bug-3 06
※夢主目線※
「学校行ってくる。外は危ないから、ちゃんとイイ子で待ってろよ」
そう言って彼は、わたしの首元に残した噛み痕を撫で、キスをしてから家を出た。
詳細は知らないが、どうも彼の仲間が呼びに来たらしかった。やり取りの中で、「へぇ、オレと同中じゃん」と明るい声を出していた。
外は危ない、の意味が全く分からなかったけれど、とにかくわたしは一人になった。靴は持って行かれてしまったし、電話のコードも見当たらなかったけれど、そんなのは些細なことだ。彼が学校につくまでどれくらいかかるのだろうか。時計を見て必死に考える。その一方で、大人しくしていた方が身の為、誰かが助けに来てくれるのを待つべき、と別の考えが過ぎった。
大人しくしていた方が「安全」なのは確かだろう。けれど、誰かが助けに来てくれるかどうかは全く保証がなかった。ずっと鈍い胃痛が続いているし、ほとんど眠れていない。不正出血なのか何なのか、薄っすらと血が出ているし。それにアフターピル……何時間以内だったかは忘れたけれど、時間を置かずに飲めば最悪の事態もきっと回避できる筈だ。
だいたい、このまま監禁生活が長引けば、逃亡するだけの体力もなくなってしまうに違いない。
チャンスがあるなら攻めるべきだ。
由来の分からない高揚感がわたしを支配していた。
とりあえず、彼がここから充分に離れるまで待とう。道順なんて分からなくていい。家を出て、誰でもいいから助けを求めよう。
五分経過し、十分経過し、十五分を過ぎた辺りで不安になった。
彼が引き返してきたらどうしよう。また逃げようとしたことがバレたら、今度こそ殴り殺されるかもしれない。運を天に任せるしかないが、それはかなり分(ぶ)が悪い戦いのように思われた。
どうしよう。
やっぱり、大人しくしているべきだろうか。
いや、チャンスを逃がすべきではない。万が一、戻ってきた彼に会ってしまったら、寂しくてとか迎えに来たとか、何とか適当に誤魔化そう。……いや、ダメだ、今の彼にはそんなもの通用しないだろう。
わたしは現状に頭を悩ませ疲れ、俄かに二年前を思い出していた。
あの頃だったら、言い訳が通用したかもしれない。会話は全然成立していなかったけれど、それでも今よりは怖くなかった。どうしてあの時にちゃんとしておかなかったのだろう。
もっときちんと、彼と向き合っていたら、こんなことにはならなかったのかもしれない。
いやそもそも、きちんと「好きじゃない」と伝えられていたら。
リビングの辺りをウロウロし、立ったまま項垂れては意味のない夢想を繰り返す。
もしも時間を巻き戻せたら。
彼と全く関係のない土地で、平穏に暮らすことを思い描いてみる。
面白い人生なんかじゃなくていい。恋人だっていなくていい。ただ普通に、学校に通って、友人と会話ができて。目立ったイベントも何もなく、そうやって何もない人生を送る。
けど、そんなことできるわけがない。
時間は常に不可逆だ。
わたしはこのボロボロの身体で、泥の付いた人生を生きていくしかない。
現実を思って、涙が溢れた。止まらなかった。
死んだ方が楽かもしれない、いや絶対に帰るのだ、と二つの思いがわたしの両腕を引っ張り合う。どっちでもいい、いやダメだ。生きていればどうにかなる、こんな人生価値が無い。死にたい、帰りたい。床に崩れて、吐きながら泣いた。水みたいな嘔吐物と、わたしの涙が、床を汚した。
少しして急に頭が冷え、怒られる、片付けなくちゃ、と立ち上がり、ティッシュでその汚れを拭った。
何故こんなことをしているのだろう、と床を拭きながら情けなくなってまた泣いた。
彼が帰ってくるのが怖い。
ならいっそ、ずっとここにいてくれればいいのに。そばで見張っていてくれればいいのに。全部なんとかするって言ったくせに。
もういやだ。
わたしがベランダから飛び降りたら、彼はどんな顔をするのだろうか。
怒るだろうか、泣くだろうか。
もういやだ。
少し乾いた風が、肌に心地よい。
足元には、誰もいない。
今なら誰にも迷惑を掛けない。
もう、いやだ。
「何してるのあなた、やめなさい!」
身を乗り出し、足を掛けたところで、横から覚えのない女性の声が飛んできた。
「落ちちゃうわよ、危ないから、降りて!」
見れば必死の形相でわたしの方に手を伸ばし、パタパタと内へ戻るように合図を送っていた。どうやら隣の住人のようだった。彼女の向こうに、ベランダからはみ出したプランターが見えた。赤い花が咲いていた。
言われるがままに足を下ろし、柵から一歩内側に戻る。
彼女には申し訳ないが、少し滑稽にすら見えたその様子のおかげで、わたしは現実に引き戻された。わたしは迷わず彼女に助けを求めた。彼女は、警察を呼ぶから安全なところで待つように、とわたしに言い残し、室内に戻っていった。
残念なことに、安全なところなどどこにもない。けれど、わたしはリビングに戻った。
警察はどれくらいで来てくれるだろうか。
時計を見ると、随分時間が経っていた。
どうして泣いたりしたのだろうか。
どうして時間を無駄に費やしてしまったのだろうか。
玄関のドアが開き、「ただいまぁ」と声がした。
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