些細なこと



これはやってしまった。

想像していた完成よりも随分と短く切りすぎてしまった前髪。鏡を片手に何度確認しても、戻れ、戻れと暗示をかけてみても当然切ってしまった髪が元に戻るはずもなく私は大きくため息をはきだした。

どうしよう、しばらくは帽子でも被って誤魔化そうかな。何にせよこのままじゃ恥ずかしくてノボリに会えない。

「名前?」

「わああああ!」

突然背後から聞こえた声に思わず大きな声が出てしまった。なんてタイミングだ。慌てて振り返ればそこには目を丸くしたノボリの姿。

「なんでノボリがここに!」

「お姿が見えなかったので探しに」

探してくれたのはすごく嬉しい。嬉しいけれど今は違うんだ。いけるのか、誤魔化しきれるのか私。嫌な予感ばかりが募る中、ノボリの視線は先ほどから一点に向いていた。

「名前、ひとつお聞きしたいのですが」

「な、なに!?」

「先ほどからなぜ額をおさえているのです?」

「これは違うよ違うからね!ちょっと自分の熱を計りたかっただけ!」

「熱…?まさか具合でも悪いのでございますか!」

ぐいっと腕を掴んで引き寄せられたのならば私の目の前に心配そうなノボリの顔。整ったお顔立ちにこんな状況でもときめいてしまう。けれど今はそのときめき以上に前髪を見られてしまうという危機感の方が勝る。

「悪くない悪くない!」

「顔も赤いようですし」

「それはノボリが」

「わたくしが?」

「なんでもない!」

風を起こす勢いで前髪を抑えていない方の手を振り、それとなく、やんわりと距離をとる。このままじゃバレてしまうのも時間の問題だ。どうしたものかと頭で考えを巡らせ、たどり着いた答えはひとつだった。逃げるしかない。

ノボリと視線を合わせたまま私はゆっくりと距離を広げていく。一歩、また一歩。大丈夫、このままいけば逃げられる。

「どこへ行くのです」

私が必死の思いで広げた距離をあっという間に縮めたノボリ。心配そうに顔を覗き込む姿に少しの罪悪感。

「本当に具合が悪いのではないですか?」

「本当に大丈夫!いつも通り元気だよ!」

「でしたら一度その手をどかしてくださいまし」

「それはできない…!」

だって手をどかしたらノボリに前髪を見られてしまう。それだけはどうしても避けたい。そう、思うのに。

「わたくしはあなたさまが心配なのです」

ノボリの言葉に申し訳ないという思いはどんどん膨らんでいく。やっぱり私はどうしたってノボリには敵わない。

「あのね、」

「はい」

「前髪切りすぎちゃって」

「前髪、でございますか?」

「うん。帽子被ろうかなとか色々考えたんだけどとにかくノボリに見せるの恥ずかしくてだから本当に熱があるわけじゃなくて…!」

ただ隠したかった。それがわかってもらえるように恐る恐る額から手をどける。私の緊張感を感じ取っていないのか、ノボリは不思議そうに首を傾げた。

「短い。そうでしょうか」

「そうだよ!」

「確かに以前よりは短いですが名前は名前でございます」

当たり前のように言ってのけたノボリに言葉を発するわけでもないのに思わず口が開いてしまった。あんなに気にしていたのに、見られたくないと思っていたのに。ノボリの言葉ひとつで私の気持ちはふわふわと宙に浮くようで。

「じゃあこんな前髪でもすきでいてくれる?」

「もちろんでございます」

優しく頭を撫でてくれたかと思えば額に柔らかな感覚。それがノボリの唇だと気づいたとき、私の視界はノボリの帽子で妨げられていた。溢れる嬉しさはどこかくすぐったい。隙間からこっそり見えたノボリの真っ赤な顔は帽子のお礼に内緒にしておこう。