夏のせいにするには




暑い。口に出したところでどうにもならない事がわかっていたとしてもこれが言わずにいられるか。床に大の字で寝転がりながら自らの手で風を起こしてみるけれど、悲しくも照りつける夏の日差しの前では何の気休めにもならなかった。せめて今だけでも世界中が涼しくなってくれたらなあ。叶わない願い事を何度も考えてしまうほどに暑さに思考を奪われる。宇宙センター前の自販機で買ってきたサイコソーダはあと一口でなくなってしまいそうだ。

視界にちらつくクーラーのリモコンが、今だけはこの部屋に置いてあるどんな石よりも輝いて見える。ダイゴさんも珍しい石を見つけたときはこんな輝きを見出しているのだろうか。一生理解出来ないと思っていた感覚をまさかこんなところで体感するとは思っていなかった。手を伸ばしてしまいたい。いいじゃない!と囁く夏の悪魔に、さすがに人様のお家のクーラーを家主がいない間につけるのはいかがなものかという常識がなんとか打ち勝つ。

「暑い……」

我慢出来ない暑さではない。神経を集中させれば開けた窓から風が吹き込んでくるような気がする。多分。とびきりの青空と入道雲が憎い。

「暑い……」

「うわ!?暑い!」

何度目か忘れてしまった独り言に初めて返事が返ってきた。体制を変えることはなかったが、さすがにほんの少しの恥じらいから足だけは閉じて呆れ顔の家主を迎える。

「おかえりダイゴさん」

「ただいま。家にあるもの好きにしていいって言っただろう?熱中症になってからじゃ遅いんだよ」

「あー…水の石おでこにあててたら怒ります?」

「それは怒るね」

「とりあえずダンバルを貸してください」

「ダンバル?いいけど…」

ボールから出てきたダンバルを全身で抱きしめる。ダンバルの冷ややかな体はまるで氷の抱き枕のようだ。目を閉じてその冷たさを確かめた。生き返る。鋼ポケモンはゴツゴツしていてピカチュウのようなかわいさは求められないけれど、ダンバルにはダンバルの、そしてダイゴさんの手持ちのポケモンたちにもそれぞれ違ったかわいさがある。突然の全身ホールドにも嬉しそうに鳴き声をこぼしたダンバルは間違いなくかわいい。

「涼しいーーかわいいーー」

「もしかして飲み物すら何も……ああ、サイコソーダは買ってきたんだね」

目は閉じたまま、それでも機械音と涼やかな風が吹き込んだことでクーラーが起動したことを知る。灼熱地獄が一転、まるで天国だ。文明社会は素晴らしい。

「サイダー、甘いね…」

「飲んだんですか?」

「ぬるくなったサイコソーダほど夏に飲みたくないものはないよ。冷たいものいれるね」

うっすらと目を開ければサイコソーダの温度と甘さにやられたのか渋い顔をしたダイゴさんが映る。職業柄仕方がないとはいえこんな真夏にスーツだなんてかわいそうに。飲み物は私がいれますから着替えてきてください、なんて言葉は考えただけでやめた。やっと訪れた涼しさに身を預けていたいというのが一番だが、ダイゴさんのスーツ姿も少し理由に含まれている。細い体型がより際立ち、気品と強さが漂いながらも負けず劣らずお顔も整っているので、スーツマジックと言うべきではないのかもしれないがこの姿がなかなかに好きだ。それにしてもやっぱりダイゴさんはチャンピオンなんだよなあ、そうだよなあ。このホウエン中の誰もが知る当たり前をふとした時に再認識する。

「どうしたの?」

「いや、例えめちゃくちゃ暑い日でもチャンピオンがジャージで出てきたら嫌だなって」

「……何の話?」

「独り言です」

手が届く距離に置いてあったホロキャスターを人差し指で引き寄せて、画面に映し出された時間はちょうど14時。意外だ、もっと遅い時間かと思っていた。自らの体感もあるが、午前中だけの仕事の日とはいえダイゴさんがこんなに早い時間に帰ってこれるなんて、一年にそう何回もある事ではない。

「帰り、もっと夜遅くなるのかと思ってました」

「僕もそんな気がしていたけど会議が案外すんなり進んでね。リーグからも連絡はなかったしこのまま早く帰らせてもらったんだ」

「ここ最近毎日遅かったですもんね」

「うん。でも、君の様子をみたら本当に早く帰ってこられてよかったと思うよ」

「私は暑さに負ける女じゃありません」

「そういう問題じゃない」

少し怒った。こういう時にあれこれと余計な事を言い返すとよくない結果になってしまうのは過去に何度か経験しているので黙って起き上がるだけにしておく。腕の中でダンバルが不思議そうに私を見上げる。私は口角をあげてその頭を撫でた。すっかり冷えきった部屋に響くのは麦茶が注がれ、からからと氷がぶつかる音。ぼんやりと状況に浸れば不思議としあわせを感じた。

「毎日、ダイゴさんが早く帰ってきたり、休みだったらいいのに」

「それは随分と石集めが捗りそうだ」

「ダイゴさんくらい強かったらトレーナー業だけで生きていけるのになあ」

「うーん、大変な事もたくさんあるけれどチャンピオンの仕事も楽しいからね」

「楽しいならいいんですが…私みたいなのでもたとえダイゴさんがいなくてもトレーナー業だけでなんとか生きていけます」

「僕がいなくなってもいいの?」

「そういう話ではなく」

「冗談だよ」

麦茶を手渡されたその手はそのまま私の頭を撫でる。それはこの前ポチエナを撫でていた手つきと同じだ。いいんだけど、いいんだけどね。髪の毛も元より崩れてしまっていたからよしとしよう。

「もう少し落ち着いたら休暇をとれると思うから、行きたいところを考えておいて」

「はい!ミクリさんのコンサート!」

「休暇が取れない気がしてきた」

「なぜ!」

「確かにミクリのコンサートは素晴らしいよ、素晴らしいんだけどさ」

「だけど、なんですか」

「誰だってあの流れからは別の答えを期待するよ」

「ダイゴさんと一緒ならどんなところに行っても楽しいですっ」

「僕が悪かった」

「失礼な」

ダイゴさんの笑い声を聞きながら冷たい麦茶を喉に通らせた。おいしい。やはり夏の飲み物は冷えたものに限る。自らの分の麦茶を注ぐダイゴさんをぼんやりと眺めながらホウエンの様々な場所を思い返す。単に行きたい場所とそれにダイゴさんが居てくれるのではまた目的が変わってくる。それでも結局、行き着く答えに嘘はなかった。

「考えてみたけどダイゴさんと一緒ならって言うのは本当かもしれません」

「君は本当にさあ…」

「ダイゴさんは?」

「それを僕に聞くの?」

「確認は大切です」

「そうだねえ…」

顎に手を当てながら考えるフリをして、ダイゴさんはこれから完璧な答えをくれる。頼んでおきながら油断をしていると嬉しさに顔が緩んでしまうので、私は気を引き締めて言葉を待つ。

「秘密」

「明日ミクリさんの公演のチケット取ってきます」

「冗談だよ」

「ちゃんと」

「ちゃんと?」

「ちゃんと!!」

ムキになる私に軽快な音をたてて笑ったダイゴさんはとても無邪気だ。そんな笑顔で私の油断を誘おうとしたってそうはいかない。

「もちろん、どこだろうと君がいるなら」

そうはいかないはずなのに、それでもやっぱり緩んでしまう。ダイゴさんはずるい。グラスに残っていた麦茶を一気に飲み干して、私は自らに集った熱を冷やした。クーラーはついている。麦茶は冷たい。それでもやっぱり、暑い。