恋するおんなのこ
レッドくんはたまに空を見上げている。特に何をするわけでもなく、強いて言えば相棒であるピカチュウの頭を一定の速度で撫でるくらい。初めは考え事をしているのかと思ったが、それは当の本人からあっさり否定されてしまった。晴れの日ならば日向ぼっこも兼ねているのかと微笑ましい。けれどそれが曇りやら雨やらはたまた雪の日でも見かけることがあるので、いくらレッドくんが人より丈夫でもさすがに心配になる。
実は大きな悩みを抱えていたりして。考え事をしていないというのは私を気遣った嘘で、誰にも言えないもどかしさと戦っているのかもしれない。そう考えたならば、たちまち不安になった。不安になったけれどそれだけではその理由も解決策もわからない。当然だ。いくら考えたところで私はレッドくんではないのだから。今だけエスパーの力でレッドくんの思考が私に流れ込んでくればいいのに。もしかしたら力になれるかもしれないのに。
「いい天気になったね」
こんなとき私が行動派でよかったと思う。エスパーの力を諦めたのが1時間前、お気に入りのクッキーを片手にレッドくんの隣に座ったのが2分前。特に私が隣にいることを疎ましく感じていないとわかったのは僅かに座るスペースを空けてくれたからだ。大きな木の下、葉の隙間から溢れる日差しは暖かい。
「昨日の雨が嘘みたいだよ」
「どうしてわかったの、ここ」
「なんとなく?」
「そう」
嘘です色んな人に聞きました。少女漫画のようなセリフを一度でいいから言ってみたかっただけ。あとで聞いた人たちにはしっかり口止めをしておかなくては。レッドくんからすれば私がここにいる理由にあまり興味はないようで、視線はまた空に奪われてしまった。少しだけ青い空が憎い。かといってレッドくんに見つめられては心臓が感情を吸い込みすぎてしまうので、やっぱり空に預けられてよかった。
「クッキー買ってきたの!」
「……」
「大丈夫、期待を裏切らないメイドインケーキ屋さんです」
「何も言ってないよ」
「じゃあ手作り」
「それはない、かな」
「え!?」
喉の奥で押し殺すように笑う姿が嬉しくて、数秒前の私に感謝したい。バトルでみせる鋭い眼差し、ポケモンたちと触れ合う穏やかな表情。レッドくんのすきなところを挙げたならばそれはもうキリがなくなってしまうけれど、その中でもとっておき。レッドくんには笑ったときの柔らかい雰囲気が一番よく似合う。叶わない贅沢を言うならばそれが私だけのものになればいいのに。
「ねえ」
「ん?」
「どうしてチョコ入ってるやつにしたの」
「どうして、どうして、うーん…それこそなんとなくかな?」
「そう」
「もしかしてチョコ嫌いだった!?」
「ううん、逆だよ」
「すきってこと?」
「うん、すき」
もう一度言って欲しい。声が作り出そうとしていた浮ついた言葉は慌てて自制のハンマーで粉々にした。反則だ。そうじゃない。私に向けられたものではないと痛いほど現実をわかっていたとしても心臓は正直に鼓動を速くした。チョコチップクッキーでここまで満たされる私は幸せ者だけど、同時にチョコチップクッキーを羨ましいと思う私はとても残念だ。思いを誤魔化すように頬張ったクッキーの甘さには何の罪もないというのに。
「レッドくん」
「なに?」
「今日の私は一味違うんだよ」
「うん」
「すごく頼れるオーラを出してるつもりなんだよ」
「おいしい」
「ねえ聞いてる?聞いてた?」
「聞いた方がいいの」
「もちろん!あ、いやレッドくんが聞くというよりは私がレッドくんの話を聞くというか」
「……うん?」
食べかけのクッキーを口に運ぶ事を中断して、レッドくんの瞳は今度こそ私を捉えた。まずは聞き流されずに興味を持ってもらえたことを喜ぶべきだ。ここから上手いこと話を聞きだすためには私の手腕が試される。これでも頭を悩ませて考えてきたのだ。最も理想的なのは私がいるよと抱きしめる少女漫画の展開。レッドくんは弱々しくも私の背中に腕を回してくれる、わけもないので即却下。そんなシナリオ通りにいくならば私は今頃ミュウを10匹引き連れて全地方を束ねるチャンピオンにでもなっている。女の武器を使うならば私に隠し事はなしだよと一筋の涙を右目から流す方法も有力だ。残念ながら私はそんな立場にいない上に瞬きを我慢しても肝心の涙が出てこないのでこれもなし。この前見た映画ではあんなに泣けたのに涙は都合よく言うことを聞いてはくれない。
「な、なんでもない!忘れて!さっきのなし!」
考えは全て、レッドくんの前ではちっぽけで浅はかだ。駄目だなあ。そもそも素直で真っ直ぐな心配にあれこれ欲を纏った飾りをつけてしまった時点で、私の気持ちは心配ではなく自己満足に変わっていたのかもしれない。どうしよう。たどり着いたのは何とも情け無い無計画の感情。それでも不思議そうに首を傾げるレッドくんをこのまま困らせておくわけにもいかない。
「……変なの」
あたふたしているうちにレッドくんの視界から私は消え、また空に奪われてしまう。私の視界にはいっぱいに、全部に、レッドくんが広がっているのに。変だと言われることは珍しくはないので今更傷ついたりはしないが、結局は何も進歩がない展開に溜め息をつきたくなる。その宛先は他でもない私だ。たくさんの反省を持ち帰って、今日はレッドくんとおいしいクッキーを食べれただけでもよしとしよう。
「たまに」
顔を向けるスピードはものすごく早かったと思うから、レッドくんの視線がこちらに向いていなくて本当によかった。空気は決して重くはなかったはずなので、気を遣って話し始めたのではないことはわかる。そもそも口数が少ないレッドくんが沈黙を気にするとは失礼ながら想像し難い。
「雨でも空をみるんだけど」
「そ、その話…!!」
「その話?」
「あ、いや、なんでもない。遮ってごめんね。何回か見かけたことがあるよ。雪の日も」
「前に考え事なんてしてないって話して、それ、覚えてる?」
「覚えてるよ!ずっと覚えてる!」
「ずっと?」
「ずっとはそういうずっとじゃなく!と、とにかく覚えてるよ!」
「なら、それ違ったから言わなきゃと思って」
言いたいことはいつだってたくさんあった。けれどそれは私だけで、レッドくんから私に何かを伝えたいなんてことが今までにあっただろうか。いや、ない。もしそんなことがあったのなら私が忘れるはずがないのだから。レッドくんの言葉を待つしかないその時間はすごく長い時間だ。レッドくんの1秒と私の1秒は同じはずなのに全く違う時間に思えた。
「雨の日は明日晴れたらいいって考えてた」
「え?」
「ん?」
「え?」
「……なに」
「すごくすごく申し上げにくいけど、考えてたことってそれだけ?」
「うん」
「ちなみに空を見上げる理由って…」
「ただぼーっとしてるだけ。前に話さなかったっけ」
完全に言葉を失ってしまった。期待していなかった、といえば嘘になる。先ほどの反省も長くは続かずにまた浮かれてしまうのは私の悪いところだ。結局わかったことはそもそもレッドくんに悩みなどなく、本当に本当に何も考えず空を見上げていて、単に空と晴れの日がすきだという事。私の心配の結末は心が温かくなるような話だったというわけだ。いい教訓が出来た。何でも早とちりはやめよう。
「晴れた日は旅立った日を思い出す」
「レッドくんが旅立った日?」
「ん、少し前の話だけど」
「その日は晴れていたんだね」
「ちょうど今日みたいに。大切な日だった」
旅立ちのレッドくんを私は見ることが出来ないけれど、レッドくんの横顔を見ればその時の様子を覗くことが出来たような気がした。きっと今と同じように瞳は期待に輝いていたのだろう。眩しくて見とれてしまいそう。
「そんな大切な事、他の人に話したりは…」
「しない。きみだけ」
「わ、私だけ…」
「うん」
「どうして私に?」
散々反省してきたあとだから期待するのはこれで最後にしよう。先ほどの教訓に習って都合のいい早とちりはしていない。それでも隠しきれない正直さが集まって顔を熱くさせた。手をぎゅっと握りしめれば指先にまで熱が映る。そんな私にレッドくんは少しだけ口元を緩めた。
「なんとなく?」
それはこれ以上ないずるい答えだったから、レッドくんはきっともうとっくに私の欲しい答えを手に入れている。どこから気づかれていたのか。一枚も二枚も上手なレッドくんに私は軽く眩暈を覚えた。