその本を読んでみたいと思ったんです」

高明を見上げてそう告げた向野はどこか切なげに小さく笑った。

「モデルにされているということは、書いた方から見た当時の高明さんが詰まっているんだろうな、って思ったんです。だから、あんまり小説は読まないんですけど、読んでみたくて。登場人物の、それも主人公のモデルにするって、それだけ書いた方にとって高明さんの存在が大きかったということでしょう……?」

若干目線が落ちた向野の言葉に高明は微かに息を呑んだ。
確かに登場人物のモデルにはなっているが、エピソードなどは純粋に作者である葵が書き上げたものだ。そこに過去の高明の行動や出来事は関係していない。だからこそ滲み出る筆者の抱く印象や感情。登場人物のモデルともなれば殊更である。
小橋の書き綴る世界。その主人公の土台に値する対象として選ばれた事を光栄に、そして誇りに思っていた。同時にその描かれた人物像に恥じない人間でありたい、とも。それ程まで、高明にとって小橋とその著書は大きな存在だったのだ。
一度口を開くも言葉が出てこない。はくりと声もなく閉じて、心臓が落ち着くのを待つ。
そして息を深く吐き出した高明はゆるりと口を開いた。

「……紗弥さん」
「はい、何でしょう?」
「以前あまり本を読まないと仰っていた記憶がありますが、実際は本を読む側の人間ですね」
「えっ」
「本当に本を読めない人は、まず読もうとすらしないんですよ。ましてや著者や筆者の意図や思考も考えない。知ろうとなどしないものです」
「うーん。でも、本当に読まないんですけど……。ああ、もしかすると高明さんが大切にしている本だから、余計に知りたいと思ったのかもしれません」

へにゃりと相好を崩して向野は穏やかに笑った。
たったそれだけのこと。だというのに何故だろうか。目の奥が熱くなる。それを隠す為にさりげなく目を伏せることで視線を逸らしたこと。胸の内にじんわりと込み上げてくる熱いものがあったこと。きっと、彼女は気付いていない。高明が悟られないようにしていたのだから。
高明が大事にしたいと思うもの、深く心に根ざすもの。それを知ろうとして、更には大切にしようとしてくれる。その事実が、嬉しくて仕方がない。どうしようもなく心が揺さぶられる。

「……ありがとうございます、紗弥さん」
「いえ、こちらの方こそ貸してくださってありがとうございます。次にお会いするときまで読み終えられるよう頑張りますね」

高明が告げた感謝の言葉。その裏に込めた意味とはだいぶズレた返答に小さく笑んで、微かに震える息を吐き出した。
平静を保っていたつもりだが、向野から見て多少の違和感があったのだろう。気遣うように名を呼ばれてハッとする。
何でもありませんよ、と柔い声色で答えて高明は静かに瞑目したのだった。


■


──幼馴染が捜査の最中に消息を絶ったことで、その足取りを辿るため奔走していた時期の事。
高明は逃亡する被疑者を追っていた。普段ならば選択しなかったであろう手段まで行使して。
なお、この被疑者というのは、幼馴染である大和敢助の行方が分からなくなる直前まで追っていた相手だった。
高明の双眸から消えることのない冴え冴えとした鋭さ。強引な捜査や目に余る単独行動に、上司から制止や忠告されることはあれども止まることはなかった。
当然だろう。大和の行方について知る可能性が高い人物をみすみす逃すつもりなど毛頭なかったのだ。だからこそ、被疑者の確保に注力する高明の気持ちは殊更強かった。
一連の行動に滲む個人としての感情。一刑事としての領分や権限をはき違えているわけでも見誤るわけでも無く、大分ギリギリの線を渡り歩いていた。
丁寧な物腰から誤解されがちだが、諸伏高明という男は一度でも腹を据えれば梃子でも動かぬ意志の強さを見せつける。それが、この一件で片鱗が現れただけに過ぎない。
一人、また一人と同じ捜査一課の刑事たちが諦めの言葉を口にし始めても高明の頭に諦めの文字が浮かぶことは決してなかった。
──遺体が上がってなど、いないのだから。
そして少なからず、大和ならば何を最優先に望むのか、という思考に影響されていたことは否めない。長年の付き合いなのだ。意思を汲み取れないわけがない。おそらくは、自分の安否がどうであれ被疑者の確保を望むだろう。下手な感傷を抱く暇があるならとっととヤツを押さえやがれ。そんな事すら言いそうだ。
時に自分の身すら顧みない大馬鹿者。見つけ出した暁には絶対に、上原と共に文句を言ってやる。そんな思いを燻らせつつ、高明は必要とあらば昼夜問わず車を走らせた。
その脳裏に時折、活を入れんとばかりに出現する大和は決まって随分と煽ってくれるものだった。リアルすぎて逆にスンと思考が冷静になるというのは、どこか癪だったが。

そうして、忙しなさと比例するように高明の生活は徐々に余裕を失っていた。
アパートと職場の往復。時に泊まり込み、時に県外までも車を走らせる。最優先と言うものを定めてしまったが故に、それ以外の事は疎かになりがちだった。そんな日々が長く続いたのだから必然とも言えよう。
まあつまりはしばらくの間、向野を顧慮する気持ちや態度が薄れてしまっていた。
交わされていたのは業務連絡の様な淡々とした短文のやり取り。時にひと月近く、連絡すら取らないこともあった。完全に余裕が無くなる前に詳細は伏せて忙しくなる旨は伝えていたものの、良く愛想をつかされなかったな、と後にヒヤリとしたものだ。

『詳しくはお伝えできませんが、これから忙しさに身を置きます。期間は……分かりません。なので、どうしても貴女に時間を割けない事態になってしまうことが出てきてしまう可能性が高い。申し訳ありません』

これが、大和との連絡が取れなくなって数日経った頃に向野へと告げた言葉だ。それも直接では無く電話越しに。
一方的に捲し立てるわけでは無かったが、普段よりも早口になってしまっていた自覚はあった。ハッと我に返り更に言葉を重ねる。

『忙しくなると申し上げましたが、何もできないという訳ではありません。なので、何かあれば直ちにご連絡ください』
『わかりました。すみません、気を遣っていただいて』

機械越しの音声はどこかざらついている。ノイズも走る。けれども彼女の声のトーンと話し方は至って通常通り。普段と何ら変わりない。
それが却って、薄らと纏わりつく焦燥に追い立てられそうな高明の心をやんわりと宥めた。知らず内に詰めていた息を吐き出して、高明は向野の言葉の続きを聞く。

『確認なんですけど、合鍵は使っても構いませんか?』
『ええ。そのためにお渡しした合鍵です。私が部屋にいないことの方が多いかと思いますが、ご自由にお使いください』
『それを聞けて安心しました。お邪魔するときはいつも通り一度連絡を入れますね』
『かしこまりました』

高明の返答を境に会話が途切れる。
早々に電話を切るのは憚られるが、時間は有限だ。今も合間を見計らって連絡を取っている状態である。
逸る心を落ち着かせて高明は通話を終わらせようと口を開く。すぅ、と息を吸い声を発するよりも先に、彼女が高明の名を呼んだ。

『高明さん』
『何でしょう』
『……お気をつけて』
『はい。ありがとうございます』

言いたいこと聞きたいことなど、きっと数多くあっただろうに。言葉を飲み込んで高明の身を気遣う言葉だけを告げた向野に、思わず軽く息を呑む。
嗚呼、と深く息を吐いて通話を終わらせるためにボタンを押した。
瞑目して思うことは、やはりメールでは無く通話を選択して良かった、という事。
ゆるりと瞼を開き、通話記録が表示された画面を数秒間見詰める。再度深く息を吐き、顔を上げればそこに在るのは刑事としての顔だけ。
こうして高明は被疑者と大和の行方を追うため捜査に身を投じたのだった。

──後に向野本人から聞いたところによると、時折上原からも話を聞きながら過ごしていたのだという。
その事実に高明はどこか腑に落ちる思いだった。
余裕を持てず張り詰めた高明が纏う空気、涙を堪えながら自身のやるべきことに注視し決意を固めた上原、この二人を通じて少なからず交友があった大和の安否不明の知らせ。
半年の間に物事は絶え間なく動いていた。それを目の当たりにして向野も動揺しなかったわけがない筈だ。
それでも彼女は彼女で考えを持って過ごしていたのだ。
前情報があったからなのか、向野は度々高明のアパートを訪れては何かしら冷凍庫に作り置きを残すようになっていた。事前に一報を入れていたとはいえ、あまりにも彼女に甘えてしまう結果となった訳である。

被疑者の逃亡と大和の行方不明に連なる諸々が落ち着いた頃、高明はようやく落ち着いて会う時間を取ることが出来た。まともにゆっくりと顔を合わせるのも実に数カ月ぶりである。

「お気遣いくださり申し訳ない。貴女の厚意に甘えるような事態になってしまい……。ですが正直助かりました。本当に、ありがとうございます」
「いえ、私に出来ることはこれくらいしかありませんでしたから。お役に立てたのでしたら良かった」

苦い顔で高明は自身の至らなさを侘びるも、彼女は神妙な顔をして首を横に振る。
浅慮などでは無い。親しい者の生存を望み、奔走する事の何が悪い。当たり前のことだ、と。
その言葉に、常に力が抜けずにいた肩が軽くなったような心地だった。そして同時に、無性に彼女を抱きしめたいという思いに駆られたのは致し方あるまい。……この頃には向野も高明に慣れて自分から接触することも尻込みしなくなっていたのだ。

「……しばらくお会いできなかった分、抱きしめても……?」
「え? ふふ、構いませんよ」

一言断りを入れると、彼女をその腕にすっぽりと抱き込んで高明は深く息を吐く。背中に添えられた向野の手にそっと労わられているようだった。
それがあまりにも優しいものだったから、高明はたまらず両腕に力を込める。多少の息苦しさを覚えているはずだろうに向野は小さく笑った。

「大和さんが退院されたら、お祝いしましょうね」
「……そうですね」

無事に、と言い切る事は出来ないものの、最悪の事態を免れて一件が終息した安堵。それと同時にどっと押し寄せてくる倦怠感。
心境としては若干軽くなったとは言え微々たるものだ。今は疲労感の方が勝りはじめている。
反応が若干鈍くなりつつある高明をどう思ったのか定かではないが、向野は一度不思議そうに首を傾げるも穏やかに表情を和らげた。

「何だかんだおっしゃってますけど、仲が良いですもんね大和さんと」
「……仲良しなどでは、ありません」
「まぁたそんなことを言うんですね……」

意地っ張り。どこか呆れを滲ませて向野は小さく肩を竦める。
なおこれは、被疑者確保と大和捜索においての強引な行動が尾を引いて、所轄へと移動を命じられたその日の会話である。
結局、新野署へ移動となることを直前まで告げずにいたことでひと悶着あったりなかったりするのだが……それについては割愛しよう。


■


──警視庁に赴き、弟の遺した穴の開いたスマートフォンを受け取ったその日の事。
帰りの新幹線の中で、高明は窓の外に視線を向けて重く嘆息した。働かせすぎて逆に鈍くなりつつある思考の隅で考える。
最後に弟の声を聞いたのは果たしていつだったか。ある時期からパッタリと連絡が取れなくなって久しい。一抹の寂しさを覚えるが、便りが無いのは元気な証拠とも言う。例えどこで何をしていようとも息災であればそれでいい。……そう、思っていたのだ。

(警視庁では、推測としてあのように告げましたが……)

僅かに唇を引き結ぶ。警視庁で封筒を受け取り中身を確認した時、明晰な頭脳は瞬時に複数の可能性を叩き出した。
──公安。その単語がどうあっても浮かんでくる。
警察において公安という部署に関する物事は秘匿されること多い。それだけ特殊な部署なのだ。
場合によっては所属した事実そのもの、死に至った経緯、それどころか殉職したことすら秘匿されることもあると云う。そんな部署に配属されたであろう弟の遺品と思しき物が、わざわざ複数の手を介して高明の元へと届くようにと渡ったという、その意味。
かつて弟から聞いた親友(・・)が手を尽くした結果だとして。高明の元にこれしか(・・・・)戻せなかった、ということの意味を考える。
殉職を示唆する物品の逓送。これすらもまた何かのフェイクの一つではないのか。本当は生きて身を潜めていて、切迫した事態を打開するためのカモフラージュとしてこの手段が使われたのではないか。……そんな考えが残り続けているのは、一縷の望みに縋りたいが為だろう。

諸伏高明という男は存外諦めが悪いのだ。
こと人の生死に関わる事においては、特に。
しかし、こんな無惨な状態のスマートフォンをまざまざと突きつけられて平気なわけがない。貫通した弾痕。ひび割れた画面。付着して黒ずんだ血痕。命に関わる事があったのだと一目見て察せられる程に状態は酷い。
トンネルに入ったことにより窓が鏡のように反射する。
つい、と何気なく映し出された己の顔へと視線を向けて高明は僅かに目を見開く。次いで唇を硬く引き結んだ。
──目元がよく似ている。
兄弟を知る者からは良く言われることだった。
平常時よりも少しばかり早い鼓動を自覚して高明は軽く目を伏せた。瞼の裏に幼き頃の弟の姿が浮かんでは消えていく。
それも内ポケットの中でヴヴッと携帯端末が震えたことで霧散した。同僚からの連絡か、と思い取り出して画面を見れば、入っていたのは向野からのメッセージだった。

(……そういえば今日は、紗弥さんが来て料理をして行くと言っていましたね……)

ぼうっと微動だにせず高明は携帯端末に表示されるメッセージを見つめる。
ぐるぐると纏まりなく回り続ける思考。その中にポンと浮かんできた欲求を振り払うことが出来ない。
張り詰めた息を解けるような、一呼吸を置けるような、自然と息が出来るような、そんな彼女の空気感を求めていた。
向野に会いたいと思った。けれども同時に、会いたくないとも思った。矛盾した気持ちを抱えて高明はその顔を歪める。
今彼女に会ったとして、普段通りに接する余裕はない。逆に気を遣わせてしまうだろう。悔しい事だが高明にはその自覚があったのだ。
どれほど取り繕おうともきっと察せられてしまう。以前の高明が向野の異変に気付いたように、向野もまた高明が気落ちしていることを直ちに気付くだろう。互いに相手の変化には敏感なのだから当然の結果とも言えた。
あれやこれやと考えても結局帰宅するのだから、向野と顔を合わせることは決定事項。ならばせめてもう少し心の整理をつけてから会いたかった。
心配をかけるのは本意ではない。幸いにも新幹線が長野に到着するまでは時間がある。限られてはいるがその間に鼓動も思考も落ち着かせなければ。
深く息を吐いて目頭を揉みほぐした。

長野駅に到着後、車を走らせる間にも空は徐々に色を変えていった。高明がアパートに到着した頃には日没の一歩手前。山の端はまだ薄らと明るいが、夜の帳は落ちようとしていた。
車から降りて自身の借りている部屋へと視線を上げれば、明かりが灯っている。予定通り彼女が訪れていることを察して僅かに目を細めた。
無言で階段を上がると高明は鍵を開ける。いつも通りだが、どこか緩慢な動き。意図せず零れた溜息が重く床に落ちた。
解錠の音に気付いたのかトタトタと近づいてくる軽い足音。施錠し直して高明が靴を脱ごうと屈んだ瞬間、パッと表情を明るくさせた彼女が姿を見せた。

「おかえりなさい高明さん」
「……、……、ただいま、戻りました」

靴を脱ぐ途中という、中途半端な体制で動きを止めた高明を出迎えた柔らかな声。
もう、それだけでダメだった。
彼女の滲み出る優しさが今は逆に苦しいくらいだ。包み込まれるような感覚に力が抜ける。顔が自然と地面を向く。情けない顔をしている自覚があるせいで中々顔が上げられない。
俯いたまましばらく顔を上げずにいる高明を不安に思ったのか、向野が近くで膝をつく。

「高明さん、もしかして具合が悪いんですか?」
「……いえ、体調は問題ありません」

自分の顔を覗き込んでくる彼女は随分と心配そうに顔を歪めている。このような事態になってしまうことは多少読めていた。だからこそ気持ちを整えてきた、筈だというのに。

(結局、心配をかけてしまった)

こうまで己をコントロール出来なくなるとは誤算だった。
一向に落ち着かない鼓動と纏まらない思考が、動揺を如実に物語っている。
若干よろけながら体勢を立て直した高明の手元──正確には手に持った鞄へと細い手が差し出される。向野が鞄を預かろうと手を伸ばしたのだ。その面持ちは硬い。

「持ちます」
「大丈夫ですよ。それから、貴女に荷物持ちなどさせられません」
「でも」

やんわりと断るも簡単には引かない。たった今よろけてしまった姿を見てしまっている以上、職業柄見逃せなかったのだろう。
今しがた告げた言葉は紛うことなき本心である。だが、それが全てではない。内に秘めておこうとしていた言葉も当然ながら存在していた。それを聞けば、きっと彼女は委縮してしまうだろう。
しかし、何故だろうか。胸の内にしまっておくはずだった事がスルリと口からこぼれ落ちた。もしかすると無意識の内に、向野には知ってほしいと思っていたのかもしれない。

「……弟の、遺品と思われるものを受け取ってきたんです。この中に入っているので、申し訳ないのですが気持ちだけ頂戴します」
「っ! そんな、すみませんッ!」
「いえ。むしろ気を遣わせてしまい申し訳ありません」

反応は予想通り。ビクリと肩を跳ね上げ、次いでおろおろと狼狽えた様子で眉を下げている。
……こうなると想像が容易だったからこそ先程は言葉を選んだのだ。
己を落ち着かせるために深く息を吐いて、高明は腹をくくった。

「もし今夜、お時間があるなら……私の話を聞いてはいただけませんか」

ハッと目を見開いた向野はぎこちなく頷く。
長い夜になりそうだ。この時はどちらともなくそう思ったのだった。
──しかしそう言っておきながら、高明が今回の件について詳細を語ることはなかった。警察組織の中でも特殊な部署と関わりのある確率が高い話など、一般人の彼女の耳に入れるのも憚られたためだ。
そんな事情もあって、話の内容は弟の景光のこと、そして家族のことが主となった。

彼女とは数年の付き合いになるが、家族について深く話したのはこの時が初めてとなる。
決して伏せていたわけでは無い。だが高明の場合は過去が過去だ。家族の事に深く触れようとすれば必然的に夫婦惨殺事件、幼い弟と離れ離れとなり親戚に預けられて過ごした事に触れなければならなくなる。
高明の過去を知る事で彼女の重荷にならないとも言えない。未だ時期早々だろう。そう判断しての事だった。
だから、来るべくして来た機会だったのだと後の高明は言う。
両親と弟について、過去の事件、そして今回の遺品の件について。胸の内に燻ぶっていた事までもうっかり言葉にしそうになっていたのだが、それについては無理やり喉の奥に押し込めた。
高明が意識しない所でよほど弱っていたのか、向野の傾聴力が高かったのか。判断に困るところである。

話を全て受け止めて、それでも向野の態度は変わらなかった。
こうしたふとした瞬間に彼女の精神力の強さを感じるというもの。この数年で分かっていたことではあるが、少しだけ見くびっていたのかもしれない。


■
 

節目節目にある彼女の姿。その度に精神的な面においての繋がりが深まるのは自然な事だろう。
そうしていつしかどうしようもない程に、無くてはならない存在になっていたというわけである。さもありなん。


■2025/3/5/
製本にした中の六章。
ここは複数の話をかなり駆け足で詰め込んだというかなんというか。今編集していて物凄く書き直したいな!!!と思う。


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