「──晨星落落」

夢に出てくる彼女は、決まって優しい微笑みを浮かべている。
高明が声を掛け、問いを投げ、応(いら)えを促しても、返ってくるのはやんわりとたおやかな瞬きや頷きだけ。言葉もなく慈しむような眼差しで高明を見つめている。ただそれだけだった。
そして目を覚ました高明は思うのだ。

(……嗚呼、そうだ。優しい人だった。穏やかに見守る表情がとても柔らかで、慈しみという言葉がこれ以上ないくらい似合う人……)

目頭が熱くなるのを止められない。
彼女との会話が、穏やかに言葉を重ねていく時間が好きだった。共に歩む日々が幸せであると、当時の高明は迷いなく信じていたのだ。
一つ事象が違えば、タイミングがずれれば、彼女と出会う事なく生きていく世界線があったのだろう。そう考えたことがある。
恐らくそれでも特に高明の人生は大きく変わりはしなかっただろう、とも。それが、この上ない幸福だと思った。彼女と出会えただけで充分過ぎるのだ。それ以上は望めない程に。
だからこそ余計に彼女を知りたいと思った。高明の事を知ってほしいと思った。
しかし今となっては、何を考えていたのか、感じていたのか、知らぬまま終わってしまった事があまりにも多い。まだまだ全然話し足りない。

(──紗弥。君にとっての幸せを、僕は一つでも多く増やせただろうか)

ふとした時に記憶を辿っては、そんな思いが浮かんでは消えず、高明の胸を締め付ける。
カーテンを開ければ、そこにはまだ夜の色を残した空が広がっている。起床にはまだ早い時間だが目が覚めてしまった。じわりじわりと白んでいく空をしばらく見つめて、高明はぽつりと呟いた。

「──晨星落落」

明け方の星が一つ一つと消えていくように、大切なものが消えていくその悲しさよ。
その瞬間ばかりは、慣れてはいけないものだと高明は思うのだ。
どれ程苦しく、哀しく、やりきれない思いに苛まれるのだとしても。


□


久方ぶりの休暇を迎えた高明は、本棚を前に立っていた。
整然と並んでいたはずだというのに今はだいぶ規則性のない並びになってしまっている。忙しさにかまけてしばらく本棚の整頓を疎かにしがちだったのだ。
空いた隙間に差し込んだのであろう一冊を手に取り、それが妻の私物だったと気付いてハッとする。彼女の私物にはあまり触れないようにしていたのだ。
しかし何を思ったか高明の手は自然と表紙をめくっていた。ぱらっと軽い音が立つのと同時に微かな音を立てて何かが落ちる。拾い上げてみれば、それは一通の封筒だった。

「……これは」

そう呟いたきり高明の視線は封筒に釘付けになった。正確には封筒に記された文字に。
宛名は高明。
切手は貼られていない。
そして、見覚えがありすぎる筆跡は──妻のものだった。 
深く息を吸う。指先が震えそうになるのを抑えて、慎重に封を開けた。中身は枚数にして二枚。その手紙を開くまでの間にかかる時間がやけに長く感じる。

〈この手紙を読んでいるということは、なんて、ありきたりな書き始めになってしまうことをお許しください〉

目を通した瞬間、ぶわりと鳥肌が立った。一行目から視線を逸らすことが出来ない。
一点を見つめたまま読み進めることが出来ない。
心臓が早鐘を打っている。
はくりと口を小さく開閉させて、高明は一度手紙を閉じた。手近な椅子に座り込むと再度手紙を開く。
そして一つ息を吐き、改めて手紙へと視線を落とした。

一体彼女は、どのような気持ちでこの手紙を書いたのだろうか。か細く、どこか乱雑な文字。筆跡から伝わってくる当時の状況。悪化する体調の中で綴ったのであろう事は容易に想像がつく。
ここにあると言う事は、この手紙を書いたのは入院中ではない筈。入院中の荷物は全て高明がこの手で片付けたのだから。
つまり、完全に体調崩す前には既に覚悟を決めていたというのだろうか。自分の命を落とすことになるかもしれないという事を。
時が経ち、柔らかな思い出として整理ができようかとした頃に、こうして突如として現れた彼女から向けられた意思。生々しいくらいに鮮烈なその文字、そして言葉。
それらを胸の真ん中で受け止めて、高明は己が全然平気ではなかった事に気がつく。

〈──もしもこの人生の先にまた別の生が待ち受けているとして、その時はどこか導かれるように、あなたとまた出会いたい〉

この一文を呼んだ瞬間、高明の胸にこみあげてきた感情を何と例えれば良いだろうか。
高明の視界がジワリと滲む。

「──そうだね、僕もそう思うよ、紗弥」

辛うじてそう呟くと同時に、パタタと涙が落ちて手紙を濡らした。
慌てて拭うも高明の意思とは関係なく涙が溢れて止まらない。次から次へと頬を滑り落ちては上着と床を濡らしていく。

(ああ、困った。涙が止まらない……)

泣くつもりなど全くないというのに、涙は止まることなく溢れ出る。
大切な人が去ってしまったこの世界に、こうして支障なく生きることが出来ている。薄らと悲しみが纏わりついてはいるが常という訳ではない。
それがこんなにも苦しく、寂しい。
高明はこれ以上手紙を濡らさないよう机の上へと避難させ、片手で両目を覆った。


□


──待ち侘びた春が到来した。
彼女を想起させる、花綻び命が芽吹きゆく季節。
身を切るような冷たさは若干和らぎ、徐々に過ごしやすい気温に近づいてきている。とはいえ吹き抜ける風に感じる肌寒さは健在だった。
梅が咲き、それが散り。近頃は桜の花がほころび始めている。真白ばかりだった世界に色が差し込まれたようだった。
高明はかつて妻と歩いた道を一人で歩きながら、えも言われぬ感情に襲われて足を止めた。
ふと、桜の花影の中に懐かしさを覚える影を見た気がしたのだ。もう見ることのないはずである妻の後ろ姿。ハッと息を呑み、次いで我に返ると静かに瞑目する。
花々を見ると、やはり彼女を思い出す。
たおやかな髪、透き通るような肌、柔らかさを体現したような眼差し。
しかし弱さは感じさせない人だった。いや、感じさせないように振舞うのがあまりにも上手だった、と言った方が正しい。
いつしか消えてしまいそうな印象を抱いたのは一度や二度では無かったが、本当に高明の前から消えてしまうとは思いもしなかった。
きっとこれからも同じように、ふとした瞬間に妻を想う。もう見ることの叶わない面影を追う。飽きもせずにずっと繰り返していくのだろう。何度でも愛する者の居ない春を歩いていくのだろう。
それでも忘れたいとも、忘れようとも思わない。
なぜならば、その悼みもまた妻を感じさせる一つでもあるのだから。何一つとして取りこぼすつもりなど無いのだ。
 
心に深く根差す彼女を想起させるこの季節を、高明は待ち侘びて過ごしていた。
やはり好ましく感じる季節である。不意に強く吹いた風に攫われた花弁が、空へと舞い上がった。それをしばらく目で追いその行方を見送る。やがて再び歩み出したその足に迷いはない。
──こうして高明は己の中に息づく妻と共に生きている。


陽春を待ち侘びて
しむや瑞雨





花綻びるや夢見月。
──今日も今日とて、諸伏高明は愛妻家である。


■2025/4/7/
製本にした中の十。
本編項目に掲載するのはあと二ページ分ありますが、これにて大筋は終了です。
締めの言葉、ちょっと気に入ってます。でも、改めて番外編も含めて全部見返すと、この連載の中で高明さん掃除ばっかりしてるな……って。ちょっと反省。


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