(……この色に近いのは、朱鷺色でしょうか)

所々空を覆う灰色の雪雲。しんしんと降り積もる雪。凍る地面。
吐く息は白く、身を切るような寒さに誰もが身を竦ませる。
──冬本番である。

初雪、そして初積雪の観測からは何もかもが早かった。瞬く間に白く染め上げられた町は少しだけ静かに思えた。例年通りとなれば、これから冷え込みは更に厳しさを増す。同時に雪に関する事故も徐々に発生数を増していて、交通や山に関係する部署は息を吐く暇もない様子。地域差もあるが、豪雪地帯であるが故に日々雪との熱い戦いが長野県各所で繰り広げられていた。

──時刻は朝の五時半を過ぎた頃。
チラリと腕時計に視線を向け、高明は込み上げてきた欠伸をかみ殺す。
当番の日には、どんな時間であろうとも呼び出しがかかることがある。この日も例に漏れず、朝日も昇らないうちから車を走らせていたのだ。
窓の外に見える景色は日の出を迎えていないにもかかわらずどこか明るい。雪で覆われた街は月や星の明かりなど、微かな光をぼんやりと反射して完全な暗闇にはならないのだ。冬特有の夜道に良い点があるとすればそれだけだ。なにしろ冬場の運転は一瞬の油断が命取りになるのだから。
現に、夜の冷え込みが影響して路面は凍結している。そのこともあって法定速度よりも大分速度を落としての運転。たとえスタッドレスタイヤを履かせていても、滑る時は滑る。ハンドルを取られる時は取られる。雪道の運転というのはそういうものである。慎重な運転が命を守ることに繋がるのだ。
夜中に降り続いた雪は既に止んでいた。車のヘッドライトに照らされた雪道を慎重に運転しながら、高明はラジオの音量をほんの少しだけ下げた。周囲の音が雪に吸収されて車内の音が普段よりも良く聞こえている。

そうして車を走らせること暫くして、余裕をもって緩やかにブレーキを踏み赤信号で停車した。
信号が変わるのを待つ間、ふと空の端がほんのりと薄明るくなりつつあることに気付く。チラリと時計に視線をやれば確かにそんな時刻である。
日の出が一番遅いとされる日から時は経ち、朝日が顔を覗かせる時刻が徐々に早くなりつつあることを実感する。
冬の早朝には夕焼けと見紛うばかりの鮮やかな朝焼けを拝めることがある。カラリとした空気と光の加減からの予想では、もう少し時間が経過すれば恐らく鮮やかな朝焼けが見られる事だろう。
なお、日の出が一番遅い日というのは冬至ではない。冬至は一年の中で最も昼が短く、最も夜が長い日である。それに順じて最も日の出が遅く、日の入りが早いと思われがちだが実は違うのだ。日の入りが最も早い日は十二月上旬。日の出が最も遅い日は一月の上旬である。

閑話休題。

本部に戻り車を停める頃には、高明の予想通り空は朝焼けに彩られていた。
所々薄らと黄色を含んだ柔らかな淡い紅。この朝焼けの色を何と言い表すのだったか。高明は緩慢に瞬きをして、じわりじわりと姿を変えていく空を見上げる。
確かに寒さは感じれど、不思議なことに変わりゆく様を見ていたいと思えるような美しさだった。一面を真白に染めていた雪も朝焼けを映して薄らと赤みを帯びている。

(……この色に近いのは、朱鷺(とき)色でしょうか)

朱鷺とは鳥の名である。その名の通り、その翼の下面や風切羽根の色を指している。
日本において野生の朱鷺は一度絶滅した。近年、人口繁殖が成功しているが純粋な日本産の朱鷺はもう居ない。
美しい空を目に焼き付けること幾ばくか。やがて満足したのか高明は庁舎へと足を向けた。
その道すがら、目を細めて高明は手元に視線を落とす。──己の左手薬指。その根元で朝日を受けてきらめく指輪を見つめて、深く長く息を吐いた。


□


寒さに身を震わせながら過ごす中、谷々は上司から時折向けられる視線が気になっていた。物言いたげな表情や視線に気づきはしているものの進んで触れることはしなかった。藪をつついて蛇を出すことはしたくないのだ。冬なので冬眠していてくれ、と頭の隅で冗談交じりに呟く。しかし鋭い双眸がどうにも落ち着かない。
事が動いたのは、とある快晴の日の事だった。

「谷々、ちょっといいか」
「はい」

チラリと視線を向けてくる上司が醸し出す雰囲気は、世間話の延長をしに来たのだと思えるものでは無かった。谷々は若干怯んだものの自席から立ち上がりヘラリと笑う。
鈍感というか図太いというか。これがこの男の短所であり長所であるのだが、今回は若干マイナスに働いた。

「お前、たまに一課の諸伏に奥方の話を聞いてたってマジか?」
「あ、はい。本当に諸伏警部って愛妻家ですよね」

なんだ、そのことか。谷々は内心で少しだけ安堵する。そしてホクホクとした顔で頷いた。
総回数にして片手で数える程度ではあるが、何度か話を聞かせてもらっていたのだ。
どう表現したものか、諸伏夫妻の話を聞いていると癒やされるのだ。推しという表現がどうにもしっくりくる。谷々としてはそんな世間話にも似た感覚だった。
しかし問いかけた上司からすれば眩暈を覚えるような心境である。
何しろ谷々とは違い県警本部に席を置いて随分と長いのだ。他部署との繋がりもそれなりに多い。当然、高明と配偶者についての一連の出来事(・・・・・・)は記憶に刻まれている。
苦虫を噛み潰したような表情で谷々を見返すも、それは次に放たれた言葉によってとんでもない衝撃を受けることとなる。

「いつか一目でも、二人が並んでる姿とか見れたらいいなぁなんて思いますよ」
「いや、いやいやいや、お前、本当にガチで知らなかったのか!?」

上司の荒上げた声は、驚愕のあまりかひっくり返っていた。
谷々に向ける信じられないものを見るようなギョッとした目。次いでグッと何かを堪えるような表情への変化。その変化を間近に見て、谷々はどこか嫌な予感が押し寄せてきた。

「え、何がですか?」

そう問いはしたものの、どんな返答が来るのか予想も出来ずに身構える他ない。
険しい顔で目を瞑り、呼吸を置くこと二つ分。上司は苦々し気に口を開いた。

「…………アイツの奥方は、二、いや三年近く前に亡くなってる」

重々しく放たれた返答に、今度こそ谷々は絶句した。
なくなっている、とは、何だ。
あれだけ惚気のような話をいくらでも出してくる人の伴侶が、既に鬼籍に入っているとでもいうのか。

「え、だ、だって諸伏警部、あんなに奥さんの話……」

弱しく上司を見返して谷々は信じられないと言わんばかりに問いかける。震える声に動揺が表れていた。

「馬っ鹿、全部過去にあった出来事の話ばっかりだったんじゃないのか? 現在進行形だったり未来の話を一度でもしたか?」
「毎月花を渡してるって……」
「月命日を知らないのかお前は」
「……、……、……うぅ……」

ぴしゃりと言い切る上司は最早半眼だった。今度こそ二の句が継げずに谷々は弱々しい声をあげて沈黙する。そしてザッと血の気の引いた白い顔で顔を強張らせた。
今しがた告げられたことが真実ならば、谷々は愛妻家でありながらもその妻を失った高明に対しとんでもないことをしていたのではないだろうか。
大切に、大事にしていた相手を失った者へ、無遠慮に話をせがむなど。それは、傷を抉るような行為ではないのか。
ぐるぐると思考がショートしそうになるくらい考え込んで、谷々は文字通り頭を抱える。

「……もうちっと、観察眼磨け」
「うっ、はい……」
「気づいたなら、もう少し身の振り方を考えろ。まあ俺も所属が違うってこともあるし詳しくは知らないから、これ以上は何も言えないけどな」
「……、……はい……」

上司は今にも盛大に溜息を吐きそうだが、それを無理やり飲み込んだような顔をしている。静かに告げられて谷々はそう返すのがやっとだった。
事実を知った以上、上司に促された通りこれまでのように話を振るわけにもいかない。ドッドッと嫌に心臓が強く脈打っている。握った手の平にじわりと汗が滲んでいる癖に指先は若干冷たかった。

(だめだ、俺、なんにも知らない。……誰かに話、聞けないかな)

これ以上の不敬を重ねるわけにはいかない。けれども何も知らぬままでは同じことを繰り返してしまう予感があった。それだけは、どうあっても避けたい。そう谷々は強く思う。
だからこそ今は、当時を知る誰かに話を聞きたくてたまらなかった。

当時を知る者は少なくない。何せ高明が愛妻家である事は部署内に留まらず各所に知れているのだから。
しかし詳細を知る者となれば当然ながら限られてくる。もし話を聞けるならばその中でも高明に近すぎない人物が好ましい。
焦慮に思考を煽られながらも谷々は必死に頭を働かせる。そして、とある人物に辿り着く。本人たっての希望で刑事部から転属となった警部補が、同じ生活安全部に在籍している。谷々はその事を知っていた。
昼食時の食堂で、同席することが出来たのは僥倖と言えよう。奇しくも席は食堂の中でも隅だったのだ。

「すみません丸山さん。聞きたいことがあるんですけど、お時間もらっても良いですか……」

谷々の声掛けに顔を上げた警部補は持ち上げた湯呑をそのままに一瞬虚を突かれた顔をした。見返した先に在った谷々の顔が余程思いつめた表情を浮かべていたのだろう。
次いで何度か小さく頷くと呆れたような溜息を吐いた。

「うーん、そんな顔してるってことは……もしかして、もしかするのかな」

──諸伏警部の事に関してだろう?
そうでもなければ、昼食時とはいえ然程親しくもない自分と席を同じくする理由が無い。そんな確信すら抱いて放たれた言葉。
救いがあるとするならば、呆れこそ含まれてはいるが侮蔑や嫌悪の色が見えない事くらいか。
谷々はグッと言葉に詰まった。思わず泣き言が口を突いて出る。

「……はい。ってかみんな何で教えてくんないんですか……」
「馬鹿野郎。刑事なら自分で気づけ。少し周りに目をやれば分かるはずだろう、今回の件は」
「……、……、……」
「ぐぅの音も出ないっていうヤツ?」
「……んぐ」
「いや、出たか」

どうでもいいやり取りは、重々しくなりかけたこの場を若干でも和ませようとしているが故のもの。それを谷々は察した。
気を遣われて情け無い。そんなことを頭の隅で思いつつも自分の不甲斐なさが緩和されるわけでもなかった。

「……あの、自分が大分やらかしてたんだなって事は自覚しました。これ以上の失礼を重ねたくありません。なので、そのためにも聞かせてもらえたりしないかな、と思いまして」
「ほお」

ジッと何かを見極めるかのように谷々を見据えて、丸山と呼ばれた警部補はそれきり真顔で口を噤んだ。

「……お願い出来ないでしょうか」

再度の問いかけに、はあぁ、と丸山は深く長く息を吐き出しながら湯呑を机に置いた。そのまま背もたれに上半身を預けると両腕を胸の前で組む。
瞑目すること幾ばくか。かつて刑事部に在籍していた面影を感じさせるほどに鋭い瞳で谷々を射貫いた。

「何が知りたいって?」
「……皆が諸伏警部の奥さんの話を避けるくらい、何か、悲惨な事件があったのかと考えたんです。でもそれなら俺はどこかで止められてるはずじゃないのか、とも思ったんです。……だから触れちゃいけない部分がどこなのか、分からなくて」

谷々の脳裏に浮かぶのは、高明と彼の妻について話していると知った途端、グッと唇を引き結んで去っていった職員の後ろ姿。

「なるほどね」

その言葉に、ようやく己の中で合点がいった丸山の顔へと削ぎ落していた表情が徐々に戻る。本人に聞くことが憚られることは当然として、その周囲にも確かに聞きづらいことだ。

「まず嫁さんが亡くなったのは事故や事件があったからではない。けど、どうしたって気を遣うくらいの出来事だったのは確かだ。それだけは憶えておきなよ」
「はい」

神妙な顔で頷いた谷々は丸山が口を開く瞬間をじっと待った。谷々の前に置かれたままの中途半端に手を付けた昼食は既に冷め始めているが、気にする余裕はない。
そんな彼を前に一つ息を吐くと、丸山は静かに言葉を紡いだ。

「身体が弱いって感じでは無かった。けど妊娠とか出産の関係でな、そのまま……」
「え、医療の発達とかで妊婦さんの死亡率は低いんじゃ……?」
「それでも皆無なわけじゃない。現に身近な人の家族が、そういう(・・・・)事態になった過去があるんだ。滅多なこと言うもんじゃないよ」
「すみません!」

産科にたずさわる医療従事者が耳にすれば顰蹙を買うだろう言葉をのたまった目の前の男を嗜めて、丸山は厳しい視線を向ける。ハッと表情を気まずげなものに変えた谷々は唇を引き結んだ。

「簡単に言うと、切迫早産で母子共に命の危機。その時に嫁さんはギリギリ耐えたが子どもは、な……」
「……そんな……」

濁された言葉の続きを察して谷々は色を無くした。
高明の様子からは微塵も感じられない過去。あれ程までに幸せそうに妻について語っていた姿を思い出して、更に愕然とする。

「その後、嫁さんは回復して退院出来るだろう、って所まで来た」
「おお!」
「そんで、退院する前日の夜に、亡くなった」
「……は?」

意味が分からなかった。放たれた言葉を理解しようとするも脳がエラーを吐く。

「………………は?」

たっぷり間を空けて谷々は再度愕然とした声を上げた。
どん底まで突き落とされたような心地だった。嘘だと告げてほしかった。そうすれば質の悪い冗談はやめてくださいよ、流石に笑えないですよ、なんて言えただろうに。
目前で窓の外へと視線を向ける丸山の表情は苦々しいままだ。
──確かに悲惨な事件などではなかった。だが、だからこそ余計に心抉られるというもの。谷々は言葉が見つからず呆然と口を開ける。
そこにヌッと影が刺したことに二人は気づかなかった。

「おい、そこまでにしとけ」

低く唸るような静止の声が割って入る。
それは丸山が数カ月前まで比較的良く聞いていた声であり、谷々にはあまり馴染みのない声。その声の主が誰なのかを悟って、丸山は気まずげに視線を逸らした。

「……大和」
「そんな個人的なこと、他人がベラベラ喋るもんじゃねぇだろ」

それ以上、何も言うな。
強い瞳でひたりと見据えられては、もう言葉は出てこなかった。それほどまでに大和の瞳は強い感情を宿していた。目は口ほどに物を言う、とよく言ったものだ。
人気の無い場所で話していたつもりだったが話し声は存外大きくなってしまっていたと言うことだろう。
谷々も丸山も気まずげに顔を背けるも、自然と視線が落ちた。
何も、大っぴらに話題を広げて晒しものにしたいわけでは無いのだ。

「別にあの人についてべらべら吹聴するつもりはない」
「そうかよ」

言葉少なに応じる大和の視線は和らがない。

「普段何事にも動じなさそうな顔してる人が、一時期は身だしなみも疎かになりがちで仕事に打ち込んでたんだ。そりゃ誰だって多少なりとも思うことはある。……だから、変に誤解されたり面白おかしく何か吹き込まれそうになるくらいなら、それは解いておきたいって思うだけだよ」

厳密な所属課こそ違えども、かつて肩を並べて職務にあたることも少なくなかった相手の独白。それを受けて今度こそ大和は何も言わずに目を伏せる。

「場所は、考えろ」
「ああ、気を付ける」

そう告げると大和は踵を返し、食堂の出口へと向かう。それが彼なりの応えだった。
 

□
 

警察官とその家族は逆恨みを向ける対象になりやすい。そう、矛先は当人ばかりではなく、周囲の弱い存在へと向けられるのだ。そのことを諸伏警部(・・・・)が知らぬはずがない。
故に、愛妻家の彼が最愛の妻の存命期間中は、その存在に繋がる要素を見せびらかすように身に付けることは無かった。危険に晒してしまう可能性を十二分に理解していた為である。そんな己の詰めの甘さで害される隙を作るなど、僅かたりともあるはずがないのだ。
──裏を返せば、指輪を常に身に付けていると言う事は、その配慮をする必要がなくなったと言うことに他ならなかった。

食堂を後にした大和はすぐさまエレベーターへと乗り込み、一つ下の階へと降りる。その間も渋面を崩さずにいた。
つい先ほど耳に滑り込んできた食堂の隅で会話に、朝方に引継ぎを終えて帰宅した幼馴染の背中が自然と思い浮かぶというもの。ある意味で、高明が通常勤務ではない日でタイミングが良かったとすら思う。
険しく寄った眉間をぐりぐりと揉みほぐしながらエレベーターを降りて歩を進めるも、その足取りはどこか重い。
──大和は未だに覚えている。
棺に納められた自身の妻を見下ろす高明の背中。俯いているわけでもない、ともすれば普段通りに見える姿。それがどうしてか、今までに無いくらい頼りなく細く見えた事を。
そしてその様が、かつて高明が両親を喪った後しばらく見せていた姿とダブって見えたことも。
はあ、と盛大な溜息がこぼれ落ちるのを大和は止められなかった。


■2025/4/4/
製本にした中の八。ここから転。
最初に書いたのが序とここの一部と終。


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