サラシバ


2話 刀


 あいつの相手はいつも僕だった。
 手伝いをするのも、食事をとるのも、寝るのも、剣の稽古も。僕が予想していた通り、四六時中一緒にいる羽目になった。
 あいつは誰にでも馴れ馴れしいし、いつもへらへら笑っているから、皆に好かれていた。呼べばいつでも元気よく返事をするし、何でも素直に請け負った。あいつの生活は、ほとんど「うん」と「わかった」で構成されていたんだ。
 あいつは莫迦だが嘘がない、気持ちのいいやつだ、そう言われる事さえあったけど、僕にはただの莫迦にしか見えなかったよ。だから僕は、人前ではあいつを名前で呼んだけど、心の中じゃ「野良犬」とか「猿」とか呼んでいたんだ。

 その猿が、だいぶ人間の生活に溶け込んだ頃、近藤さんに言われて、僕は道場であいつと手合わせをした。
 野良犬相手じゃ試合にならないし、本当は手合わせするのも嫌だったんだけど、僕は承知した。近藤さんに言われたからというのもあるけど、正直、ここらでしっかり、あいつを打ちのめしておきたかったんた。
 僕は目録になっていたけれど、あいつは気が向かないとてんで駄目なのもあって、まだ階を持たなかった。近藤さんは念を押すように、これは剣道の試合だぞ、とあいつに言っていた。

 それでも、実際に始めてみると、見る間にあいつの動きは野生に返って、力任せに竹刀を振った。素早いけれど、分かりやすい太刀筋だからよけるのも苦じゃない。
 あいつの竹刀が大振りになったところで、脇が開いた。そこへ素早く打ち込むと、あいつはさっと身体を倒し、その勢いのまま僕の手元を蹴り上げた。僕は虚を突かれ、竹刀が飛んだ。

 これだから、嫌なんだ。

 近藤さんがよく通る声で、喧嘩じゃねぇ、とあいつを叱った。
 蹴られた手首は赤くなっていたし、竹刀を飛ばされた事で僕はだいぶ腹が立っていた。喉笛を突いて声が出なくしてやろう、とか、気を失うくらい脳天に打ち込んでやろう、とか、そんな事を考えていた。
 防具を付けての打ち合いだって、相手を殺すことはできる。
 今思えば、人生で初めての殺意だったかもね。
 それがあいつにも伝わったものか、再開するとさっき以上にあいつの竹刀はでたらめに動いて、まるで追い回される野犬のように見えたよ。

 やっぱりこいつは「野良公のらこう」なんだ。

 真正面から打ち込んできたのを下がってかわすと、あいつの竹刀は空を斬って道場の床を思いっきり叩き、見るも無残な姿となった。
 竹刀を変える時、近藤さんは、落ち着いてやれ、とあいつに言った。あいつはうんと答えたけれど、分かるわけがなかったんだ。
 僕はなんだか気持ちが冷めてしまった。

 三本試合で、僕は結局さっさと二本とってしまったから、結果は予想通りであいつの惨敗だった。

 手合わせのすぐあと、近藤さんはあいつを呼んで何やら話をしていた。
「だって、そうじのやつは打つのが早いから」
 そう聞こえて、猿の動きには負けるけどね、と心の内で皮肉を言った。

 そんな事があった後、僕の知らない間に、どういうわけかあいつは上達し、浪士隊の話が来る頃には、ちゃっかり目録をもらってたよ。
 近藤さんに訊いたら、あいつは「落ち着く」のやり方が分からなかったんだって、話してくれた。分かるように思っていたけど、やっぱり分からねぇ、と言ったらしいよ。細かに例を挙げて具体的に説明したら、ようやく理解したって。理解したら、途端に上達した。
 僕には訳が分からなかった。それを見抜いてか、近藤さんは「本当に分からないやつだよなぁ」と楽しそうに笑ってた。


 浪士隊の事は、近藤さんを中心に話がまとまって、やろう、となった。僕はその時十九で、勿論その中にいた。そして、あいつもいた。

 いくら腕がたつといっても、あいつは莫迦なんだから、きっと連れて行けば足手纏いになる。近藤さんに、あいつを置いて行こうってさりげなく話した。
正吉しょうきちも男だ。将軍様をお守りすると、心に決めたんだ。分かってやれ」
 近藤さんは諭すように言った。

 届け出の際、姓がないのでは格好がつかない、となった。
 ざまあみろと思ったよ。これであいつは京へ行けなくなる、そう思った。けど、募集の時に言っていた「貴賤老若問わず」というのが本当で、当時浪士隊を担当していたエライ人が、近藤さんの相談に応じ、「仮に近藤姓を名乗らせよ」となった。反対すると思っていたおかみさんまでそれを承諾した。
 多分、そうだな、きっと近藤さんの手配が良かったんだろうね。

 一方あいつは、それがどういう事なのかもよくわかっていなかった。

 正式な養子縁組じゃないにせよ、ただの野良犬が随分な出世をしたっていうのに。
 あいつはただ笑っているだけで、名前も刀も手に入れたんだよ。

 刀と言えば、あいつが腰に下げていたのは脇差一本だった。せっかく近藤さんに大小を勧められたのに、「一本しか振れねぇよ」と言ってそうしたんだ。それで、長い方を一つ、と持たせたら、背が低いからあまり立派なのを挿すとおかしな具合になった。だから、脇差だけを挿していたんだ。

 脇差では竹刀と長さが違うから、自然、間合いも変わってくる。慣れさせるために、何度か巻き藁を斬らせてもらえることになった。

 浪士隊の支度金で手に入れた刀。あいつにとっては初めての真剣だった。
 手触り、重さ、長さ、全てが違う。あいつは満足そうに構えた。
 実際、竹刀や木刀を持たせた時よりも構えはよかったよ。それは多分、間合いがどうのとかっていう事じゃなくて、「真剣」だった事があっていたんだと思う。

 あいつは笑っていた。
 いつものへらへらじゃない、今までに見たことのない顔だった。

 あいつはへまをすることなく、見事に巻き藁を斬って見せた。
 速さも切り口も、申し分のないものだった。
 居合わせた人が口々に褒めた。


 こんなやつ大嫌いだって、心底思ったね。




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