5話 薬
大阪へ行く、と言って出て行った翌日、あいつはこっそりと屯所に顔を出したらしかった。
外を掃いていたはずの千鶴ちゃんが、何かを手に包んで近藤さんを探していたんだ。声をかけると、「おはるちゃんが」って、手の中の紙包みを見せてくれた。昨日のお詫びに、あいつが千鶴ちゃんに持ってきたものだった。中には、椿を模した小さな落雁が一つだけあった。
横から覗き込んだ左之さんが、ませたことをするようになったなぁ、なんて感慨深そうに言って、それが変におかしかった。
もらった本人はすっかり困惑していて、その上、引き留められなかった事をまだ悔やんでたから、暗い顔をしてたよ。
よかったじゃない、後で食べなよ、って言ったら、寂しそうに笑ってた。
それからしばらく、あいつは姿を見せなかった。どうやら、京にも江戸にも、大阪にもいないようだった。
僕は僕で病状が悪くなってきて、戦場へ出るどころか、外へ出歩く事も難しくなってきていた。暇で暇で。外の騒がしいのを聞くと、どうしても気ばかり焦ってさ。嫌な毎日だったな。
長い雨で水かさを増した川を、橋の上から見てるようだった。
「羅刹」になれば、そこへ飛び込んで、それで泳ぎ切れるような、そんな気がしてたよ。
手元に「薬」もあったし、ね。
洒落た小瓶に入っていてさ、鋭い赤い色の液体なんだ。明かりに透かすと、蠱惑的な光を通して、可愛らしいとすら感じたよ。
僕はそれを、ずっと懐に入れてた。いつか、心を決めなければならないと思って。
不本意な流れではあったけど、「薬」を手に入れたのは、偶然じゃあないからね。
近藤さんが御陵衛士の残党に撃たれたって聞いて、翌日だか翌々日だったか、それくらいの頃に、あいつはまた僕の前に現れた。
あいつは袖のない着物にタッツケみたいな袴をはいて、随分動きやすそうな恰好だった。骨ばっている身体の癖に、やたら元気で、それが無性に腹立たしかった。
近藤さんのところへ見舞った後で、「何人斬ったか訊かれた」とか言ってたよ。さすがに言い合いはしなかったらしいけど、また「江戸の方で大人しくしてろ」って話をされたとも言ってた。
止めるのも面倒だから、放っておいたら、ひとしきり勝手にしゃべって、「あ、長居しちゃ悪いか」なんて勝手に納得していたよ。
土産だと言って、あいつは包を置いて行った。後で開けると、中身は琥珀のような色をした飴玉だった。やたらに甘かったけど、嫌いじゃなかったな。それに、不思議と咳が少し治まった。どこで手に入れたのか知らないけど、あいつにしては上手い土産物だったよ。
あいつは僕が「薬」を持っているのを知ってた。勿論、それが人体におおよそどういった効果を及ぼすのかも。
「まだ飲んでなかったんだな」
いつもの調子で、そう言ったんだ。
表情も変えずにさ。あいつは莫迦だから、事の大きさが分からないんだ。
あの「薬」を飲めば、
紛い物の鬼になる。人を超えた治癒力と、強靭な肉体が手に入る。けどそれは、狂気と紙一重の強さなんだ。血に狂って、理性を失う。身も心も人ではなくなるんだ。
役立たずと、紙一重の強さ。
あいつが今、何をやっているのか、どういう立場にいるのか、全く分からなかったし、聞きたくもなかったけど、とにかく薬のことを知ってるって事が酷く悔しかったよ。
濁流に飛び込みたい、飛び込むべきなんだって、強く思ったね。
けど、あいつに嫉妬して飲むようでさ。それだけは嫌だったんだ。
飲まねぇなら、捨てといてくれって。さらっと言い残して、あいつは去った。
結局、それが最後になった。
小瓶を見る度に、手にする度に、あいつの声が聞こえるような気がしたよ。
「まだ、飲んでなかったんだな」
そのせいで、気持ちが冷めてしまうような、そんな感じがした。
別に、あいつのせいで乗り遅れたなんて思っちゃいないよ。
あれからどんどん押し流されて、新選組も散り散りになって、誰がどこで何をしているのかもろくにわからなくなって。
これでも最後の最後まで、悩んでたんだ。
けどさ、江戸へ帰って、久しぶりに姉さんに会って。
小瓶は良順先生が回診に来た時に、渡したよ。
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