三本の尻尾�A
彼女の職場は県警本部とそう離れていない。それもあって、両者共に長めの休憩時間や早上がりの日には外出する回数が以前よりも増えていた。
特に、天気の良い日はどちらともなく一報を入れるのだ。事前にそれとなく都合の良い日を知らせあっているため互いのスケジュールはある程度把握している。それを踏まえた上で相手の都合が良さそうな日に向けて予定を窺う連絡を入れるのだ。
双方共に多忙であることは承知の上。基本は一言なりスタンプなりの反応があるのだが、それすらも難しい状況下に置かれていることも無いわけでは無い。特に高明の方が。
そんな事情もあり、メッセージを送りはするものの断られることを前提として動いていたりする。前日までに返信が無ければ対応不可。それが暗黙の了解のようになりつつあった。
予定や空き時間が被ることなどそう多くはない。だからこそ数少ない逢瀬がより特別なものに感じるというもの。
この日もまた例に漏れず、無理なく予定を合わせられそうだと双方が断じたからこそ実現した逢瀬だった。彼女の勤務は午前のみで午後は自由の身。そこに公休だった高明が時間を合わせたような形で落ち合ったのだ。
夏も過ぎ、外を出歩いても身体への負担が少なくなってきている。半袖で居るには肌寒く、長袖で居るには汗ばむ。そんな微妙な季節。
少し遅めの昼食を終えた二人の行き先が公園になったのは単なる偶然である。もしかすると外をぶらりと歩きたがる猫の習性が影響しているのかもしれないが、高明も正直な所あまり自覚はしていない。
何せ彼女と共に時間を過ごせるということが何よりも重要なのだから。場所に拘りはないのだ。
昼日中ということもあって広い公園内は閑散としている。
どこでどうなったか、いつの間にか二人の間で交わされる会話の内容は小難しいものになっていた。身近といえば身近。しかし多くは自ら進んで話そうとしない部類の内容。──人間と妖との能力について。
妖の中には時を重ねていくごとに、もしくは成長と共に姿を変えていくものがいる。それは妖の要素を持って生まれた人間もまた例外ではない。稀に居るのだ。成長と共に自身の中の妖の形が変化していく者が。
そしてそれは──
「私も最近まではただの猫又でしたからね」
高明自身にも当てはまる事でもあった。
「今は猫又ではない、ということですか」
「ええ。三十路を越えた頃に尾が三本に分かれました」
尻尾が三本、と目を瞬かせた彼女に高明は一つ頷いた。猫又の尻尾が二本に割けているのは想像できても三又は想像しにくかったのだろう。少しばかり説明を加えることにした。
彼女をベンチに座るよう促し、不自然ではない程度に距離を詰めてその隣に腰を下ろす。ついでに周囲をウロチョロしていた力の弱い妖を指打して遠ざけておいた。
高明は妖の力を持つ人間の中でも先祖返りに値する程に力が強いため、純粋な妖の中でも彼には敵わないモノが存在するのだ。
「──猫魈、といいます。実は猫又であっても歳を重ねれば誰でも成れるというわけではないんですよ」
「そうなんですか?」
「ふふ、そうなんです。一生猫又のままの同族も散見できますから、ある程度の条件は有るようで」
「ほぁ、じゃあ高明さんはよっぽど優秀なんですね、すごい……」
くつくつと小さく喉を鳴らして高明は笑った。純粋な賛辞がどこかくすぐったい。彼女に褒められて悪い気はしなかった。
「貴女に見せたことはありませんでしたね。良ければご覧になりますか?」
「えっと? それはどう……」
彼女が言い切るよりも早く、高明はその身を溶かした。輪郭がぼやけて姿が変わる。瞬く間に彼女の視界から消えた人物の代わりに居るのは見事な毛並みの黒猫。すらりとした体躯がちょこんとベンチの上に行儀よくお座りしていた。
夜を溶かし込んだような毛並みは艶やかで陽光を受けてきらめいてすらいる。三本の尾は三つ編みに一纏めにされている為か随分と太く見えた。
「触れても構いませんよ」
「えっ」
「貴女にならば、良いです」
高明の眼は、彼女の手がどこか誘われるように一瞬浮いたのを見逃さなかった。
──そして冒頭に戻る。という訳である。
深呼吸を終えたが、まだ動揺を落ち着かせることが出来ずにいる彼女を見上げて高明は両眼を僅かに細めた。
キュッと唇を引き結んだまま情けなく眉を下げているのが、どうにもいじらしく思える。
「び、びっくりするじゃないですか……心の準備というものがですね? あるんですよ……」
「ふふ、それは失礼しました」
「面白がってるでしょう」
「いいえ?」
高明は首を傾げて誤魔化した。猫の姿を解かないままであるため、ちょっとした仕草でさえも可愛らしく見える。それを自覚した上での行為。つまりは確信犯だった。
案の定ぐっと言葉に詰まった彼女はこれ以上何かを言うのを諦めたようだった。
「それにしても、綺麗な黒猫さんだったんですね。確かに諸伏さんの髪もお綺麗でしたし納得です」
「──、」
へにゃりと相好を崩して彼女が笑う。
しかし、高明は若干の複雑さを覚えて僅かに視線を泳がせた。褒められたのは高明が生まれ持った本来の毛並みではない。仕方がないこととはいえ、そのことに言いようのない不安と不満を抱いてしまったのだ。
「……実はこの毛色は、私の力で黒に見せているだけなんですよ」
「え?」
だからきっと、こんなことを後先考えずに開示してしまったのだろう。後の高明はそう語る。
「本当は三毛なんです」
そう告げるや否や、艶やかな黒い毛並みが波打つように色を変えていく。高明が自らの意思でカモフラージュのために施していた変化を一段階解いたのだ。
とはいえ、周囲への警戒も怠ってはいない。彼女以外には自身の変化など悟らせないだけの力も技術も高明は持ち合わせていた。いや、この場合は過去に習得していた、努力の賜物、とでも言うべきか。いかな強い力を持つ高明とて自衛のための手段を習得しなければその身が危うかったのだ。
ほんの瞬きの合間に纏う色を変えた猫を前に、彼女は声もなく驚きを露わにしている。見開かれた目がまん丸だ。それが普段は冷静な彼女をどことなく幼く見せている。こうも高明の事で表情をくるくると変えてくれるという事実に胸の奥が疼いた。
「自分で言うのも複雑ですが、純粋な猫ではなくとも三毛のオスは貴重ということで狙われやすいんです。何でも、高値で取引されるとか」
「……純粋な猫じゃなくても、って、そんな重大なことを私に話してもいいですか?」
神妙な表情で彼女は問う。その疑問も尤もだろう。心配からか眉はハの字に下がっていた。
「ほら、誰かに話してしまったりとか、そんな事を考えたりしないんですか」
しかしその問いに対し逆に高明の方が首を傾げた。
何故彼女はそんな疑心を抱くのだろうか? と言外に疑問を浮かべている。そして事も無げにこう告げた。
「しませんよ。貴女は誰彼構わず言いふらすような方ではないと知っています。そして、例えそれが見当違いだったとしても、信じたいと勝手に思ったのは私の方なのですから」
それはそれで自分の洞察力が未熟だったということ。実力不足ということです。そう言葉を続けて高明は静かに瞑目する。それは深く染み入るような声だった。
何か、とてつもない事を言われたような感覚に襲われて、彼女は背筋を伸ばす。
「諸伏さ──」
「──いいんです、貴女になら」
再三似たようなことを呟いて高明はゆるりと立ち上がる。
そう、彼女になら許せることがあまりにも多い。不思議な程に。
薄く両の瞼を閉じた高明はその額を彼女の腕に擦り付けた。次いでぐっと身を乗り出せば高明と彼女の鼻先が限りなく近づく。ギリギリ、本当に寸前のところで触れてはいない。しかし触れたような感触があった気がした。そんな絶妙な距離。
一瞬何が起こったのか把握できずに彼女は硬直した。目をぱちくりとさせ、視線を高明の方へと落とせども綺麗に混じった艶やかな三色の毛並みしか見えない。
「……、……? ……?」
いわゆる鼻キス。この際、触れたか触れないかなど最早些事である。
今の感触は何? 声にこそ出てはいないが彼女からそんな副音声が聞こえてきそうだった。いつの間にか解かれた三つ編みの尾は彼女の腕に絡みついている。
硬直したまま目を回しそうになっている彼女の動揺など気にも止めず、高明はその細い手首に自身の頭を擦り付けた。
深く息を吸い込めば鼻腔をくすぐる彼女の匂い。職業柄、常に医薬品を扱うためか微かに苦みが混じっている。高明にはそれすらも甘く感じる。自身の匂いや妖力と、彼女自身の匂いが混じり合う。それが堪らなく心地良い。
「も、ろ伏、さん……」
「何でしょう」
「あの、今、いやさっき、何を」
「……最近、貴女が可笑しなモノに付きまとわれていると仰っていましたね」
「え、あ、はい」
明確な答えは得られない上に唐突な話題転換。
ゆぅらりと小さな頭を上げながらの言葉を受けて彼女は目を瞬かせる。
「なので、ついでに厄介除けのまじない事でもしておこうかと」
「厄介除け」
「はい」
そこで何故「なので」と繋がるのかを理解しきれなかったが、彼女は一先ず必要な行動だったと認識した。
しかし、詭弁である。広義で言えばあながち間違いではないが、特別に物理的な接触を増やさなくとも厄介除け──妖除けは可能だった。高明が行っているのは周囲へと向けた牽制のそれである。しかも様々な意味合いを含ませた。
澄ました顔の裏で幾重にも策を練り巡らせているというのがこの男の恐ろしいところだ。
ぱしぱしと目を瞬かせた彼女が視線を落とせば高明は既に黒い毛並みに戻っていた。若干首を傾げたものの、そんなものなのか、と納得してしまった彼女は完全に誤魔化されている。
外見が猫ということもあって感覚が麻痺してしまっている感は否めない。だが良く考えなくとも相手は高明なのだ。あまりにも近距離すぎる。
そうして簡単に納得してしまった彼女を前に高明は若干居心地悪げに四肢を動かしては姿勢を正す。自分がそう仕向けたとはいえ少しばかり不安になったのだ。他にも簡単に信じすぎてはいまいか、騙されやしないか、と。
何しろ彼女を付け狙う存在というのは人間であれ妖であれ高明が知る限りでも実際多く出現しているのだから。
はあ、と堪え切れなかった溜息が落ちた。ついでに肩も落ちる。
「……隙がありすぎて心配になります」
彼女からの絶対的な信頼を得られたという点に関しては喜ばしい事である。しかしそれが高明に対してだけだという確証はない。
徐々に元気を失いしょんもりと伏せ気味になる耳。髭も見るからに力なく垂れ下がっている。
「何ですか藪から棒に」
「以前から何度も申し上げていることではありますが、相手が只人であるとは思わずに行動してください。他者へ悪意を持って干渉してくるような、人の道理など通用しない、お構いなしの連中など幾らでも居ます。……現に、今も私の能力で誤魔化しているのかもしれませんよ?」
「え」
「徹頭徹尾、周囲からはただの黒猫に見えていたかもしれません」
「え?」
「私の言葉は猫の鳴き声にしか聞こえておらず、先程貴女が気にしていた内容を聞かれる心配など無用だったかもしれません」
「え、えぇ?」
「そもそも人間の姿のままに見えているかもしれませんし、会話の内容はとりとめのないものにしか聞こえていないかもしれません」
「待ってください諸伏さん? あの、え?」
随分と意地悪く優しくないことを言った自覚はあった。
矢継ぎ早に言われた言葉に彼女は目を白黒させている。わたわたと体を揺らす様子に加虐心と庇護欲を掻き立てられて仕方がない。彼女が高明の言葉で狼狽えれば狼狽えるほど、力を失っていた耳と髭が徐々に復活していく。そんな己の変化すらおかしくて高明は内心で自分自身に呆れた。現金なものだ。
「私も、化かすのは得意なもので」
くつくつと喉を鳴らす黒猫は小さく肩を竦める。
揶揄われたのだと悟った彼女は一瞬にしてその表情を曇らせた。
「忠告ですよ。油断大敵、もう少し他者に対して疑いを持ってください。獅子身中の虫が近くに潜んでいないとも限りませんから」
「…………持ってますよ、警戒心。ちゃんと他の人には。今うっかり信じかけてしまったのは諸伏さんだからです」
その声はズルい。説得力がありすぎる。そもそも貴方は騙そうとする人じゃないでしょう。などと続けながら、彼女はうろんと視線を逸らして言い訳がましく呟いた。
高明の瞳孔がキュッと細まる。三つ編みに戻った三本の尾がぶわりと膨らんだのは一瞬だった。一拍置いてゆらりとご機嫌に揺れる。
「……諸伏さんがこんなにイジワルになっちゃうこともあるなんて知りませんでした。それとも……そのお姿の時は猫ちゃんの感覚に近くなる、とかだったりするんですか?」
若干口を尖らせてそう呟く彼女の声色に混じった拗ねたような色。少しばかり揶揄いすぎたかもしれない。高明は頭の隅でそう呟いた。
まあ、だからと言って改めるわけでは無いが。
猫の姿に引きずられてしまっているというのは若干自覚していることではあった。こうしている間にも後頭部で一つに結ばれた彼女の髪が風に揺れる様子に、うずうずと手が動きそうになるのだ。反射的に行うか行わないか。それが動物や妖と妖の要素を持った人間との違いだと高明は考えている。
ジトリと半眼を向けられるというのも珍しく、ある意味で新鮮さを覚えて自然と揺れる尻尾。高明は口を開こうとし、はたりと動きを止める。真正面から彼女の眼を見て告げたいことがあるというのに視線が近い高さに無い。
(彼女の瞳が、遠い)
考えたのはほんの一瞬だった。姿を変化させた時と同様に、瞬きの間に人の姿へと戻る。
何の前触れもなく再び眼前に現れた端正な顔立ちに彼女が硬直したのは仕方がない事だと言えよう。
「奇遇ですね。私も、自分にこんな一面があることを貴女に会ってから知りました。姿に引きずられているというのは、まあ否めませんが」
ハッと息を呑む音を高明の耳は確かに捉えた。
それが果たしてどう意味なのか。察せない彼女ではないはずだ。
真正面から二人の視線がかち合う。互いに目を逸らせない。まるで見つめ合っているような構図だ。先程の言葉と射貫くような眼差しを受け止めた彼女の頬にじんわりと朱が差していく。その様子を高明は満たされたような気持になりながらずっと見ていた。
じわじわと甘さが滲み始めた眼差しに耐え切れなくなり、先に視線を逸らしたのは彼女の方だった。
「……ところで、あの、本当は周囲にどう見えてたんですか?」
「ン。ふふ、秘密です」
「諸伏さん!」
妙に甘ったるくなりかけた空気を霧散させるように、苦し紛れに絞り出された問い。高明は思わず言葉に詰まりながらも茶目っ気たっぷりに微笑んだ。
──これは彼女が終ぞ知ることはなかった事実。
一組の男女がベンチに座って談笑していたことも、突如として猫が現れたことも、代わりに男の姿が消えたことも、全く持って不思議なことに誰一人として認識していなかった。
つまりはそういうことである。
願望をこれでもかと詰め込んだ結果がこれ。満足。