「無様な姿など見せられません」
冬の時期は木々の緑も花々の鮮やかな色も姿を潜める。加えて雪の白さに全てが覆い隠されてしまうが故に、殊更殺風景に思えてしまうというもの。
退勤後に立ち寄った生花店で花を選びながら、ふと高明はそんなことを考えた。
せめてもの色どりを。そんな気持ちで選んでいくのは白に映える色の花々。幾つか見繕った後は店員にバランスを調整してもらい取捨選択をしていく。
最終的に納得できる出来栄えの、細身の花束が二つ完成した。
店員に一言礼を告げてから生花店を後にした高明は、雪がちらつき始めた空を見上げて緩慢に瞬きをした。ほう、と吐き出した息は急速に冷やされて白く空気中に消えていく。
(冬の間は、寒さで花々がすぐに弱ってしまうのが難点ですね)
植物の中でも水分含有量が多い種類のものは特に顕著である。
こうして花を選ぶのも回数を重ねてきたのだ。季節に沿って適切と思われる花々を見定めるのは最早容易かった。
特に急ぐわけでもなく帰宅した高明は、慣れた手つきで買ってきたばかりの花束を花瓶に生けようとしたのだが高さが少しだけ合わない。ハサミで微調節しながら今度こそ一つ一つ差していく。
その際に汚れた手を洗おうとするも、冬場という事もあって水はキンキンに冷えていた。それが随分と手に凍みる。
生けた花瓶を仏壇へと置き、手を合わせてしばらく。ぼんやりと遺影を見つめて高明はその場を動かずにいた。
──いつだってそうだった。
大切な人に関する事こそ高明が居ない場所で起きる。そして関与できぬ間に終わってしまっている。
ゆったりとした動きで右腕を上げ、遺影の一つに触れた。当然ながらそこに温度は無い。
静かに瞑目して、高明は姿勢をもとに戻した。
『──死の縁、無量なり』
はたしていつの事だったか、誰かの葬儀に出席した折、僧侶による説話の中で聞いた言葉。
人間が生きていく中で、自分の思う通りにならないものは幾つか存在する。老い、病、そして死。どれも個人のコントロールできる範囲外。手の及ばない領域だ。
生まれ落ちた以上は必ず死が訪れる。それは定められている未来だ。だが、その死に至る過程というものは無限である。──よって、死との縁は無量に存在する、という言葉がある。
事故、病気、事件。いつ何処で、どのような最期を迎えるのかは誰もわからない。自ら命を断つ事を選ぶならまた話は別なのだろうが。
(先に死ぬのは、私だと思っていたのですが……儘なりませんね)
警察という職業柄、危険は常について回る。時に恨まれることも少なくない。だから高明は、先にこの世を去るのは自分の方だと、
──そんな確証など何処にも無い。その事を他ならぬ高明自身がその身をもって知っていたというのに。明晰な頭脳はそれを都合よく素知らぬふりをした。
もしかすると、そうあってほしいという願望がそう思わせていたのかもしれない。
高明とその妻に関する顛末は、ほぼ同時刻の食堂にて丸山が谷々に語ったものとそう変わらない。
懐妊の喜びもつかの間。全てが順調かと思われたが長くは続かなかった。出産予定日が近づいてきた頃、紗弥は身体の衰弱と切迫早産の可能性があると判断され、早々に入院を余儀なくされたのだ。
そして十月十日を待たず、予定日すら迎える事なく、大切に慈しみ待ち望んでいた小さき命は儚くなった。
予後があまり良くなかったこともあって長引く入院。その間も高明は可能な限り病室を訪ねた。一時的に状態は危ぶまれたが大分回復の兆しを見せていたことが唯一の救いといったところか。
しかし、穏やかに目を閉じる妻の姿に不安を覚え、胸がざわめいた事は記憶に根強い。その口元に手を翳して息があるかどうかを確かめたのは一度や二度ではない。
後にこうして振り返り、高明は思うのだ。あの時期はだいぶ精神的な余裕を失っていた、と。
更に追い打ちをかけるように訪れたのが紗弥の死。その知らせがもたらされたのは退院を翌日に控えた真夜中の時分。
──月が明るい、夜のことだった。
□ ■ ■
街灯と紛うばかりの月の明かりに影が伸びる。空を見上げては感嘆の息をこぼす者が散見されるほど、仄白く玲瓏たる月影。
捜査本部を立ち上げて取り掛かっている事件が、ちょうど動きを見せようかという兆候を捉えていた。それなりの人数が昼夜問わず動き回っている。例に漏れず高明もまた本部に詰めていた。
そんな中、夜も深まり日を跨ぎそうになった時刻に高明の携帯端末が震えた。何か動きでもあったのだろうか。そう思い懐から取り出したまでは良かった。
表示される発信元を確認し、目を見張る。ハッと息を呑む音がやけに響いた気がした。
──発信元は妻の入院している病院だったのだ。
翌日に退院を控えているからと言って、病院からこんな夜も更けた頃に掛かってくるなど通常ではありえないことだ。……余程のことでもない限りは。
嫌な予感ばかりが募る。
私事であると一言断りを入れ、廊下で電話を受けた高明の表情は抜け落ちて居た。落ち着かない様子で部屋を出たその背中に幾つもの視線が向けられたことに意識を向ける余裕はない。
──そしてその予感は的中した。
通話を終えて無言で戻ってきた高明に視線が集まる。しかし誰も声を掛けようとしない。いや、かけられなかった、という方が正しいだろう。
……それもそのはず。高明は今までに見せたことのない顔をしていたのだ。歩みにも焦燥が滲み出ている。
すぐさま捜査一課長へと歩み寄り、声を掛けようとした。しかし、早急に次の行動へと移りたい気持ちとは裏腹に、喉が張り付いたかのように言葉が発せない。
そのただならぬ様子に眉を寄せた一課長が問いを投げた。
「何の電話だったんだ」
「……妻の、入院する病院からでした」
「そうか。それで?」
その表情と言葉で大凡を悟ったのだろう。彼は片眉を跳ね上げて続きを促す。
こうまで促さなければ高明が口を開かないというのも、尋常ではない事態を現しているかのようで空気が張り詰める。
「妻の状態が芳しく無いことと、可能な限り直ぐにでも病院へ来るように、と」
誰かの息を呑む音が高明の耳を打った。この場に居る者たちは、その意味が分からないほど鈍感ではない。
「じゃああとは任せておいて、さっさと行け」
間髪入れず、簡潔に一言そう告げた一課長は射貫くような視線を高明から入口へと向ける。
黒田が警視庁へと移動してから、その後任を担っている男だ。判断は早かった。前任の黒田には劣るが中々のやり手という評価を得ているだけのことはある。
無言で頷き、しかし高明は動きを止めた。
「せめてある程度の引継ぎを、」
「一緒に居た奴も大体把握してるだろ。何かあれば連絡する」
その言葉に一課長はどうしようもなくやり切れない思いが込み上げてきた。
あまりにも公私の線引きが上手すぎる。ここで動揺露に狼狽えでもしてくれたら、まだ気持ちは楽だったというのに。
しかし、感情を押し殺しているようだが高明の瞳は僅かに揺らいでいる。つぶさに観察しなければ分からない程ではあったが。
「……俺が行っていい、って言ってんだ。行け。そもそも俺たち警察官は代わりはいる。そりゃ数は限られてるがな。だがお前の嫁さんは一人だけだろ。同じように嫁さんの旦那も、お前だけだ。そこを履き違えんな」
何もせず、この場を後にする事を躊躇した高明が一体何を懸念しているのか。この状況を鑑みれば自然と答えは出るというもの。
だがまだ現状は切迫などしていない。動く兆候らしきものはあったがそれも定かではない。
ひたりと高明を見据えて一課長は再度口を開く。
「見くびるなよ諸伏」
地を這うような低い声。
声を張り上げるでもなく、感情を乗せるわけでもないそれが、却って自然と高明の耳に入り込んでくる。
「確かにお前が居りゃ心強い。洞察、観察、推理力、どれをとっても右に出る奴は滅多に居ないだろう」
これは純然たる事実だ。
しかし並び立つ者が居ないわけではない。大和を筆頭として上原、そして長野県警察は優秀だと囁かれる程に粒揃いなのだから。
……そこにかつて害意を抱いた者──高明に言葉選びを合わせるならば獅子身中の虫が巣食っていたが、それはまた別として。
脳裏に薄らと浮かんだ過去の事件を思考の隅に追いやって、一課長は力強い声で断言した。
「だがな、
グッと唇を引き結んだ高明に、今度は声色をやわらげて一課長は言う。
「時間は有限だろう。あと一回しか言わん。さっさと行け」
電話口の看護師からはさっさと病院へと来るように言われているはずだろう。
そうも付け加えて、一課長は高明の背を強く叩いて部屋から追い出したのだった。
「いいかお前ら、諸伏が抜けた一課は何も出来ないなんて、他所からふざけた事を言わせるなよ!」
──諸伏高明という人物が居ない。たったそれだけの事で崩れるような柔な組織ではない。
外部にも、そして内部にも、そんな事を言わせるものか。
腹の底から放たれた言葉。当然ながら異を唱える者は居なかった。
一課長に強く背中を押され、車を走らせた高明を待っていたのはあまりにも無情な現実だった。
病院へ到着し、案内のために迎えに来た看護師を一目見た瞬間、高明は悟ってしまった。死に目に間に合わなかったのだと。
明確な言葉など無かったが空気で察せられるというもの。
「こちらです」
「……はい」
通された部屋では、横たわる妻の胸部を機械が一定の速度と強さで圧迫していた。自動心臓マッサージ器。動き続けるそれは高明も過去に何度か目にする機会があったため直ぐに理解できた。
かつて高明が抱き止めた、薬剤混入により意識混濁状態になっていた時の事を思う。あの時ですらしっかり生きた色を持っていたというのに。それが見る影もない。だからこそ、誰に何を言われるまでもなく分かってしまった。……もう紗弥の心臓は、自発的に動いていない。脈を感知して針が振れているのは機械によって心臓から血液が押し出されているからである、と。
通常ならば目にすることなど滅多にない、刑事であるが故に見る機会が多い、遺体。既に手遅れである時は顔色を一目見ただけでも分かるものだ。
その顔色と、同じ色。まさかそれを妻に見ることになろうとは思ってもいなかった。
「──紗弥」
ぽつり、妻の名を呼ぶ。
しかしそれを拾う相手はいない。温度のない床に落ちて寂しく転がった。
──そして、医師からの説明を淡々と聞いて、高明は形ばかりの延命措置を止める事を承諾する。
(明日の退院が楽しみだと、言っていたでしょう……)
そんな事を思えども現状は何も変わらない。
深夜である以上、病院との事務的な手続きは後日になる。だが葬儀に関することや公的な手続きについては臨終直後から始まる。直ぐにでも動かなければならなかった。感傷に浸る暇すらない。
葬儀社へ、そして職場と親戚へ。最低限の連絡と手配を終えて、高明は一つ息を吐いた。
あれこれとまとまらない思考を巡らせ、そして自嘲する。……随分と冷静に動けているではないか。病室のベッドで睡眠をとっていた妻の姿に何故か動揺し、息があるかどうかを確認した時すらあったというのに。
(……喪主をつとめるのは、これで二度目ということになる……)
葬儀社に指定された場所へと移動する間、高明はそんな事をぼんやりと頭の隅で思った。
街灯も消えて人工的な灯りは殆どない。それでも降りそそぐ月光は仄明るく道を照らしだしている。今までならばきっと、妻へひっそりとメッセージを送っていただろう。今日は月が明るく、美しい夜空が見えますよ、と。しかし今はもうそのメッセージを受け取る者はいない。
こうして儘ならないことばかりを考えてしまうのは、未だ現実を受け止め切れていないからか。それとも現実を受けてもなお目を逸らしたかったからか。
車を走らせること暫く。
寝台車と共に斎場への到着後、担当となる職員との打ち合わせが始まった。葬儀の日取り、会場、式の規模、予算、他の細かな話し合いと手続き。あれも、これも、どこか薄らと記憶に残る中学生の頃をなぞるようだった。
当時は主に親戚が手続きを行なってくれていた。そうして決まった通りに高明は動いていた。それを今は自分で全て行なっている。
これはこうしておいた方がいい。
──はい。
これは覚えておきなさい。
──分かりました。
いつかこの時の知識も、必要になる日が来るから。
──……そう、ですね。
きっと親切で言ってくれたのだろう事は理解している。だが苦痛を伴った。
両親を亡くしてすぐの事だったため、素直に受け入れられるだけの余裕がなかったのだ。
今この時も、当時の思いがずっと薄らと頭の隅にある。否が応にも、あまり思い出したくは無い感情まで呼び起こされそうになる思考を慌てて振り払った。
親しい人間がこの世を去るということは、どうあっても平静ではいられないものだ。
通常どおりに立ち振る舞えているように見えるのなら、それは感情を出さないよう努めているか、もしくは感情が追いついていないだけか。
果たして今の自分はどちらにあたるのだろうか。
ゆったりと緩慢にまばたきをして、高明は棺に収まる妻の小さな体を見下ろした。
──医療ミスではなかった。誰も悪意を持って動いた者はいなかった。そして、紗弥も高明も、自分に出来ること対応や対処を可能な限り全力で行った。
けれども結果はこの現状である。
誰も悪くない。だからこそ余計に辛い。感情のぶつけ先が無いのだ。それこそ、己以外に。
全ての日程が決定してからもバタバタと全く落ち着く暇もない。
通夜を翌日に控え、一人、また一人と高明から訃報の連絡を受けた親戚が顔を見せはじめる。そして時折、直接連絡を入れていない、然程交流のない者まで高明たちの元へと訪れていた。良い意味でも悪い意味でも親戚の繋がりというものは軽くはないのだ。特に田舎であるならば殊更である。
そんな中、親戚の一人から投げかけられた言葉が高明の心をじわりじわりと蝕んでいた。
『次に会う時は、きっと幸せに満ち溢れている君と和やかに話が出来るものだと思っていた』
──そんなこと、高明が一番思っていることだ。
恐らくは言葉を投げかけた相手に悪気など無いのだろう。
だが、高明の内心は穏やかではなかった。
内側から爪を立てられたかのようなざわつきが消えない。
そう話した親戚が去るまでは表面上取り繕えていたものの、一人になった今、高明は胸の内にこみ上げてくる感情を抑え切ることができなかった。
紗弥の両親が手伝いに訪れてしばらく滞在して来訪者の対応にあたってくれたが、所用のため一度帰っているのだ。そうして誰も居なくなった控え室で深く深く息を吐く。常に誰かしらの対応をしていた事もあって一人きりになるのは久々のようにも感じた。
棺の傍に座布団を敷いて座り込んだのは、少しでも彼女の近くに居たかったからだ。行儀悪く片足を投げ出してしまったが誰も咎めるものは居ない。
思考があちらこちら方々に散る。まるで水の中に居るように息ができないような感覚に苛まれていた。考えて考えて、逆に思考が上手く働かない。自然と呼吸が浅くなる。
「よお、
「お悔やみ申し上げます、諸伏警部」
「この度は、お悔やみ申し上げる」
そんな動きの鈍った思考を中断させたのは聞き馴染みのある声。
入り口に大和と上原の姿を見止めて、高明は目を見開くと腰を浮かせた。
「……何故」
「……あっちは、動くかと思ったが結局なんも進展なしだったんだよ」
「今は私たちも本部からの連絡待ちなの。だから動けるときに、と思って」
瞠目したままポツリと呟いた高明に小さく肩を竦めて大和はそう返す。問いの意味を正確に察したからだ。
それに若干の捕捉を入れて上原は僅かに視線を落とした。
紗弥と少なからず交友があった仲の二人が顔を出さないわけがなかった。しかし通夜にも告別式にも、出席は出来ない可能性の方が高い。捜査一課が置かれている状況を鑑みれば致し方のない事である。
だからこそ、せめて挨拶だけでも、と時間の合間を縫って顔を出すことにしたのだ。
遺影と棺へと視線を向けた上原が、ほんの一瞬ぐっと息を詰めて目頭を押さえる。その背をそっと叩いて大和は歩みを促した。
次いでどうしても無視できないことに気付いてしまい渋面を浮かべる。徐々に深く刻まれていく眉間のしわ。ジトリと高明を見据えて言及せずにはいられなかった。
「……ってか、ひでぇ面してんぞお前。寝ろ」
「……随分な物言いですね、敢助くん」
「事実しか言ってねぇよ」
他の誰にも、それこそ親戚にすら指摘される事はなかったというのに。
片眉を跳ね上げて大和は言う。ぶっきらぼうな言葉の中に心配の色が滲んでいるのを高明は察した。いつだったか、似たような言葉を投げかけられたことがあった。その事を思い出して高明は僅かに視線を落とす。
精神に異常はきたしていない。冷静な判断力は失われていない。涙腺も緩まることなく対応できている。故に大丈夫だと思っていた。
しかし大和がそうまで言うのだ。余程ひどい顔をしているのだろう。更には上原までも心配そうに顔を曇らせている。
「そうよ。紗弥さんだって、今の諸伏警部の顔を見たらきっと言うわよ? 『ちゃんと寝てください!』って」
「……それは、確かに言われてしまいそうですね」
容易に想像がつく。目元を和らげて高明は一度浮かせた腰をその場に降ろした。
座布団の上にしっかりと座り直した高明の姿に満足したのか、二人は小さく頷く。
なお、これは付き合いの長い大和、それには及ばないがそれなりの時間を共に過ごしてきた上原だからこその言葉である。二人ともこう言ってはいるが他者や外部への対応は通常のそれと変わりないのだ。
「紗弥さんにご挨拶させてもらっても……?」
「ええ、こちらに」
先程まで高明の思考は定まらず落ち着かずにいたというのに、今は妙に凪いでいる。線香をあげ静かに手を合わせる二人を見つめ、立ち昇る煙を目で追い、静かに口を開いた。ふと、よく耳にする通説を思い出したのだ。
「……線香の煙を絶やせば故人が化けて出る、など諸説聞きますが……」
そして思ったことが言葉となり、音となり、コロリと零れ落ちる。
「化けて、出てきてほしいくらいですよ」
こう思うのは
漂う線香の煙。揺れるろうそくの火。空調の音。室内にあるのはただそれだけだった。
大和は言葉を返すわけでも無く瞑目する。くしゃりと顔を歪めた上原は目端に涙を滲ませた。しばらくの間、誰も言葉を発せなかった。
高明の本心から発せられた弱音らしい言葉を聞いたのは、後にも先にもこの時限りである。
──そして来たる葬儀の日。
雲一つない快晴の元で粛々と式は進んだ。特に何の問題も無く予定通りに始まり、そして全てが終わる。
何故だろうか。涙など出なかった。
(……嗚呼)
墓前に佇み、高明は感情を抑えきれずに息を吐く。
(嗚呼、全く……)
快晴であることに何故か酷く落ち着かない気持ちにさせられたのだ。
雨ではなく良かったというべきなのだろうが、おそらくは置かれている現状や渦巻く感情とあまりにも乖離しているように感じた為だ。
しかし、例え今日という日がどんな天気だったとしても、高明はその胸中で思うことはさほど変わりなかっただろう。快晴、雨、曇り、雪、きっといずれも高明の心情を表すには当てはまらない。
また一人、高明の心に深く根差す者が居なくなってしまった。しかしきっと、時の経過と共に慣れて行くものである。──行き場のない感情を宥めすかしながら、という言葉がつくが。
(ねえ、紗弥。僕の心を預かっていては貰えませんか。再び君と会える日に返していただきますから)
墓石にそっと手を添え、そんなことを考えてしまうのはただの悪あがきなのだろう。
これからの日々を思い、高明はもう一度深く嘆息して天を仰ぐ。そこには雲一つない空が変わらず広がっていた。
■
葬儀から程なくして捜査の現場へと戻った高明の口は随分とよく回った。
それこそ、これまでにない程に。ふとした瞬間にその事を自覚した高明は回り続ける口を半ば無理やり閉じた。
思考した傍から口が音として発している。──これは、良くない兆候だと悟ったためだ。
「……申し訳ありません。少し思考をまとめてきます」
「あ、ああ」
なんとも言えない微妙な表情を浮かべてその背を見送っていたのは、他部署からこの場に出席していた一人。完全に高明の姿が見えなくなってからぼそりと呟きを落とした。
「なんつーか、愛妻家だってのに奥さん居なくなっても全然普通だなアイツ」
あまりにも心無い言葉。それが意図せずとも耳に滑り込んできた大和は盛大に顔を歪めた。
「あ? どこがだ」
「は?」
「どこが、普通だ」
「いや、キレッキレの考察だったじゃないか」
これ以上ない位に思考は冴え渡っているような気すらした。
据わり切った目を向けられた相手は一瞬怯みはしたが、しっかりと反論する。こんな事で臆するほど繊細なタマではない。
「そう見えてるだけだろ。普段のアイツなら、もっと考えが纏まってから喋る」
大和の言葉に、ハッと目を見開いたのは何も不用意に呟きをこぼした男だけでは無かった。
愕然とした表情の同僚たちを睥睨して大和は後ろ頭を掻く。
「あんの馬鹿、喋りすぎてんだよ」
普段ならば、口にしなくとも良いと判断しているであろう事柄まで。それこそ思考の殆どがコロコロと溢れ落ちているのではないかと感じるくらいに。
なまじ頭の回転が良すぎるが故、こぼれ落ちる言葉も他人の比ではないのだろう。調子が良ければこんなにも多くの言葉など溢さないのだ。
だからこそ大和には混乱具合が目に見えてしまっている、と言うわけだ。……腐れ縁だ、不本意だ、と大和本人は言うのだろうけれど。
(……ったく、どうしようもねぇんだよ、こういうのは)
大和は堪えきれずに片手を額に当てた。
目に焼き付いているのだ。退室間際に見た、棺の傍に膝を着いた高明の姿が。
大和と背丈のそう変わらない背中が随分と小さく見えた事を思い出しては、どうにも遣る瀬無い思いにさせられる。
そう時間を置かずして思考を整え高明は戻ってきた。再びその姿が見えるまで、室内にはどこか重い空気が漂っていたというのは、致し方のないことだろう。
■
──葬儀から約二カ月半。四十九日も過ぎてしばらく経った頃、B5サイズの茶封筒が高明の元に届いた。一瞬開封を躊躇う程のデジャヴを感じて表情は自然と引き締まる。
そこに入っていたのは香典を包んだ封筒が二封。どちらも無記名。かつて高明が妻と結婚式を挙げた際、祝儀金が黒田から更に人伝で手元に届けられたことを不意に思い出した。
片方の裏面には正円にも楕円にも見えるものが記されている。そしてもう片方は──何も記されてはいなかった。祝儀金の時と違う点はそこだ。
(無記名、かつマークすら入っていないならば、これが景光からの香典かどうかは定かではない……しかし……)
こうして二通がセットで届いたということは、と淡い希望を抱いてしまう。残念ながら高明には確かめる術はない。
だが、望みを捨てきれずにいる理由はある。記号のようなものが記されている方とは金額も異なり、親族が用意してもおかしくない額が不祝儀袋には収められていたのだ。
強張りを帯びた、しかし他者から見れば平静を保ったままの表情で、高明はしばらく動くことが出来なかった。
後日、熟考の末に黒田へと連絡を入れたのだが、それはまた別の話である。
■ ■ □
冬という季節は、寒さに加えて空気の乾燥のことも頭に入れておかなければならない。
火災などが起こらなければ良いのだが。そう考えて高明は視線を窓の外へと向けた。近頃は放火が相次いでいることもあって懸念は尽きない。
一つ息を吐くと、デスクからハンドクリームを取り出して己の手に塗り込んでいく。
数年前まで妻のためにハンドクリームを購入していた事が習慣と化して、自然と高明も常備するようになっていた。随分とフローラルな香りを纏っている、と一時期刑事部をざわつかせた事があるのだが、それも今となっては軽い笑い話だ。
(確かあの時は、銀木犀の香りのハンドクリームでしたね)
そんな事を思い出せる程度には時間の余裕があった。事件発生やそれに伴う緊急招集も無い、よくある平常通りの勤務。
──しかしそれも僅かなことがきっかけで崩れようとしていた。昼時に高明を呼び止める声があったのだ。
「諸伏警部、すみません、あの……」
谷々である。
控えめだがどこか確固たる意志を感じさせる声だった。
高明は振り向き僅かに瞠目する。そして神妙な、まるで何かの覚悟を決めたかのような表情に、彼が気付いていなかった事実を知ったことを察した。
「予想よりも時間がかかりましたね」
「えっ!? や、やっぱ気づいてたんですか」
そう問いかけながらも、谷々は内心で納得する。
己が強い憧れや尊敬の念を抱いた相手なのだから、それも当然の事かと縮こまるほかなかった。そんな谷々に小さく微笑みだけを返して、高明は歩き出す。
「何か聞きたいことがあっていらっしゃったんですか?」
「いえ、そうではなく! 凄く、失礼なことをしていたと思い、その……」
「あなたが気に病むことではありません」
「いや、でも」
「もし、私に妻の話を振らないようにと囁かれている理由が、妻に先立たれたことに対する気遣いによるものだという認識ならば……それは違いますよ。半分ほど」
「えっ、違うんですか!?」
予想だにしなかった言葉に、谷々は思わず素っ頓狂な声を上げた。突然の大声に何事かと向けられる幾つもの視線。
慌てて片手で口元を押さえるも、衆目を集めてしまったことに谷々は身を竦める。
「場所を変えましょうか」
「ハイ」
至って冷静な高明の言葉に谷々は一も二もなく頷いた。
高明たちは空いている部屋を少しだけ借りることにして、改めて仕切り直しをする。沈黙の落ちた室内に響くのは加湿器が稼働する音ばかり。落ち着かない様子でそちらを見やった谷々は所在なさげに高明の言葉を待つ。
「さて、先程申し上げた件についてですが」
「はい!」
「そう畏まらなくとも結構ですよ」
「イエ!」
恐縮しきった谷々は首を横に振る。そうは言われても緊張はほぐれない。
それもそうだろう。彼自身はとんでもないことをやらかした、とばかり思っていたのだから。それは一度否定されても頭の隅に残ってしまっている。
そんな谷々を見据えて高明は語りだした。
「以前、とある上層部の方から再婚について勧められましてね」
「エッ」
その言葉を理解するのに少しだけ時間が掛かった。そして、正気か? 思わずそんな言葉が口からこぼれそうになったのを谷々は無理やり飲み込む。
今もなお薄れることのない愛妻ぶり。存命の頃の様子を知っていて再婚を勧めたのであれば本気で正気を疑う。
「見合いを持ち込もうとしたその上層部の方へ丁重に断りの言葉を入れたのですが潔く引いてはもらえず。仕方がないと他の方々に話を聞いて頂いたのですが……そこで少々熱くなってしまいました」
経緯も事の顛末も高明の言葉が全てである。
話を持ち込んだのが上層部の人間というのがまた厄介だったのだ。
どうにも無視できない要素。特に出世などには興味がない高明ではあったが、流石に体裁というものがある。
そもそも出世に拘るようならば東都大学を卒業していてノンキャリアで入るわけがないのだ。伊達に変わり者と言われてはいない。
そこで高明が取った行動というのが、己がどれほど妻を想っているのか他者へ向けて話をする、という何とも地道なものだった。
今なお、高明がどれほどの思いを亡き妻に向けているのか。それを周知させることで話を持ち掛けてきた相手を引き下がらせようとしたのだ。
誰も傷つけず穏便に事を収めるための最善だと考えたわけである。……加えて、単純に気を遣われすぎて妻の事を他者に話す機会を失っていたことも高明が饒舌になった一因だろう。配慮の上に重ねられた配慮によって逆にフラストレーションが溜まってしまっていたのだ。
これが妙な具合に重なり合い、爆発した結果が現状である。
『あんの野郎、ここぞとばかりに嫁とのエピソードばっかり話しやがって。嫌なワケじゃねぇけど、お陰でどいつもこいつも胃もたれ気味だったっつーの』
とは、とある一課の刑事の言である。
おそらく誰に聞いても似たような言葉が返ってくるだろう。
高明が愛妻家であるが故に敷かれた不文律。──諸伏高明には奥方に関する話を振るな。
これには二重の意味が含まれていたのだ。
「私に妻についての話題を振らない様に、という暗黙の了解があるのは知っています。第一の理由は皆が配慮を重ねてくれたこと。そしてその一件があってからは第二の理由にそれが含まれました。……大分遠慮なく話をしましたから。その記憶が根強く、二の舞は避けたいのでしょう」
洞察力に優れた高明のことだ。さりげない気遣いに気づかないわけがない。
「だから、あなたの様に話を聞いてくれる方も、最近では少し珍しかったのですよ」
(……それってもしかして、ちょっとだけ自業自得な部分があるんじゃ……)
谷々は頭に浮かんだそんな考えを無理矢理打ち消した。言葉にしなかったのは賢明な判断と言えよう。
神妙な顔をして口を噤んだ谷々を一瞥して、高明は言葉を続ける。
「妻のことを話す事は苦ではありません。むしろ誰にも話せなくなることの方が、私は堪えます」
その流れるように窓の外へと向かった視線を、谷々もまたつられて追う。
空を覆う雲の合間から所々青が顔をのぞかせていた。
「こうして妻のことを思い出すたび、今でも私は彼女と一緒に生きているのだと。そう思うんです」
それを言葉にし、口に出して他者へと話す度にまざまざと感じる。高明の中に彼女の存在が息づいているということを。共に生きてきたという過去と共に、今を生きているのだと。
例え傍に在れなくなったとしても高明の中から消えてしまわないものが確かにある。幸せだったという事実に変わりは無い。これまでの日々も、これからの日々も、高明の中には彼女の存在がある。──遠き日に喪った両親の存在が、ずっと心の中に息づいて居たように。
だから腐すことなく生きていけるのだ。僅かに目を伏せた高明はそう告げる。
「時に、あなたはこんな話をご存知ですか? 故人を思い出すたび、故人の話をするたび、天国ではその人の頭上に花が降るのだそうです」
「っ!」
高明の言わんとすることを察して谷々は息を呑んだ。
迷信だろうと構わない。縋らずにはいられない。
──妻は、花が似合う人だった。
高明が思い出す度、誰かと話をする度、彼女に花が降り注ぐのならば。なんと心に沁みるような話だろうか。そんな簡単な事などいくらでも出来る。高明の中には妻との日々が詰まっているのだから、それを他者に話す事くらい容易い事だった。
沈黙が落ちること幾ばくか。谷々は適切な言葉を選ぼうとするも失敗する。
「諸伏警部は、強いですね」
「……恐縮です」
特に否定することもなく高明はただ受け止める。目の前で複雑そうな表情を浮かべる谷々がそう思ったなら、それはそれで構わなかった。
だが高明は決して強くなどない。強く在ろうとしているだけである。しかし無駄に否定しても説明のしようがなく、理解させるとも思わない。
心の柔い部分の踏ませ方、弱みの見せ方、それ等をもう忘れてしまった。きっとこれからも他者に見せることなど無い部分。心は、妻たる紗弥に預けたままなのだから。
だからこそ沈黙を選ぶ。
「確かに調子を崩しそうになった事はあります。ですがそんな不調が続くようでは、妻にも、私の両親にも弟にも、顔向けなどできませんから」
泣き濡れて、悲嘆に暮れて、彼女を思い日々を過ごす。そうしようと思えば出来た。その選択肢だってあった。
けれど高明はそれを選らばなかったのだ。選ぼうとすら思わなかった。
なぜならば──
「無様な姿など見せられません」
諸伏高明という人物は一見冷静沈着で淡白なように見えて、その実、見栄っ張りの負けず嫌いである。
きっと彼女は待っていてくれるだろう。
だから己に出来る精一杯を生きて、その間の話をしてやるのだ。そんな思いを抱きながら高明は今を生きている。
製本にした中の九。
原稿に追われている時期に、月の光が眩しいくらいに綺麗な日がありました。ちょうどこの展開を書いている最中に煮詰まっていたので作中に入れた……という裏話。