「争気ある者とは与に弁ずるなかれ」
※今回は特にモラハラ、DVに関連する描写があります。トラウマがある方や苦手な方はご注意ください。
彼女との思い出の中には、喜楽ばかりではなく苦い記憶というものも当然のように存在している。
あまり思い出したくない類のものもあるのだが致し方あるまい。己以外の他者と関わるという事は、想定外のすれ違いや勘違い、意見の相違などは付き物である。
──高明が結婚を考え始めた頃の事。
あれは確か、一年の中で夜が一番長い日に起きた出来事だった。
至って交際は順調のように思えていた。それが緩やかに、じわりじわりと影を帯びていく。心地よい関係を築けていたはずだったというのに、再び距離が開いてしまった。
いや開いたと言うよりも、徐々に振り出し近くに戻ったと言ったほうが近いのかもしれない。非常に好ましくないデジャヴである。
忘れもしない薬剤混入事件、付き纏いの解決後の頃と変わらない距離感とまでは言わないが、近くに居るのに遠く感じる。そして彼女の笑顔にもどこか無理が滲んでいるようにも見えた。ふとした瞬間に浮かぶ不安。それに気づいていながらも、高明は踏み込みきれずに二の足を踏んでいた。
事件性がありそうならば躊躇せず彼女が相談できるだけの信頼関係を築けていた。そして高明も迫る危険の兆候に鈍感なわけでは無い。それを踏まえるとその線は薄いと断じることが出来るというもの。仕事や対人関係で悩んでいるのであるというなら、高明には話を聞くことくらいしか出来ない。つまりどうすることもできなかった。
……まさか原因が自分であろうとは、その時の高明は考えてもいなかったのだ。そうしてついに向野が限界を迎えた時、重い口が開かれてしまった。
「──私は貴方の傍に居てはいけないんだと思います」
静かな、けれども硬さを含んだ声は室内に落ちて転がった。自分の部屋だと言うのに居心地の悪さを肌で感じて高明は身を硬くさせる。
この言葉を受けた時、高明は意味を理解するのに若干の時間を要した。
何故そんなことを考える。何故そんな思いを抱くに至った。自分の何が至らなかった。言葉の真意を理解しかねて思考が空回る。
彼女から己に向けられる感情がどのようなものであるか正確に把握していたつもりだった。異性として、それ以上に人として好意を抱かれている自負がある。決して自意識過剰ではない。
だというのにこの体たらく。
一体何が彼女を不安にさせたのだろう。焦燥に駆られながら高明は思考する。本当に分からなかったのだ。
愛想を尽かされるというならば不本意ながらも多少の心当たりはある。何しろ生活は不規則。会える機会は少なく、かつ約束を反語にしがちな日々だ。ただ、それだけで彼女が意気消沈し高明の隣に立つことを躊躇するようになるのか。そう考えた時に高明はどうにも違う気がしてならなかった。
威圧感を与えぬよう声のトーンや速さに気を遣い、どうにか本音を引き出そうとする。
「何故、私の傍に居てはいけないなどと……。話してはくれませんか、貴女が何を思って、何を感じているのか。今日は幸いにも時間がたっぷりあります」
緊急の招集がなければ、という言葉はつくが。
残念ながらその辺りに関しては高明でもコントロール出来ない部分であるため、その時はその時で仕方のない事だと割り切るしかない。
多少の懸念はあるものの一旦は目を瞑り、高明はひたりと向野を見据えた。
沈黙が落ちること幾ばくか。向野は静かに口を開く。
「……高明さんは優しいと、すごく思います。その優しさに私が勝手に嫉妬しているだけです」
平等に、正しく優しい。
一刑事としても、一人の人間としても。それに少なからず救われた人間はきっと多く居る。
そしてその明晰な頭脳に加え、物腰柔らかな立ち振る舞いと端麗な容姿だ。秋波を寄せられることも皆無ではないことを彼女も薄らと察していた。
……他ならぬ自分がそうだったように。
彼女はそう言った。涙が滲むような震えている声だった。無理矢理笑っているのがありありと伝わってくる。見ていて痛々しい程、その表情は引きつっていた。
「でも、その当たり前の優しさに嫉妬するなんてことなんて、ダメな事でしょう」
その考えが彼女を追い詰めていたのか。ようやく会得がいく。しかし納得は出来ずに気持ちはざわついたままだ。鳩尾の辺りに鉛でも詰まったような感覚に襲われる。
──どこが優しいものか。高明は内心で呟いた。必要に駆られて職務を円滑に回すため、寄り添う姿勢をわざと取ることもある。全てに対し純粋な優しさを向けることが出来ているなど欠片も思っていない。そんなことは己自身が一番理解していた。だからこそ彼女の言葉に首を横に振る。
言い表しようのない焦燥が高明の胸をざわつかせる。何故だろうか、嫌な予感がしていた。大概にしてその予感というのは外れないものである。
そして遂には、決定的な言葉が彼女は口から放たれた。
「ごめんなさい。私と、別れてください」
例え冗談だとしても、聞きたくない言葉だった。彼女の口から発せられることすら想像したくなかった言葉だ。
音もなく瞠目して高明は半ば呆然と向野を見下ろした。
彼女の肩が小刻みに震えている。グッと引き結ばれた唇が痛々しい。涙がこぼれそうになるのを我慢しているのだろう。伏せられた長いまつげが微かに揺れた。
「待ってくださいっ」
「ダメなんです、私、つまらないことで、こんな……」
か細く震える声で言葉を発する彼女の方へ足を踏み出せば、それと同じだけ後退られる。
高明の心臓はバクバクと早鐘を打っていた。息も自然と浅くなる。それでも思考は妙に冴えわたっていた。
彼女の倫理観は随分としっかりしている。そう思ったことは一度や二度ではない。常に正しくあろうとする姿勢には好感を持っていた。だが今はそれが裏目に出てしまっている。そして同時に考えられるのは薄らと感じていた向野の自己肯定感の低さ。その面が強く影響しまっているのだろう。
頭の隅ではそんな分析しつつ、この事態をどう納めるのが最適なのか思索する。
しかし、堪えきれなくなったように零された彼女の一言でそれは途切れた。
「私なんかが」
「──紗弥さん」
それ以上彼女自身を下げるような言葉を聞いていられず、高明は名前を呼ぶことで遮る。
その声があまりにも優しく気遣わしげな色を帯びているものだから、向野はたまらず顔をくしゃりと歪めた。
「それ以上、自分自身を悪く言わないでください。貴女が自分を責める言葉を聞くのは、少々心が痛い」
そう。大切にしたいと思う相手が己を卑下するような言葉は、あまり聞いていて気持ちの良いものではない。
──諸伏高明という人間は、自身の懐に入れた相手に対しては様々な面においての判断基準が若干とはいえ緩まる。
情が深い、といえば良いのだろうか。幼い頃からの知人、友人に対してはその傾向は顕著だ。……まあそうは言っても、本当に深い所まで踏み込ませることは滅多に無いが。そういった線引きは非常に上手い。
その、深くまで踏み込ませた相手の一人というのが、他ならぬ向野なのだ。
グッと唇を噛みしめた彼女を前にして、深呼吸を一つする間に高明は思考を切り替える。次いで話の矛先を変えた。
「先程の言葉通りに受け取るならば、僕のことを未だ憎からず想ってもらえている。その認識でよろしいですか」
「それは、」
彼女の瞳がぐらりと揺らぐ。言葉に詰まる。否定しようとして、それでも嘘は吐けなかったのだろう。状況が好転したわけではないが、若干の安堵にじんわりと胸の内がほぐれたのを自覚する。
この推察は間違ってはいないはずだ。そう思うのはただの願望ではない。
これまで高明はずっと彼女のことを知ろうとしてきた。理解しようとしてきた。性格、思考、感受性、それらを分析しようとしていたのは無意識ではあったが、根拠はその積み重ねによるものである。
言葉を探しあぐねいている向野は高明の一人称が変わったことにも気付く余裕はないようだった。感情を抑えようと、くしゃりと顔を歪めている。そっと距離を二歩詰め、腕を伸ばす間も彼女は動かない。そうして両の腕に彼女を抱いた高明は震える息を吐き出した。
焦るあまり、はち切れんばかりに脈打つこの鼓動が、彼女に伝わってしまえばいい。そんなことすら考える。
腕の中で徐々に彼女の身体に力が入っていくのを感じて、内心で自嘲した。
向野の望まないことを押し付けて傷つけたくない、彼女にとっての暴力を振るわせないでくれと告げた。懇願した。しかし、そんな殊勝な言葉を紡いだはずの高明が、その腕で縋るように掻き抱いているのだから。とんだ虚言吐きと罵られても仕様のない事だ。
それでも向野は嫌悪感など抱いていない為か、落ち着きなく身じろぎするだけに留まっている。それだけが今の高明にとっては唯一の救いだった。
「紗弥さん」
「っ!」
「不安にさせて、それに気づく事ができずにいたのは僕の落ち度。申し訳ありません」
再度名前を呼んで高明はくぐもった声で侘びた。
それを果たしてどう思ったのだろうか。向野はビクリと肩を震わせ、次いで首を横に振る。密着している為ダイレクトに感じられる動作が余計に高明の感情を煽った。
今この時、どんな言葉を尽くそうと伝わらないのならば、シンプルに飾らない言葉を突きつけてしまえ。そんな考えが浮かんでは消えない。
来るもの拒まず去るもの追わず。人間関係に関しては凡そがこの姿勢である。
加えて、こと恋愛に関しては来るものを己の手前で薄らと拒むことすらあった。そんな高明が今この瞬間、なりふり構わず、手段を選ばす、引き留めようとしている。それがどれだけ大きい事なのか彼女は知る由もないだろう。
「──僕と、結婚してください」
そして飾り立てられない思いが放たれた。不思議と全く抵抗なく、スルリと。
本来ならば、縋り付くように、なし崩しのように、繋ぎ止める為だけのように言うはずの言葉ではなかった。けれども、苦し紛れだろうが何だろうが、ここで彼女を繋ぎとめることが出来る方法を高明は他に思いつかなかった。
「……えっ、あの、……え……?」
向野のが腕の中で大きく目を見開いたのが分かる。
混乱するのも無理はなかろう。高明自身もそう思うくらいに、脈略もなく唐突すぎる言葉。
もっと相応しい場所で告げる予定だった。こんな切羽詰まった情けないプロポーズなどするつもりなど無かったのだ。何なら計画もしっかり立てていたというのに、この有様である。
彼女という存在が高明にとっての当たり前になる前ならば、潔く、この手を離す事も出来たかもしれない。多少の胸の痛みはあれど彼女の背を見送ることができたかもしれない。
だが、どうしても手放すことが出来ない。自分の隣に彼女が居ない未来を想像できない。
ふとした気遣いも、触れた指先の熱も、なんでもないような話題や時間を共有する空気感も。当たり前のように自分の中に落とし込んでしまった。今ここで彼女の手を放さずに信用が多少落ちることになろうとも、このまま会えなくなる未来の方が怖かった。想像などしたくもなかった。
離してほしい、と言わんばかりに彼女は両腕に力を込めるも本気の抵抗ではない。性差を考慮したとしても、ほとんど力が入っていなかったのだ。
ほんの少しだけ腕の位置を下げてやれば、顔を上げた彼女と中々に近い距離で視線がかち合う。このまま口づけてしまっても構わないだろうか。高明は頭の隅に浮かんだ願望を即座に打ち消した。
「あの、持ち帰って、検討……」
「持ち帰ったが最後、貴女は逃げるでしょう。この言葉からも、僕からも」
「んんん」
間髪入れず、様々な意味合いで先回りされた言葉を受けて向野は呻いた。困ったようにくしゃりと顔が歪む。図星だったからだろう。
高明の腕の中から出ることは叶わず。唐突にぶつけられた、受け止めるには全く心構えも出来ていない言葉を先送りにも出来ず。八方塞がりな状況に陥っている。
「以前申し上げたはずです。貴女が思い、感じたことを、どんな些細な事でも話してほしいと。あれは何も身体的な接触についての事だけでは無いんです。……そんな話すら出来ない空気にしてしまっていたのでしたら、改めます」
「いえ! 高明さんが悪いわけじゃなくて、私の問題で……」
「それでも、それを無理なく引き出せなかった僕の力不足でもあります」
「でも」
「お願いです、紗弥さん」
つむじ近くで発せられる言葉を浴びて向野はグッと唇をかみしめる。
彼女は、高明からの
「もっと貴女の話を聞かせてください。そして僕の話も、聞いてほしい。これからもずっと」
これ以上ないくらいに脳をフル回転させて、それでも出てくるのは懇願に近い言葉。何とも陳腐で飾り気がない。平常であれば意識しなくとも口は回ると言うのに、肝心なところで鳴りを潜める。
それが逆に受け入れやすかったのか、向野はそろりと視線を上げた。
「……私、」
声が発せられたとほぼ同じくして視線がかち合う。
柔らかく目を細め、小さく頷くことで高明は続きを促す。
「高明さんは当たり前のことをしてるだけなのに、お仕事の延長の事だってあるのに、高明さんに優しさを向けられてる誰かを変に羨んだりして……」
「はい」
「そんな自分の心の狭さが、どうしても嫌で。だから隣に立つ自信もなくて」
「ええ」
「……でも本当は、別れたいなんて、思ってない。一緒にいたい、です」
「……うん」
最後の言葉は向野にとって声に出すのも勇気が要ったのだろう。掠れ、囁くようなか細い声。両手は固く握られ、両肩は竦んでいる。
対して高明は、聞きたかった言葉をようやく引き出せたことに安堵して、ほんの微かに脱力した。彼女の頭部に頬をほんの少し触れる程度にすり寄せる。まあ気付かれているだろうが。
何事もなかったかのように姿勢を正し、高明は再度彼女と視線を合わせた。情け無い顔をしている自覚はあるが今更取り繕っても仕方がない。
「ありがとう。……ようやく、本音を聞かせてくれましたね」
思ったよりも穏やかで甘やかな声色になった。
それほどまでに感情を秘めておけなかったのだ。
「他の誰かを羨んでしまう。そうおっしゃいましたね。……それは、同じようなことを僕も感じていたのだから、お相子です」
「え?」
「紗弥さんから僕が大切に思われていることは十分伝わっています。ちゃんと分かっています。ですが、ふとした折に様々な意味で他者へ嫉妬にも似た感情を抱いてしまう。きっと紗弥さんにとっては、助けが必要な方へ手を差し伸べることも気遣うことも当たり前のことなのでしょうけれど」
優しさは美徳だろう。それを無償の振り撒きなどと言うつもりはない。たが、その優しさを勘違いし、言い寄ろうとする者も全く居ないわけでは無い。──過去に彼女を苦しめた輩のように。
そんな存在を許容できるほど、高明はおおらかに構えてなど居られないのだ。
「僕はそんな貴女に好意を抱いた」
「!」
「もしそれが無くなってしまったなら、それではもう僕が惹かれた向野name2##という人物では無くなってしまう。……そしてそれは、貴女も同じではないのかと思います」
違いますか? そう問いはするものの、答えはもう分かっているようなものだった。決して短く無い時間を共に過ごしてきて、その上で導き出した結論なのだから。
予想と違わず向野は首を横に振る。
「私で良いんですか。隣に居ても、良いんですか」
「僕は、貴女
ほんの僅かに沈黙した向野の視線が徐々に下がっていき、遂には俯いてしまった。
高明が彼女の名前を呼ぶよりも早く、その顔を高明の胸に預けて向野は脱力する。
「……ごめんなさい。別れてください、なんて」
「まったくです。本当ならば気に病まないでください、と言いたいところですが……今回ばかりは流石にどうしたものかと」
隙間なく彼女を抱きしめて、今度こそ胸を撫で下ろした。
長引かせれば長引かせるだけ二人の間に入った亀裂は深まったであろうことは容易に想像がつく。この日のうちに、収まるところへと収まったのは幸いと言えよう。
後にこの時のことを振り返って高明は言う。捜査に身を置いている時と同じくらい、もしくはそれ以上に焦りを抱いた。考えすぎて逆に脳が働かなくなりそうな感覚は久々だった、と。
後日改めてプロポーズをし、無事に承諾を得られたというのは言うまでもない事だろう。
むしろ周囲からは、やっとか、などと声を掛けられていたのだから、二人がどのような印象を抱かれていたのか察するというもの。
なお、うっかり彼女が口を滑らせてしまったせいで、高明にとって一番知られたくない大和の耳にこの一件が薄らと伝わってしまったのは災難という他ない。何とも言えない複雑そうな顔でフォローとも言えない言葉を投げられたのは余談である。
■
二人で話し合い、様々な面を考慮した結果、本当に親しい者だけを招待して結婚式を挙げる事となった。
ほとんど身内だけと言っても過言ではない程に小規模。そもそも高明も向野も式を挙げることに拘ってはいなかったが故の着地点だった。
そうして式を挙げてから数ヶ月後、高明の元へ警視庁の黒田から人伝てにB5サイズの茶封筒が届けられた。中身を確認すると、そこに入っていたのは祝儀金を包んだ封筒が二封。
黒田からは既に式の際、祝電と共に受け取っている。故に彼からではないことは明白。
では、誰から。
頭の隅で思考して、高明は封筒をくるりとひっくり返し、そして瞠目した。
どちらも記名はされていない。しかし、それぞれ何かのマークのようなものが一つ記されている。片方には正円にも楕円にも見えるものが。そしてもう片方には──
(景光……)
悪戯書きのような三本の線。それが崩された独特なHの文字であると高明はすぐに思い至った。あの穴の空いたスマートフォンの背面に刻まれた傷とも類似している。
生きていても、表には出られないため信の置ける黒田から更に人伝で届けられたのか。はたまた高明が祝言を挙げることを予想して準備していたものが、気を遣った親友の手により然るべき時に届けられただけなのか。高明には判断する術がない。
けれども、どうか生存していて、高明と伴侶となった彼女を祝福してくれているのだと。薄い望みを抱いてしまう。
ただの高明の願望などではなく、事実その通りであると、願ってやまない。
■ ■ □
「──嫁いできた女ごときがオレの言うことを聞かねぇのが悪いんだろうが!」
殺人現場となった一軒家。そのリビングで男性の怒声が壁に跳ね返り反響した。
同僚により高明が急いで呼び出された殺人事件。
蓋を開けてみれば、それは元々は谷々たちが抱えていた案件の一つ。
配偶者暴力相談支援センターなどの関係機関と連携しつつ解決に持ち込める寸前の案件だった。それが一変したのである。
DV被害の相談をしていた女性が何者かによって殺害されたのだ。その事件が発生したというのが、ちょうど高明たちの班が担当していた事件と同じ地域。そのことも加味された結果、捜査一課の手が入ることになった。
なるべくしてなったと云うべきなのだろうか。被害者の受けていた様々な被害は軽視できるものでは無かったのだ。県警預かりになった上、相談当時から谷々たちが受けるべきか、刑事課に回すべき案件かと即断即決されなかった程。
当然ながら容疑者として浮上したのは配偶者である男。
殴る蹴るなどの暴行、理不尽な恐喝、人格否定などの暴言、経済的抑圧、その他多数。そうした数々の暴力を続けてきた男だ。まあ絵にかいたような役満である。
しかし外面は非常に良く隠蔽能力も高かったのだ。──相談者の口から語られ、このような事態になるまではひた隠され続けて居られたのだから、その面の厚さは察せるというもの。
そして、何故かこの容疑者たる配偶者は警察が住居に足を踏み入れても外当たりの良い態度を崩さずにいた。
時折顔を強張らせている様子も見せるため、平然としているとまでは言わないが。仮にも妻が命を落としている傍でヘラヘラと笑みすら浮かべて対応できている。
アイツ鈍くさいんで誰かの機嫌を損ねたんですかね、などという事まで言っている。その神経を誰もが疑った。
絶対にバレないと高を括っているのか。誤魔化せる自信があるのか。はたまた被害者を殺めた真犯人が別にいるのか。
どうあるにせよ、高明を筆頭とした捜査一課、鑑識、そして谷々たちが為すべきことは変わらない。
任意とは名ばかりの事情聴取を行い、逃げ道をふさぐように淡々と、時に煽りを入れながらも問い詰めていった。長野の諸葛亮孔明と囁かれて久しい高明がこの場に居るのだ。容疑者の余裕が崩されるまでにそう時間はかからなかった。
──その結果、容疑者が逆上して喚き散らす事態に至った、という訳である。
「女は男のために存在してんだ、それをどう扱おうがオレの勝手だろうが! 余所が口出しすんじゃねぇ!」
「──……、」
「アンタも結婚してんだったらオレの言いたいこと分かんだろ! なあオイ!」
高明の左薬指で光るものに目敏く気づいた男は喚いた。
その形相は怒りとも嘲りとも見える表情に歪んでいる。目の前で滅茶苦茶な主張をする容疑者、……いやもう被疑者といっても差し支えは無いだろう男。その醜悪な相貌を射抜くように見据える高明の内心は決して穏やかではなかった。
柔らかな尊い思い出に、まるで土足で踏み込まれたような、そんなざらついた不快感。
──被疑者にとっては非常に残念な事だろうが、高明には全く理解できなかった。
「いいえ。あなたのおっしゃっていることは、私には分かりません。全く」
「ああ!?」
男の主張を完全に否定して、高明は温度のない声で言い渡した。
「私にとって妻の存在は、他の何にも変える事のできない、あたたかく尊いものです。そして、一人の人間として尊敬していますので」
しかしその返答が癪に障ったであろう男は更に声を荒上げた。
「嫁が大事なんてアピールするヤツなんてどうせポーズでしかねぇだろ! 男を立てるためくらいにしか価値がねぇんだからよ!」
喚き散らされる言葉が純粋に不快だった。
高明は特にアピールなどしていない。ただ内側からポロポロと妻への気持ちが溢れてしまっているだけなのだ。
彼女を大切に扱い続けてきたのは、一人の人間として好意を寄せているから。そして単純に己という存在が彼女にとって優しく身を寄せるに値するものでありたいと思ったからだ。そんな思いが自然と態度や行動に出ているだけにすぎなかった。男女交際をしている仲だから、婚姻を結んでいるから、配偶者だから、などという理由があってのことではないのだ。決して、義務や己の自尊心を満たすための行為ではない。
柳眉を顰めた高明は、その面差しに重々しさを落としたまま口を開いた。
「価値、と言いましたか」
「ああ?」
「性別、年齢を問わず、一個人にあるものは尊厳です。価値など他者が勝手に決めつけられることでは──」
「ああ、ああ、ああ〜っ! うるっせぇなあっ! あの女みてぇに!」
高明の言葉を遮るように叫んだ後、ブツブツと怨嗟の念を呟き始める。もう誤魔化しきれないことを悟ったのだろうか。被害者に対する罵詈雑言が男の口から際限なく紡がれ続けた。
あのクソ女。アイツの所為だ。最後まで俺の思い通りにならねぇ。──そんな言葉が少し離れた場所に立つ谷々の耳にまで途切れ途切れに聞こえてくる。
「おや認めるのですか、あなたが被害者を殺害したと」
「認めてやるよ! あんな口うるせぇ女、死んで清々するぜッ!」
腹の底から放たれたその声が、ぐわんと室内に反響した。勢いで出た言葉は戻らない。黒々しいものを吐き出すかのような自供。完落ちだ。
高明と共に現場に足を踏み入れていた刑事の一人が、まるで射殺さんばかりの眼光で容疑者を睨みつける。
共に現場入りしている刑事の他に鑑識の数人もまた、あからさまな変化など見せてはいないが視線はこれまでの比ではないくらい鋭いものに変化していた。
一人の人生を奪い、更には命を奪っておいてこの物言い。罪悪感など欠片も抱いていないことがひしひしと伝わってくる。こんな心無い発言など許されるべきではない。
そして、高明の前で吐き出されたこ言う事実に何よりも心がざわめいた。
(よりにもよって諸伏警部の前で、何てことを……)
被疑者と真正面から対峙している高明の表情は見えない。この場にいる被疑者以外の誰もが、後ろもしくは斜め後ろからの姿しか見えなかった。
スッと伸びた姿勢は崩れることなく、揺らぐことなく、至って自然体のまま。
「これ以上、あなたと愚論を重ねるつもりはありません」
高明は容赦なくぴしゃりと言い切る。
「ちょうど鑑定の結果も出た頃でしょう。自供してくださった事ですので、これより連行させていただきます」
「テメェ嵌めやがって!」
被疑者の頭の中でどうねじ曲がったか、勢いでの自供を高明の話術によって謀られたものだと認識しているようだった。まあ煽ったのは事実である為、あながち間違いでもないのだろうが。
──問題はこの直後、被疑者が高明に殴りかかろうとした事だ。
「押さえろ!」
「ワッパかけろワッパ!」
高明が反応するよりも早く、被疑者の死角に入るように控えていた刑事の一人が弾丸のように飛び出した。室内である上に人口密度が高い以上、大立ち回りは出来ない。だが不意を突いて取り押さえることは可能。出鱈目に腕を振り回して暴れる被疑者を数人がかりで拘束した。
わずか二呼吸の間に繰り広げられた出来事。警察官数人で取り囲んでいるも同然の状況だったのだから当然とも言えよう。
こうして現場は収束したのだった。
高明たちの班が担当していた事件の発生場所が同じ地域であることから、可能性を完全に否定するために赴いた。
それがまさか、高明が矢面に立って自供させるに至るとは思いもしなかった。元を辿れば谷々たちが抱えていた案件である。それを横取りするつもりはなかったのだ。
「俺たちが追っているヤマと関わりはやっぱり無いようですね。課長に連絡入れておきます」
「ええ。よろしくお願いします」
被疑者が喚き散らしながらも更迭されていく様子を見送り暫くして、現場を後にする同僚に倣い、高明もまた規制線の外へ出る。表情は変わらずともその足取りはどこか重い。多少の息苦しさを覚えて深く息を吐いた。
「
「はい?」
捜査一課の刑事は高明がコロリと落とした言葉を拾うこともせず特に気にも留めない。しかし聞きなれない言葉を耳にした谷々は思わず聞き返してしまった。
「中国の諺です。それに順ずるのであれば、先程私が言い返すべきではありませんでした」
簡潔に言うならば、他者と争う気質の者とは語り合うことをしない方が良い、ということだ。
それでも咄嗟に言葉が出てしまった。結果として被疑者の自供を促せたとはいえ、年甲斐もなく煽りに乗せられてしまったという訳である。
己の自制心が正しく働かなかったと高明は内心猛省した。それが態度や表情に出ていないのは流石というべきか。
何と言葉を返して良いものか悩み、谷々は口をはくりと開くも言葉など出てこない。その事に気付いてか高明は目元を和らげると本部への帰還を促す。
「まだやるべきことは残っているでしょう。我々もあなた方も。……戻りましょう」
こうして、谷々が高明と現場を共にするという滅多にない事件は、どこか苦さを残しながらも幕を閉じた。
製本にした中の七章目。
起承転結の承が終わり。次から転。編集中に誤字や細々としたミスを発見してしまって頭を抱えてます。誤字脱字を撲滅できなかった……。