同じ時間を歩いてくれた人




画面の中、自分の指示に忠実に従って戦ってくれる小さな生き物が大好きだった。たとえデータだとわかっていたとしても私にとってはかけがえのないパートナーだったのだ。7つのバッチを集めた。四天王だって何回も倒した。ゲームの中で私は最強のポケモントレーナーだった。

「ほんと、びっくりしたんだぜ。俺とレッドがバトルをしている最中にどこからか突然あんたが降ってきたんだから。しかもカイリキーとカビゴンのバトルだぞ!?咄嗟に踏みとどまれたから大きな怪我にはならなかったのが不幸中の幸いだった。なあ、あんたどうして降ってきたんだ?誰かにやられたのか?」

「あの、」

「ん?」

「お手洗いに、行ってからでも、いいですか」

「あ、ああ悪い。場所わかるか?」

「大丈夫だと思います」

カイリキー、カビゴン。よく知っている名前だ。間違いない、ここはポケモンの世界だ。データとして、アニメとして、想像の中だけで生きる生き物たちが現実として生きている世界。それでもこの人たちのことは思い出せない。いい人たちなのか、悪いひとたちなのか。わからない。怖い。わからない。ふらふらと立ち上がれば足に痛みが走ったが、今はそれ以上に頭が痛い。

お手洗いに行くだなんて真っ赤な嘘だ。立ち上がった時にようやく目があった、もう1人の男の人の瞳は不思議と何もかもを見透かされそうで私は痛みを振り切り駆け出した。どこに行くの?わからない。どうして私はここにいるの?わからない。わからない。わからない。それだけが頭の中をぐるぐると回り続ける。

走って、走って、走って、いつしか眠っていた建物を飛び出してしまった。外に出て、日差しが暖かいことに気づく。病衣のまま飛び出してしまった私を行き交う人たちが不思議そうに見ている。目の前に広がっていたのは賑やかなお祭り会場のような場所だった。思わず口元から掠れた笑い声が溢れる。ここは、ああ、懐かしい。以前にクリアしていたゲームを思い出す。この場所で一番になるために自慢の相棒たちを鍛えてバトルを挑んでいた。ポケモンワールドトーナメント。強者が集まるポケモンバトルの祭典だ。

「なんで……」

この世界のことを覚えている事実がまた私を不安にさせる。肝心なことは覚えていないのにどうしてこんなことだけわかるのよ。

「あの、大丈夫ですか」

「ひっ」

「あ、驚かせてごめんなさい。でもあなた病衣だったから。それにここ最近あった事故の被害者に似ているような…?」

親切心で話しかけてくれたのか、それとも手に握られているマイクから察すれば取材のネタのためか。最初は前者だったのかもしれないが、私がネタになる人物だとわかるとマイクを手にした女性は少し興奮しているようだった。大声で遠くにいたカメラマンを引き寄せる。その間にも頭から雨のように降ってくる質問。嫌だ。わからないって、言ってるでしょ。言葉は声にならず、私はまた全速力で駆け出した。息があがる。呼吸が苦しい。全身が痛い。背中から聞こえてくる声から逃げるように、浴びせられる視線から逃げるように私はただただ走った。

祭典の賑やかさよりも自分の息のあがる音の方が大きくなったとき、石に躓いて転んでしまう。膝から溢れた血が丁寧に巻かれていた包帯に滲む。何をしているんだろう。これが転生やトリップなのだとすればどうして私はこんなにもボロボロになっているのか。じわりと視界がぼやけていく。帰りたい。帰りたいのに帰る場所がわからない。倒れた姿勢のまま、起き上がることもせずにただ両手で砂を握りしめた。どうか夢であってほしい。このままもう一度意識を失えば何もかもが元どおりであると教えてほしい、誰でもいいから。

「なに、してるの…っ」

聞こえた小さな声には焦りや戸惑い、色んな感情が含まれているような気がした。涙でぐしゃぐしゃの顔を上げればそこには先ほどの帽子を被った男の子がいた。息がきれている。もしかして、走って私を追いかけてきてくれたのだろうか。

「きみ、ポケモン持ってないでしょ。外に出たら……」

言葉は途中で途切れ、彼は私の顔に自らの帽子をかぶせた。そして優しい力で私を抱き起こしてくれる。手が触れたところが温かい。ゲームやアニメの中じゃない。彼も、そして私も生きている証だ。

「歩ける?」

「……」

「すぐに戻るとか言わない。きみが落ち着くまで。約束する」

小さく頷いた私の返事を待ってから彼は私を支えたままゆっくりと歩き出した。歩くペースも足取りがおぼつかない私に合わせてくれている。この世界に来てから初めて私に時間を合わせてくれた。それだけのことなのにすごく、すごく、嬉しくて涙が止まらない。