「その後は大事有りませんでしたか?」

立て続けに発生する事件。終わらない捜査。いつの間にか増えている部下の失態と始末書。
何故こうもタイミング悪く重なるのか、一つ一つは大した内容ではなくとも高明の手を入れなければならない案件が休む間もなく次々と舞い込む。塵も積もれば何とやら。自覚しないままに徐々に疲労は溜まっていく。そこにトドメと言わんばかりにやってきた季節の変わり目による急激な温度差。
度重なる激務の末、高明は体調崩した。もともと体調を崩しやすいわけではなかったというのにしつこい風邪の症状に苛まれる羽目になったのだ。

(ここまで酷い症状も、久々ですね)

熱はないものの咳が止まらない。喉と鼻腔が炎症を起こしていると自覚できるほどに腫れている。その所為もあって上手く酸素を取り込めないのか思考も纏まらない。あげくには受け答えにも妙な間が発生する始末。高明自身も良くない傾向だと市販薬を服用していたにもかかわらず症状は悪化の一途を辿った。
動作が緩慢になりつつある様子を見かねた上司から「これ以上悪化する前に病院へ行ってこい」と早退を促され、県警近くに所在するクリニックを受診したのだ。それに大人しく従うだけの判断力は残っている。
その後に立ち寄った薬局で調剤された薬の受け渡し──投薬にあたってくれたのが彼女だった。

「──諸伏さま、諸伏高明さま、二番にお越しください」

目の前のテーブル越しに座った女性が一度出会ったことがある人物であると、しかも自分が傘を貸した女性であると高明は認識できなかった。たった一度出会っただけの相手であることに加え、珍しく思考が働いていない状態だったのだ。致し方ない事であろう。

「こんにちは、薬剤師の向野と申します。よろしくお願いします」

にこやかに軽く礼をした女性の名札を高明はさりげなく確認する。最早これは癖のようなものだ。
──薬剤師、向野紗弥。それが彼女の名だった。

症状の聞き取りから始まり、処方された薬の説明へと移行する。ちょっとした仕草、声、話し方に高明はどこか既視感を覚えてならない。初めて会った気がしないのだ。思い出せないながらも頭のどこかに引っかかっている。
うまく働かない思考に若干の焦心を抱きながら簡潔でわかりやすい説明を聞いていた。

「……そしてこれが毎食後に一錠服用するお薬です。説明は以上になります。何かご不明な点はありましたか?」
「いえ、特には。問題ありません」

高明の返答に一つ頷いた彼女が何かを言いかけるも、結局言葉にはならず口を噤む。

「では会計に移らせていただきますね。少々お待ちください」

惜しくも端数分の硬貨を所持していなかったため告げられた金額よりも大きい紙幣をトレーに置いた。領収書を事務員が用意する間、二人の間に落ちる僅かな沈黙。数拍の後、意を決したように彼女は再度口を開いた。

「……あの、先日は傘を貸してくださりありがとうございました」

そこでようやく高明は既視感の正体にたどり着いた。雨の中で途方に暮れていた女性か、と。
そして純粋に驚いた。纏う雰囲気が全く違っていたのだ。いや、光の下では受ける印象が異なる、と言うべきだろうか。薄暗い雨天の中で血色悪く見えていたこともあって、浮世離れした消え入りそうな印象すら抱いたというのに今はそれが見る影もない。

「いえ、当然のことをしたまでですから。その後は大事有りませんでしたか?」
「はい。おかげさまで。とても助かりました」

彼女──向野の表情が柔和に綻ぶ。しかしそれも一瞬で曇ってしまった。

「御礼にお伺いしたかったのですが、その、中々足を運ぶことも出来ずに時間ばかりが過ぎてしまい……先日の折り畳み傘も今この場に無くてお返しできず、申し訳ありません」
「礼など不要ですよ。それに場所が場所ですから、尻込みなさる一般の方も多いのでお気になさらず。それから、傘は差し上げると……ああ、しかし、そうですね」

律儀だな、と高明は頭の隅で思う。
本当に返却など不要なのだ。どのように告げれば彼女が気負わずに済むか、そう考えるも思考が纏まらない。体調不良が地味に影響していた。
このまま説得するか、彼女の厚意を受け取るか、高明の中で天秤が徐々に後者に傾く。
会話の合間にも事務員が釣銭を乗せたトレーを向野に手渡して去っていった。彼女はそのまま金額を確認し、そっと高明の前に置く。

「お越しくださるのでしたら事前にご連絡いただければ、こちらとしても助かります。本部に居ないことも間々ありますから」
「! 承知しました、その際には一報入れさせていただきます」

名刺は渡しているのだ。個人の番号は書かれていなくとも県警本部と内線番号は記してある。
ほんの少し表情をやわらげた彼女に、ふと高明は僅かに首を傾げた。先日のやり取りが頭の片隅を掠める。

(旅行で訪れていたわけでは無かった、ということですか。名刺を渡したこともあって私の所在は明らかになった。ならば、返却せねばと考えるのも致し方ありませんね)

彼女は旅行で来ていたものだと思っていたが、こうして近場で働いている姿を見る限りどうも違うようだ。確かに彼女の言葉とスーツケースから勝手に旅行を連想しただけある。そして、こちらに来たばかりという言葉が何を指しているのかもまた、高明の予測でしかなかった。
パシリと目を瞬かせた目の前の男をどう思ったのか、向野は当たり障りのない表情でニコリと口端を上げた。そこに若干の苦さが含まれていることに気付かない高明ではない。

「実はこちらに引っ越してきたばかりだったんです。……あの日、長野に来て初めて話したのが貴方で良かった。気にかけてくださりありがとうございます、諸伏さん」

到着した矢先にあの雨だ。幸先が悪い。そう思っていたのだと彼女は言う。僅かに下がった眉に、何故か車で通りすがった瞬間に抱いた違和感が脳裏を過ぎった。その理由(わけ)を掴みかねて一瞬高明の眉間が寄る。しかし彼女の表情は先日とは打って変わって明るい。その事実に高明の肩から徐々に力が抜けていく。

「お役に立てたのでしたら何よりです。……では、そろそろお暇させていただくとしましょう。ありがとうございました」
「はい、どうぞお大事になさってください」

やわらかく細められた双眸、穏やかに弧を描く唇、向けられる眼差しも労りの言葉もあたたかい。それこそ心の底から向けられたのだと分かる程に。体調もそうだが、本人の自覚ないままに心も疲弊していたものだから余計に優しさが身に染みる。
どこか軽くなった気がする身体を引きずって高明は薬局を後にしたのだった。


■


再度彼女との関わりを持ったのは、県警本部に彼女が訪れた──ことからではかった。巡回を終え、本部に戻る前に昼食を調達するため立ち寄ったコンビニ。その一角で高齢女性に呼び止められた彼女が値段を読み上げている場面に偶然居合わせたのだ。
高明の耳に滑り込んできたのは、視力が弱り値札の値段が読めずに困っていた、という会話。さりげなく様子を窺えば彼女は穏やかに対応している。

(あれは確か……向野さん)

純粋に優しい人だと思った。
彼女の職業上、体調の優れない者を相手にすることばかりである為それが当たり前のことなのかもしれない。しかし高明はその姿を見てどこか胸がじわりとあたたかくなっていくような心地だった。
不思議なことに気持ちが伴わなければ自然と声色や態度に出てしまうものだ。他者に向けた配慮や心遣い、それを当たり前のことだと行動するのは簡単なようでいてその実なかなか難しい。それを彼女は自然体でやってのけていた。たった二度ほど会話を交わしただけの相手に対して何を分かったように。高明は内心でそう思うものの柔和な印象が根付いてしまったのだ。そんな自己分析をしつつも頭の隅に追いやる。
──一度目の印象はどこか消えてしまいそうな雰囲気を纏った危機管理がしっかりした人。二度目の印象は真面目かつ律儀。そして三度目の今は、優しく美しい人だと思ったのだ。外見だけではなく内側まで。
高齢女性がレジに向かったことを確認し、高明は買い物を再開させた彼女に声を掛けた。

「奇遇ですね、向野さん」
「えっと、……あ、諸伏、さん? ……ごめんなさい少し大きな声を上げてしまっていて」

一瞬首を傾げた向野は咄嗟の返答に詰まったようだった。顔と名前が一致しなかったのだろう。眉を下げ、あわあわと若干の焦りを見せた彼女に高明は自身の表情がどこか和らぐのを自覚した。

「いえ、むしろ褒められるべき行為でしょう。謝罪の必要などどこにもありませんよ」

本心からの言葉を口にすれば向野はホッとしたような表情を見せる。それを見止めて自然と上がる高明の口端が機嫌の良さを雄弁に語っていた。時間帯的に彼女がこの場に居ることで考えられるのは高明と同じく昼食の購入。二時を少し過ぎた頃という昼食には少し遅い時間ではあるが、彼女の職場からの距離を考えれば妥当なところだ。それを問おうと高明が口を開くも声にならずに終わる。何故ならば。

「おい高明(コウメイ)、そろそろ戻らねぇとどやされるぞ!」
「そう大きな声を出さずとも聞こえていますよ敢助くん。今行きます」

共に巡回にあたっていた大和が険しさを滲ませて高明を呼びに来たからだった。

「……コウメイ?」

向野が不思議そうに小さく呟く。確かに高明への呼び掛けではあるが、彼女が知る読みとは異なる響きだ。
ぱちくりと目を瞬かせた様子を見下ろして、高明は以前名乗った際にあだ名については省略したことを思い出す。

「ええ。……名前はご承知の通りですが、名前を音読みにしたあだ名でコウメイとも呼ばれています。好きなようにお呼びください」

そして、そう言いはしたものの彼女からあだ名で呼ばれる事は無いのだろうとも思った。たった三度の邂逅だが律儀で真面目という印象が強い。余程気心知れた近しい相手では無ければ呼び名を崩すことは考えにくい。
高明の推測通り、彼女はやんわりと笑うことで特に踏み込むことなく曖昧に躱している。

(全く、敢助くんも間の悪い……)

大和に急かされた以上あまり長居するのは得策ではない。あの幼馴染は中々に気が短いのだ。つまりは会話を広げる間もなく終了を告げられたも同義。
嘆息が零れそうになるのを押し込めて高明は近くにあるカゴを手に取った。おにぎり六つ、漬物二つ、少し悩んで総菜二つ。最初から買うものを決めていたかのように品物を次々とカゴに入れていく。
あとはレジに並ぶだけ、という段階になって高明はハタリと動きを止めた。このまま彼女と別れるのをどうにも惜しく感じたのだ。まだ折り畳み傘の返却を受けていないこともあって再会の機会はあるというのに。

「向野さん」
「はい」

そう言った所で高明は一度言葉を区切った。どう切り出せば不信を煽らないかと僅かに思考する。
彼女が県警本部に足を運ぶ日を待っても良かったが、先に手を打っておきたかったのだ。

「今度、傘を返しにいらして下さる時に少々お時間を頂戴出来ますか?」
「え……?」
「実はあの雨の日、貴女とは再び会う事もないだろうと考えていました。人の世は合縁奇縁。図らずもこうして三度もお会いしたというのも不思議と縁を感じて、これきりとするのも勿体なく思ってしまった所でして」

ぱちくりと目を瞬かせた向野の目を真っ直ぐに見据えて高明は言葉を続ける。

「しかし貴女ともう少し話をしてみたいと考えた矢先に今この状況です。ならば確実にお会いできる時にでも、と。いかがでしょうか?」

互いに視線が逸らされることはない。
もしここで断られるならば、それはそれで別に構わなかった。むしろ初対面だった雨の日の様子を考えると断られる可能性も十分あると念頭に置いたうえでの提案。彼女にとって高明はたかだか三度出会って僅かに会話を交わしただけの相手なのだから。落ち着いて話す機会が得られなくとも致し方がない事である。
どこか見透かすような眼差しでジッと見上げてくる彼女の瞳から目を逸らすことなく高明は応えを待つ。

「私は構いませんが、刑事さんはお忙しいものではないんですか……?」

どことなくか細くかすれたような声で問うの眉が若干下がっている。警察に対して抱いているイメージがどことなく見えてくるというもの。それに緩く首を横に振って高明は口を開いた。

「事件などが起きなければそう忙しいこともありませんので、全く問題ありませんよ。……そもそも我々警察が動くことが無い状態が本来望ましいことですから」

その答えを受け、緩慢に目を瞬かせた彼女の表情は変わらない。果たしてどう感じたのだろうか。流石に心の内までは洞察力に優れた高明でも読み取れなかった。

「では、時間に余裕を持てる日に伺う旨の連絡を入れさせて頂こうと思います。えっと、よろしくお願い、します……?」
「ええ、こちらの方こそよろしくお願いいたします。貴女と話が出来る時間が楽しみです」
「……恐れ入ります。あの、お気をつけて」
「はい。お気遣いありがとうございます。では後日お待ちしていますね、向野さん」

こうしてか細い繋がりを上手く手中に収められたことに対し、後の高明は過去の自分に賞賛を送ることになる。我ながら良く繋ぎ止めた、と。

──数日後、本来の目的である傘の返却自体は特筆する事もなくすんなりと終わった。一瞬沈黙が落ちたものの、互いに昼食を済ませていなかったこともあって昼食を共にという提案が浮かんだのは自然な事と言えよう。高明が先手を打っていたことにより彼女も余裕を持たせて予定を組んでいたのだ、ある種の予定調和といった所か。
食事中の会話も思いのほか弾む。その事実が純粋に高明の胸をくすぐった。他愛のない会話を続ける中で感じるのは話しやすさ。妙な安心感すら覚えて肩の力が自然と抜ける。間の取り方が心地良いのだ。
──彼女とは、それこそ長い付き合いになるかもしれない。この時の高明は既にそんな確信すら得たような妙な心地で居た。

なお、向野との会話の中で、若干の行き詰まりを見せていた捜査に関する解決の糸口を高明が秘かに見出したというのは全くの余談である。


■2024/3/24/
 2024/3/26/末尾に加筆修正
次は高明さんがちょっとヒヤッとした出来事について触れる予定。


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